高知県旅行記2021年3月-23
旅行期間:2021年3月某日(2泊3日旅)
藩祖!
高知城の江戸時代から現存する本丸にやって来て、本丸御殿と天守閣を見学した後に、その脇にある「廊下門」も合わせて見学していきます。この廊下門は本丸に入ってくる時に通った、詰門の本丸出口側に造られている建物。
高知城の見学は続く!
約230年ほど続いた室町幕府が崩壊し、各地で新たな勢力が生まれていく群雄割拠の戦国時代となった。天下が平定されている時代とは違って、生き残りを懸けた戦の時代になったので、各地では従来の方式ではなく、新しい物やシステムが導入されていった。それによって戦も専門性が増し、戦専門の兵士軍団を抱えた豊臣秀吉が国内を席巻していった。
こちらは江戸時代になって、土佐に移封されてきた山内一豊の家臣などが、土佐に入国した時に行った”御馭初(おのりぞめ)”の様子を再現した模型。装束を着た家臣達が馬に跨って、街中を疾走していくという御披露目的な行事だったようだ。
ただ土佐では、入国時以降から恒例行事として”御馭初”が毎年正月になると行われていたという。戦の舞台が無くなった江戸時代に、武士の権威を魅せ付ける数少ない場となっており、江戸時代末期まで続けられていたという。
なお、山内一豊が土佐に移封されてきた際には、その前まで土佐を治めていた長宗我部氏の家臣や支持勢力の反発という出迎えを受けた。これは現代社会においても、買収された会社に新しい経営者が出向されてきた時に、その会社の従業員達に反発を喰らう事と同じである。
こちらは土佐の名物ともなっている鰹(カツオ)を加工した”鰹節”を作っている様子が再現されている。昔は今みたいに冷凍技術が発達しておらず、また冷蔵庫という便利な代物も無かった為に、鰹は刺身ではなく燻製にした鰹節にされた。
土佐では鰹が有名だけど、それと共に”捕鯨”も盛んな地域であった。太平洋に大きく面した土佐では、鰹と共に鯨も漁の対象となっており、鯨が一頭獲れれば村が栄える程だっただけに、かなりの富を生む漁だった。土佐では元々は銛で衝く捕鯨スタイルであったが、紀州で行われていた”網取り方”が導入されていった。
こちらには獅子の焼き物が置かれている。ここ土佐藩では「尾戸焼(おどやき)」を行う藩窯が、江戸時代前半に開発された。土佐藩主第2代目:山内忠義の時代に、大坂より職人を招いて高知城北側の小津町尾戸地区にて焼き物作りが行われた。
その後1820年頃に高知城の西側にある「能茶山」に新たに窯が造られると、尾戸地区での操業は停止され、能茶山で行われた「能茶山焼(のうさやまやき)」へと移り変わっていく。そして明治時代になると藩窯は廃止されて、民間窯元が運営される事になり、現在は2軒の窯元がその伝統を守り続けているという。
江戸時代には全国各地でそれぞれに焼き物が作られていたが、「有田焼(伊万里焼)」などの有名処は知っているけど、ここ土佐の「尾戸焼」や「能茶山焼」などは全く聞いた事もない。大名同士の贈り物に使われる程に美しい見た目となっていた焼き物以外の日用品メインだと、殆ど全国的には注目されなかった事だろう。
こちらに飾られているのは、あの坂本龍馬が着ていたという紋付袴だそうだ。(※複製品)
個人的には坂本龍馬に対してあまり思い入れが無いだけに、ピンと来ない。これが西郷隆盛や五代友厚の紋付き袴だったら喰い付いていただろうが。。
こちらの土佐犬の化粧まわしをイメージさせる衣装は、土佐藩15代藩主の「山内 容堂(やまうち ようどう)」所用の陣羽織。(※これも複製)
山内容堂は”幕末の四賢侯”の1人とも言われており、また江戸幕府が政権を朝廷に返上した”大政奉還”を建白(上申)した人物としても有名である。
本丸の二ノ丸側に造られていた廊下門は、敵が城に攻め込んできた際には、その間に架かっていた「詰門」を外して解体し、本丸への侵入者を防ぐ最後の難関として造られた建物である。その為に何も気にしなければ普通に廊下のように思える建物だが、基本的には有事の際の防衛拠点として設計されている。
そしてこちらは土佐で行われていた捕鯨の様子を再現した、結構大掛かりな模型も展示されていた。江戸時代後半に太平洋でアメリカが行っていた捕鯨活動では、「鯨油」だけを目的としていた為に、その材料となる部分以外は全て海に捨てていたという。
アメリカの捕鯨は数年間戻らないので、肉は捨てるしかなかったぜよ!
それに対して日本で行われていた捕鯨は、鯨の巨体全てを余す事なく、解体して活用していたようだ。江戸時代にどのように大きな鯨の体を捌いていたのかと思ったけど、こちらの模型ではロープを引っ掛けて皮を剥していた様子が再現されている。
土佐の鯨漁では、元々は銛を突く漁の仕方だったが、紀州の漁師が行っていた網を掛ける方法を導入し、安定して鯨を捕えれるようになっていったという。鯨漁が盛んだった藩では、年間に200~300頭の鯨を捕獲しており、鯨一頭で4000両前後の稼ぎとなっていたようだ。
ただ鯨漁には多くの人手が必要で、多くの船と漕ぎ手、それと陸揚げした際に解体したりする人員も多く必要だった。なので村全体で鯨を相手にしており、鯨が獲れれば村が栄えたが、逆に鯨が全然獲れないと食い物にありつけない日々を送る事になっていたようだ。
しかし20世紀に入ると、絶滅危惧種のリストに鯨が入ってきて、動物愛護の観点からも大型動物として認識され出して、それに伴って捕鯨活動は世界的に控えられるようになっていった。ちなみに絶滅危惧種といっても、色んな鯨の種類全てが含まれている訳ではなく、その種類の一部だけが絶滅危惧種となっており、鯨全体としては絶滅危惧種と認定はされていない。
ボク世代の日本人であれば鯨の肉をあまり口にした事はないけど、親世代では学校の給食で鯨の肉を食べていたようだ。ちなみに今の日本では、2019年より大型鯨類を対象とした捕鯨業を再開しており、年間決められた僅かな頭数のみ商業捕鯨が行われている。
生き物は他の命を奪って生きる、罪な生き物ぜよ!
そして約30分ほどで、高知城の本丸御殿と天守とその周辺の見学を終える。そこそこにじっくり城内を見学したつもりだったけど、そこまで展示品の量が無かったので、意外と30分程度しか時間は経過していなかった。
こちらの本丸御殿の目の前にあった小さな門は「黒鉄門(くろがねもん)」で、こちらも江戸時代から現存しており、国の重要文化財に指定されている門である。門の外側には”筋鉄(筋金)”と呼ばれた細長い金属で補強されていた建物で、外観は白い漆喰ではなく、板張りで黒く塗られていた事から「黒鉄門」という名前になっているという。
筋金入りの・・・黒鉄門ぜよ!
そして今日は天気がグズついていたので、天守から出ると小雨が降ってきた。ちなみにボクは多少雨が降っても気にしないけど、城に来ていた観光客などはちゃんと折り畳み傘を持参してきていて、傘を差している姿が見られた。
酸性雨浴びると、頭ハゲるで!
藤並公園にある「山内一豊」の騎馬像!
そして城近くにある歴史博物館に寄る前に、高知城東側の内堀を渡った先にある「藤並公園」で、土佐藩の初代藩主となった「山内一豊」の騎馬像を見つけた。こちらの銅像は高知県出身で、高村光雲の弟子であった彫刻家「本山 白雲(もとやま はくうん)」(1871年~1952年没)の作品となっている。
この藤並公園にはかつて「藤並神社」があって、その境内に1913年頃にこの山内一豊騎馬像が設置された。なお、この銅像を製作した彫刻家:本山白雲は、このすぐ近くに設置されている板垣退助の銅像や、桂浜で高い台座の上に乗っかっている坂本龍馬像の作者でもある。
なお、1913年に設置された山内一豊の騎馬像は、太平洋戦争時に”金属回収令”によって回収されてしまう。そして今見られる騎馬像は、1996年になってから昔の形を再現して製作された物になっている。
すぐ近くにある板垣退助の銅像も、同じように再建された物ぜよ!
個人的には土佐藩の初代藩主だった山内一豊の銅像も、もう少し目立つ場所に置いた方がいいのではと思ってしまった。だが今は痕跡が見当たらなくなっているけど、この銅像が当初建造された時には、山内一豊などを祭神として祀る藤並神社の境内となっていた場所なのであった。
戦争で藤並神社が燃えてしまったぜよ・・・
「高知県立:高知城歴史博物館」に立ち寄る!
そして道を挟んだ目の前に見えている、大きな建物の「高知県立高知城歴史博物館」に向かう。2017年にオープンした歴史博物館だけに、まだ外観は綺麗で近代的なイメージを感じる建物となっていた。
この「高知城歴史博物館」は主に幕末~近代にかけての資料が展示されており、土佐藩を治めていた山内家の歴史的な品々も保管されているという。そして山内一豊をイメージした垂れ幕も、やっぱり馬に乗っている姿となっている。
高知城のような歴史溢れる建造物を見学した時は、合わせてその土地の歴史を勉強できる、このような歴史博物館の訪問はマスト(must)である。ただ単に城を見て「良かったね~!」で済ますのではなく、しっかり歴史的な資料や説明を見て、頭にその歴史をインプットしないといけない。
そんなん言われても、記憶に残らんで!
館内はこのようにシックで重厚なイメージの造りとなっている。また館内は基本写真撮影OKだが、当然ながらフラッシュを使用しての撮影は禁止されていた。
さて土佐藩に関しての展示品見学は、次回以降に続きます!
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