高知県旅行記2021年3月-30
旅行期間:2021年3月某日(2泊3日旅)
復習は大事!
高知県内でも風光明媚な景観地として、昔から多くの人々が訪れた「桂浜」。目の前には土佐湾とも呼ばれた太平洋の大海原が広がっているが、江戸時代後期にこの海流に流されて漂流し、最終的にアメリカの本土まで行く日本人が出てくるとは、想像もつかないが・・・。
桂浜を散策!
さて初めてやって来た桂浜だけど、名前の通りに「浜」であった。そして楽しみにしていた有名な坂本龍馬像もこの目で見れて満足したので、そろそろ最初の高台にある坂本龍馬の記念館に戻ろうかと考えていると、この海岸線の先端にある岬に、階段が設置されているのが見える。
桂浜の景色を眺める! 動画
この海岸にはコンクリート舗装された遊歩道が整備されていて、その道を進んで行くと先程見えていた岬の方まで行けるようだ。旅行先ではそこまで計画的に行動する事も少なく、逆にこのように現地で目に付いた物に興味を持って、フレキシブルに行動する事も重要だと思う。
あまり歩かせんといてな!
そしてその道を進んで行くと、このような「龍宮橋」という、まだ綺麗な外観をした石橋が見えてくる。この龍宮橋の欄干には、タマネギの形をした”擬宝珠”が設置されていて、高貴な人物が渡る橋ともなっていた可能性がある。
昔は偉い方が渡る橋のみに、この擬宝珠の取り付けが許されていたぜよ!
桂浜に打ち付ける波を眺める! 動画
さっきの龍宮橋といい、この階段といい、近年に新たに改修されたかのように比較的綺麗になっていた。昔はこのような整備された階段ではなかったかもしれないが、高知県内きっての観光地だけあって、それなりの予算をかけて観光客が訪れやすいように改修したのだろう。
そして上に登って行くと、このように更に土佐湾(太平洋)が目の前に大きく見えてくる。遠くに見えている船もここからだと小さくしか見えないが、実際には近づくとかなりの大きさの船となっている。
海津見神社と早高神社
そしてこちらにあった建物が「海津見(わたつみ)神社」という、『大綿津見神(おおわたつみのかみ)』を祭神として祀っている神社となっていた。この桂浜でも突き出した形になっている岬は「龍王岬」とも呼ばれている為に、この海津見神社は別名”龍王宮”とも呼ばれているようだ。
この場所は昔から「桂浜」という名称だった訳ではなく、”勝浦浜”や”色の浜”などと呼ばれていたという。「勝浦」というと日本全国でもよく耳にする浜の名前だけど、こちらの案内板によると「勝浦(カツウラ)」から「カツラ(桂)」に呼び名が変わっていったそうだ。
「カツウラ」より「カツラ」の方が言い易いぜよ!
この目の前に見える大海原は、”ジョン万次郎が流された大海”というイメージしか湧かない。普段海に接していない人間からすると、海に浮いても遠くまで流されないように思ってしまうけど、実際には考えられない程遠くまで流されてしまうのである。
そしてこの岬は海津見神社だけで終わりではなく、もう一段高い場所まで道が続いていた。ここまで来ただけにせっかくなので、この上まで行ってみる事にする。
そしてその道を登っていくと、このように石碑の上に造られた小さな祠がある「早高神社」が見えてきた。無宗教な人間からすれば、さっきの海津見神社の境内にあるので、どうせなら一緒に1つの祠で祀った方が合理的に思えてしまう。
しかし祀る側からの立場から見ると、他の神様と一緒に合祀するのは無礼極まりない行為なのだろう。仮に共に同じ所で育った兄弟でも、大人になってからは一緒に暮らしたくないと主張する人間を見ているかのようだ。。
この早高神社が建立されているエリアは、龍王岬の中でも高台となっているので、ここからだと桂浜の海岸部分を一望できる。観光シーズンとなれば人で埋め尽くされるだろう桂浜も、この訪れた時にはチラホラとしか観光客の姿が見られなかった。
コロナ禍の影響で、観光客もめっきり減っちょったぜよ!
この桂浜の光景は坂本龍馬がこよなく愛したと言われているが、この辺りに住む人間であれば、誰もが愛する絶景となっていた。個人的にはこのような海岸線になっているというイメージを持たないまま桂浜を訪れたので、この素晴らしい光景がとても印象的だった。
「高知県立坂本龍馬記念館」の見学!
そして桂浜の海岸線を散策し終えてから、メインの「高知県立坂本龍馬記念館」に戻ってきた。この記念館は新館と本館(旧)に分かれているが、入口はこの新館側になっており、さっき見たシェイクハンド姿の坂本龍馬像が置かれていた方が出口の本館となっている。
入口が新館側だったので、館内はこのようにまだ新しい雰囲気の内観となっていた。2018年に新しく建てられた新館なので、まだオープンしてから約3年程しか経過していなかった。
そして肝心の館内は、一部写真禁止の展示品があるものの、それ以外は基本的にフラッシュ無しでのカメラ撮影はOKとなっている。まず最初のブースで動画を見てから、こちらの「ジョン万次郎展示室」が見えてくる。
さて、坂本龍馬の記念館のハズが、まずは土佐が生み出した偉大なジョン万次郎のコーナーとなっている。個人的には足摺岬の「ジョン万次郎資料館」まで足を運んで勉強した身なので、ここでわざわざ万次郎の事についてのブースは必要なかったけど、足摺岬までわざわざ行かない観光客向けになっているのだろう。
復習と思って、もう一度万次郎殿の勉強をするぜよ!
万次郎ヒストリーに欠かせない、一番重要な人物「ホイットフィールド船長」がまず紹介されている。万次郎が土佐湾で漂流し、太平洋の鳥島に流れ着いた際に救助してくれた「捕鯨船:ジョン・ホーランド(John Howland)号」の船長だった人物である。
万次郎殿は日本帰国後、再渡米した際にホイットフィールド船長に再会しちゅーぜよ!
こちらの「デーモン牧師」は万次郎だけではなく、筆之丞(のちに伝蔵と改名)・重助・五右衛門・寅右衛門と他のメンバーも大変お世話になった人物である。ホイットフィールド船長とも親交があった為に、万次郎以外のメンバーも生活に馴染めるように支援した。更には彼らが帰国する際にはわざわざ新聞に彼らの紹介記事を載せ、寄付を募ってまで援助してくれた恩人である。
外国人がこれだけ親切にしてくれたのに、当時の日本は外国人に卑劣な態度を取っていたぜよ!
こちらは江戸時代後期に米国海軍大尉だった「ジョン・ブルック(John Mercer Brooke)」が、海洋探査専門家として太平洋探検の航海に出た際に記した日誌となっている。ブルックは大西洋横断海底ケーブルの敷設にも貢献しており、太平洋にも繰り出して行って横浜まで到達するが、そこで台風に遭遇して乗ってきた船が座礁して破棄されてしまう事になった。
ブルックが不運にも日本から帰れなくなったその時、日米修好通商条約を結んだアメリカに対して正式文書の交換を行う為に、江戸幕府は1860年に”遣米使節団”を送り込む事になった。しかし当時の江戸幕府は鎖国にこだわり続けた歴史から、広大な太平洋を渡った船や経験が無かった。
この遣米使節団には、福沢諭吉も入っていたぜよ!
そこでアメリカはペリー提督が2回目に来航した際にも一緒に連れてきた「ポーハタン号」を日本に送り、その船で送り迎えする事を申し出た。だが江戸幕府としては外国に何もかも手配してもらっては面目が立たないので、数年前にオランダから購入した「咸臨丸(かんりんまる)」を護衛艦として一緒に送る事にした。
約2年程に渡って咸臨丸は長崎海軍伝習所での練習艦として訓練に使用されたが、太平洋の大海原が生み成す激しい波などに揉まれた経験が無かった。そこで白羽の矢が当たったのがこのブルックとその船員で、咸臨丸の運航を補助する名目で招かれたのだ。
そしてこの咸臨丸が太平洋を横断する際に、ブルックと共に万次郎も指南役として乗り込んだ。ただ実際に航海に出てみると、太平洋の荒波に初めて揉まれた幕府海軍メンバーは、その荒波に酔って対応できずにろくな働きが出来なかった。それに対してブルックや万次郎は、太平洋の荒波など全く気にならないかのように船上で船を巧みに操り、無事アメリカ西海岸に辿り着くのであった。
ちなみにこのブルックの日誌は「私の死後50年間は一般公開しないでくれ!」との遺言があった為に、一般公開されたのは1960年頃となった。その公開を50年も後にしたのは、この咸臨丸に乗船していた幕府海軍の人間が無様な様子だったのが知れ渡る事を配慮したからだと考えられているようだ。
咸臨丸の帰国時は、日本人のみで無事帰れたぜよ!
こちらは「英米対話捷径」という、ジョン万次郎が1859年に江戸幕府からの要請を受けて仕上げた本格的な英会話本である。なお、タイトルに「捷径(しょうけい)」という聞き慣れない言葉が使われているが、これは早道や近道という意味があって、今で言う”早わかり英会話本”という物だった。
この「英米対話捷径」は、咸臨丸と共に渡米する遣米使節が出発する前年に発行されている。なのでこれからアメリカなどに行って英会話をしなければならない渡米メンバーへの、英語の教科書的な存在でもあった事だろう。
日本人は国民性として”英語が苦手”という特徴がある。このように英語が苦手なのは、日本人の多くが外国人から発せられた英単語をカタカナで脳内に置き換えてしまうからだろう。国内にはカタカナ表記された英語が多く見られるが、それで逆にカタカナの発音で浸透してしまっているので、本場の発音を聞き取れないのだろう。
「水」は「ウォーター」では全く通じないよね!
万次郎英会話では、「水」は「ワラー」という発音ぜよ!
万次郎は漁師の雑用&飯炊きとして、小さな漁船に乗り込んだ。そして太平洋の大海原に漂流して行くのだが、幸いにも1人ではなく、その船に乗った他4人と共に鳥島に辿り着く。1人だと孤独感に襲われるけど、万次郎からすれば親の年齢位の筆之丞も居たので、仲間と共に助け合って命を繋いだ事だろう。
そんな万次郎一行の命を救ったのは、このアホウドリである。ただアホウドリが鳥島の近くを通過する外国の捕鯨船を見つけてくれた訳ではなく、人間が捕獲しようとしてもすぐに逃げない為に捕まえられて、食べられてしまう事によって人間の命が助かっただけだが。。
この万次郎が凄いのが、捕鯨船で修業を積みながらも、船長にその才能を見出されて、アメリカ本土まで連れて行かれて生き延びた事だろう。しかも勉強熱心で商才もあり、当時のアメリカ西海岸でゴールドラッシュが起きると、自ら西海岸まで足を運んで、”日本人として初めてゴールドラッシュに参加した人物”ともなるのであった。
こちらは太平洋の大海原の海図だが、江戸幕府下で鎖国していた日本にかつて住んでいた日本人とは思えない程に、縦横無尽に太平洋を移動していたジョン万次郎。帰国時の国内には殆ど外国の様子を見た事が無い日本人ばかりだっただけに、万次郎の経験は幕府や藩から垂涎の的となっていた事だろう。
1853年にアメリカのペリー提督一行が浦賀に来航した際には、その巨大な蒸気戦艦を見た事のある日本人が居なかったとされているが、実際にはその前年に帰国していた万次郎だけは知っていたのである。それ以外にも捕鯨で東アジア方面にも航海し、アメリカ以外の国なども様々に見ていたのである。
それに比べたら、この旅行記もクソみたいなもんぜよ!
ハハハ・・・ハが3つ・・・・orz
こちらは万次郎一行を救い出した、捕鯨船のジョン・ハラウンド号の絵。万次郎が漂流したのが数年遅れていたとしたら、アメリカでは捕鯨ブームが終わって西海岸のゴールドラッシュに人々の熱狂が移り変わっていったので、ひょっとしたら万次郎一行は鳥島から出れないままだった可能性もあった事だろう。。
こんな旅はまた次回に続きます!
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