アメリカに渡ったジョン万次郎は、教育を施された後に再び捕鯨船に乗り込む【高知県旅行記5】

高知県旅行記2021年3月-5

旅行期間:2021年3月某日(2泊3日旅)

捕鯨は男の浪漫!

高知県 足摺岬 ジョン万次郎記念館 建物

ここは高知県の足摺岬入口に造られている「ジョン万次郎資料館」。江戸時代後半にアメリカ本土まで渡って、動乱の時代を生き抜いて日本に何とか戻ってきたジョン万次郎の人生を、更に勉強していきます!

 

【ジョン万次郎資料館】

住所:高知県土佐清水市養老303
営業時間:8時30分~17時頃
電話番号:0880-82-3155
入館料:大人:440円/小中学生:220円

 

 

 

「ジョン万次郎資料館」の見学!

ジョン万次郎資料館 アメリカ寄港 鯨油樽 写真

こちらは捕鯨の全盛期が過ぎた1870年代に、アメリカの西海岸にあるニューベッドフォード港の風景を写した昔の写真。ポルトガルの2番目の首都でもあるポルトの街でも、同じように木樽が港に並べられていたけど、ここアメリカの東海岸では鯨から採れた「鯨油」が詰められた木樽ばかりが整然と並べられていた。

 

 

ジョン万次郎資料館 アメリカ寄港 鯨油樽 説明2

当時の西洋諸国では、鯨の油が灯油の燃料としてとても重宝されていた。匂いもなく燃やしても煙も出ず、また寒い地域でも低温で凍らない鯨油は灯油だけではなく、機械の潤滑油としても強い需要があった。その為に産業革命に沸いていた19世紀では、鯨油を採る為に鯨漁がアメリカで盛んに行われていたのである。

 

ジョン万次郎資料館 アメリカ寄港 鯨油樽 説明3

捕鯨船では捕獲した鯨はその場所で処理が行われ、鯨を切り刻んで脂肪分を取り出して、船上に用意されている熱した大釜に放り込んで液体にして、木樽に詰められた。そして日本人からすれば勿体ない事に、この時代のアメリカ人は鯨の他の部分は活用せずに、脂肪分だけを取り出すとそれ以外は全て海に捨てていたという。

 

ジョン万次郎資料館 捕鯨を描いた絵

こちらはアメリカのニューベッドフォード博物館に保存されている、「マッコウクジラ漁」の捕獲シーンを描いた作品。人間が乗った小舟に比べると、遥かに体の大きなクジラに接近するだけで危険を伴うのが想像できる。

 

ジョン万次郎資料館 土佐の捕鯨を描いた絵

そのように当時のアメリカでは鯨油目的の為に大量のクジラが捕獲されていたが、同様に捕鯨をしていた日本では鯨1匹を捕獲するだけで村が栄えたとされている程だったので、鯨漁はあらかじめ許可された組しか行えなかった。

 

ジョン万次郎資料館 土佐の捕鯨を描いた絵2

そしてこちらは日本で描かれた、その捕鯨シーンである。似たような舟に乗っての捕鯨だが、日本では網も活用しているのが分かる。日本人は鯨の全てを陸に持って帰るつもりだったので、途中で落とさないように網を掛けて捕獲したのかもしれない。

 

ジョン万次郎資料館 土佐の捕鯨を描いた絵3

そしてこちらには大きなクジラが、人間の乗った船を咥えて反撃している様子が描かれていた。ただ、クジラがこのように反撃したかは定かではなく、人間の脳裏に浮かぶ、勝手に創造されたシーンのようにも思えた。

坂本の猟犬
坂本の猟犬

クジラは肉食じゃないから、嚙みつかないハズぜよ!

 

ジョン万次郎資料館 捕鯨で使われた道具

そして鯨漁も盛んになれば、道具も発達していき、独自の道具が使われていた。一つの産業が発展していくと、それに付随して色んな物が開発・改良されていく人間の歴史は、改めて勉強するとその奥深さには驚いてしまう。

 

ジョン万次郎資料館 捕鯨で使われた道具 説明

こちらのパネルに書かれていたメッセージは、土佐藩の絵師であった河田小龍がジョン万次郎から直接聞き取って仕上げた見聞録の『漂巽紀累』から抜粋された物。

 

なお、昔の言葉だと判りにくいかなと思っていたけど、現代語訳された文庫本が出ているので、案外読み易そうだ。

 

 

ジョン万次郎資料館 捕鯨で使われた道具2

現代だったらジョン万次郎の半生は映画化される程に興味深いストーリーだが、当時はそのような時代では無かったのが残念である。

 

ちなみにジョン万次郎の生まれた土佐清水市では、NHKの大河ドラマで採用してもらう為に署名活動が行われている。ただ他にも大河ドラマで採用してもらおうとしているライバルが多いので、採用される時が来るかは何とも言えない・・・。

 

ジョン万次郎資料館 捕鯨舟 模型

捕鯨活動はこのような小舟に乗り換えて、4~5人1グループで活動していた。そして母船の捕鯨船は、この舟が数隻積み込めるサイズとなっていた。

 

ジョン万次郎資料館 鯨油製品1

こちらには捕鯨活動が全盛時代に、そのクジラから採れた鯨油を使っていた製品類が展示されていた。その当時には全盛を誇っていた産業なども、時代を経ると急速に衰退してしまう事は世の常。人々の移り変わりは激しく、競争が過多になればなる程にその業種から利益が出なくなるので、また別の新しい産業を求めていく事の繰り返しでもある。

 

ジョン万次郎資料館 ナンタケットの橇滑り 模型

こちらには『ナンタケットの橇(ソリ)滑り』というタイトルの模型が展示されていた。捕鯨の際にはロープを取り付けた銛をクジラに打ち込み、そして小舟に巻き付けたロープがクジラが動き回ると共に飛び出すように引っ張られて行く。そのロープに荷重を掛けると舟が引っ張られて、水面をソリで滑るかの如く進んで行く様を表現した言葉のようだ。

 

ジョン万次郎資料館 ナンタケットの橇滑り

なお、「ナンタケット(Nantucket)」とは、アメリカ合衆国のマサチューセッツ州沖合約30kmの所にある島だ。このナンタケットという島は、ニューベッドフォードに捕鯨基地が移る前まで捕鯨産業の中心地となっていた場所であった。

 

ナンタケットの近くで内陸のニューベッドフォードに後追いで捕鯨基地が造られ、当初は2大捕鯨基地として競争していたが、物資の運びにくく喫水が浅い島ではなく、陸続きで物資が運びやすく喫水が深い為に大きな船が入れるニューベッドフォードが優位になっていった。

そしてナンタケットの捕鯨基地としては優位性を失い、更に南北戦争が始まるとそれに合わせて衰退化していき、1846年には島にあった木材や鯨油に引火して大きくなった大火が発生したのが”トドメの一撃”となってしまった。それ以降は見捨てられた島となっていたが、20世紀途中から観光地の開発が進んで、今ではアメリカ国内でも屈指のリゾート地に生まれ変わっている。

 

ジョン万次郎資料館 ナンタケットの橇滑り 模型2

このようにアメリカの捕鯨産業も色んな移り変わりがあり、長く安定してお金を生み出す産業とはならなかった。ニューベッドフォードも捕鯨の最盛期には”世界で1人当たりの所得が最も高い町の1つ”ともなったが、直ぐ後にカリフォルニアで”ゴールドラッシュ”が起きて、捕鯨産業で働いていた人の多くが廃業して西海岸に向かった。

そして鯨油の代用品として石油が使われ出していき、20世紀初頭にはアメリカの捕鯨産業は途絶えてしまう事になるのである。

坂本の猟犬
坂本の猟犬

祇園精舎の鐘の声・・・じゃないけど、世界ドコでも似たようなもんぜよ!

 

ジョン万次郎資料館 再び捕鯨船に乗り込むジョン万次郎 説明

そしてアメリカ本土で約3年程勉強&修業したジョン万次郎は、ジョン・ハウランド号の船員だった人物が船長として捕鯨船を出すのに合わせて誘いにやって来た際に、その誘いを承諾して再び捕鯨船に乗り込んで行く。

 

ジョン万次郎資料館 フランクリン号 模型

こちらの船の模型は、ジョン万次郎が再び乗り込んだ捕鯨船の「フランクリン号」である。2回目の捕鯨船に意気揚々と乗り込んだジョン万次郎は初めてのジョン・ハウランド号時代とは違って、既に熟練の船員レベルに達していたようで、副船長を任される程だったとも言われている。

 

ジョン万次郎資料館 フランクリン号 模型 説明

そしてこのフランクリン号はニューベッドフォード港を出発し、大西洋に進路を取って、アフリカの喜望峰周りでインド洋からジャワ島を抜けて行き、しまいには台湾沖を通過して琉球まで辿り着く。しかし念願の日本(江戸時代当時は正式には日本ではなく、日本の属国であった沖縄)に帰れるチャンスがあったにも関わらず、ジョン万次郎は怖気づいてしまったからか帰国するチャンスを逃してしまう。

坂本の猟犬
坂本の猟犬

いきなり琉球に降り立っても、歓迎してくれる訳じゃなかったぜよ・・・

 

ジョン万次郎資料館 フランクリン号 模型2

そして日本近くの沖で日本の漁師達の船に遭遇するも言葉が通じず、意思疎通する事すら出来なかったという。そしてそれから補給基地となっていたホノルルに向かい、約7年ぶりに戻ってきたホノルルで島に残った漂流の生き残り達と数年振りに再会する事になる。

 

 

ジョン万次郎資料館 紐の結び方 説明パネル

船乗りはこのようなロープの巻き方をまず勉強させられるが、このようなロープの巻き方が今のネクタイの結び方の名前の由来ともなっているようだ。サラリーマンになって初めて毎日ネクタイを着用するようになってけど、個人的には面倒くさがりなので、色んな結び方があるネクタイは邪魔でしかない存在にしか思えなかった。

 

なので”クールビズ”という、無駄なネクタイをしなくていい風潮が広がった事がとても嬉しかったのを思い出す。

最終的には年中クールビズしてました!

オカン
オカン

クールビズというより、最後は私服で会社行ってたやん!

 

ジョン万次郎資料館 館内の景色

そしてホノルルで死んだ重助以外の3人と出会った事で、約7年間の身の上話を聞いていると、筆之丞(のちにハワイで「伝蔵」と改名)五右衛門が日本への帰国を夢見てホイットフィールド船長が紹介した捕鯨船に乗り込んで日本を目指した話を聞かされる。

 

その船で日本近郊の松前地方の無人島に辿り着くが、ホイットフィールド船長に紹介された捕鯨船の船長が「無人島に置いていくという無責任な事は出来ない!」と2人を置き去りにする事を拒否される。それに抵抗するように筆之丞と五右衛門は何度も「無人島でもいいので、ここに残らせてください!」と嘆願したものの、受け入れられずに失意の元、再びホノルルの地に戻ってきたという。

坂本の猟犬
坂本の猟犬

日本は小さな無人島が無数にあるぜよ!

 

ジョン万次郎資料館 名言パネル

こちらのメッセージは万次郎が国内に帰国後に、奉行所で取り調べを受けた際に発言したとされている言葉である。ペリー提督の日誌『日本遠征記』の中でも書かれていたが、鎖国をしていた江戸時代の日本は対外的には交渉すら受け入れない、非人道的な国という評価が多かったようだ。

 

そして交渉するフリをして時間稼ぎをしたりと、非紳士的な振る舞いをする日本の仕業を研究していたペリー提督は、日本人以上に”義”を重んじる態度で対応し、交渉の場には決定権のある高官が来ない限りは自ら顔を出す事はしなかったという。

坂本の猟犬
坂本の猟犬

江戸時代が長く続き過ぎて、日本人から”義”が失われていったぜよ!

 

ジョン万次郎資料館 名言パネル2

そして仲間達に再会した万次郎は物資を積み込んでフランクリン号に再び乗り込み、インド洋を通って約3年振りにニューベッドフォードの港に帰っていった。この大航海で獲れた鯨は500頭以上で、鯨油樽は数千という数になり、万次郎は350ドルほどの報酬を手にしたという。

そして寄港してから程なく、カリフォルニアでの”ゴールドラッシュ”の噂が聞こえてきて、それに万次郎も参加する為に西海岸へ向かう事となる。なお、この時には万次郎の心の中には、「日本に帰るつもりでお金を稼ぎに行く!」という気持ちが芽生えていたという。

 

ジョン万次郎資料館 万次郎帰国への航路

そして万次郎は東海岸から、当時は一番安全だった海路で西海岸へと向かった。その際にも経費節約する為に、材木船の船員として乗り組み、南米大陸をグルッと廻って西海岸を目指した。そしてカリフォルニアでオランダ人の下で金鉱夫として働くが、再三依頼しても給料が払われなかった為に独立して金鉱堀りを行った。

しかし1ヶ月程で体を悪くしてしまって金鉱堀りは諦め、その期間に稼いだお金と金塊を持って、仲間の待つホノルルへ向かうのであった。

 

ジョン万次郎資料館 万次郎帰国への航路 ホノルル経由

そしてホノルルに再び戻ってきた万次郎は仲間たちと合流する。そして奇遇な事にホノルルに居た時に、日本の紀州国(和歌山)の蜜柑船が嵐で漂流していた所を異国船に助けられてホノルル港に寄港する出来事が起きた。そこで万次郎らは蜜柑船の船長に日本まで一緒に乗せてくれるように頼んだが、出航までに船長から奴隷のような扱いをされて頭に来た万次郎がブチ切れてしまって、船に同乗する話は立ち消えてしまう。

 

ジョン万次郎資料館 万次郎帰国への航路 沖縄経由

しかしそれでも帰国を諦めずに機会を伺っていた万次郎は、上海を目指す船を見つけて、一緒に日本まで乗せて行ってくれるように頼んだ。その上海まで行く船は捕鯨船ではなく商船で、「納期通りに荷物を運ばないといけない為に、日本に立ち寄る時間などない!」と断られる。

だが粘り強い万次郎は、「上海まで向かう途中に、薩摩の島々がある。その近くを通る際に、我々は自分らで持ち込む舟を降ろしてくれればいい!」と交渉し、しぶしぶ商船の船長は承諾して日本行きが決まったのである。

そこで万次郎はゴールドラッシュ等で稼いだお金で、中古の舟を一艘購入し、その舟に「冒険号(アドベンチュラル)という名前を付けて、商船に積み込んだ。寅右衛門は頑なにホノルルに残る事を主張した為に、万次郎と伝蔵と五右衛門の3人で日本をめざす事になった。

 

ジョン万次郎資料館 万次郎帰国への航路 薩摩経由

そしてホノルルを出航して約40日後に琉球沖に到着し、冒険号で琉球の島に無事上陸を果たした万次郎一行は、直ぐに役人に拘束されて薩摩藩の代官の調書を受ける。ただ万次郎らが帰国する前にロシアから帰ってきた日本人を厳しく尋問した際に、牢屋内で自殺してしまったという事件があったので、万次郎らは逆に薩摩藩の役人からもてなしを受けた。

そして琉球で約7ヶ月ほど取り調べを受けた後に、万次郎一行は船に乗せられて鹿児島城下に護送された。そこでは海外文化にとても興味を示していた薩摩藩主の島津斉彬公と直々に面会し、アメリカの文化や教育や政治システム、また船の造船技術を説明した。その頃の薩摩藩では海外勢と戦えるように西洋船の建造を幕府から許可を貰っていた為に、西洋船建造の指南も行った。

 

ジョン万次郎資料館 万次郎帰国への航路 土佐の中濱に帰る

それから約2ヶ月後に今度は長崎に送られて、再び長崎の奉行所で尋問を受ける事になる。そこで約2ヶ月に渡って拘留され、所持品も国法で禁止されている物は没収され、アメリカのお金は同等の価値分の日本のお金に換えられた。

その後土佐藩から引き取りが来るのを長崎で待ち、約7ヶ月後にやっと土佐藩の迎えの使者が到着した。この時点で日本に帰国してから約1年半が経過しており、更に土佐藩に到着してから約3ヶ月後に渡る取り調べが行われた。

 

ジョン万次郎資料館 万次郎帰国への航路 説明パネル

1852年10月に万次郎は漂流してから、およそ11年という歳月を掛けて、生まれ故郷の中ノ浜に帰ってきたのである。そして家に戻ってきた万次郎を出迎えたのは、まだ健在だった母親だという。

坂本の猟犬
坂本の猟犬

涙なしでは語れない感動ストーリーだけど、これで終わりじゃないぜよ!

 

ジョン万次郎資料館 万次郎帰国への航路 説明パネル2

こちらは万次郎がホノルルで日本に帰国する際に協力した現地の神父が、彼らへの寄付を集める為に地元新聞にその日本への旅立ちをまとめた当時の新聞記事の文言である。当時の日本は頑なに外国人を拒絶ばかりしていたけど、外国ではこのように日本人が自国に無事に帰れるように協力してくれた外国人が沢山存在していた事は忘れてはいけない。

坂本の猟犬
坂本の猟犬

万次郎殿は、優しい人に大勢出会えて幸せだったぜよ!

 

ジョン万次郎資料館  波プロジェクション

こちらは、その万次郎が約11年振りに故郷である中ノ浜に帰ってきた海岸のシーンを想像して作った、波が打ち寄せる「波プロジェクション」が放映されていた。ちなみにオカンがこの「ジョン万次郎資料館」の思い出として直ぐ思い出せるのは、この波が打ち寄せてくるプロジェクションだったのである。。

オカン
オカン

波がブワ~~と打ち寄せてくる光景だけ、覚えてるわ♪

坂本の猟犬
坂本の猟犬

万次郎殿に興味が無い人は、こんなもんぜよ・・・

 

こんな旅はまた次回に続きます!

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