高知城歴史博物館で学ぶ③:幕末に影響を及ぼした土佐藩に伝わる、ウサギ耳の兜【高知県旅行記26】

高知県旅行記2021年3月-26

旅行期間:2021年3月某日(2泊3日旅)

兎は優れた生き物!

高知県立高知城歴史博物館 建物 館内

ここは高知城のすぐ脇に造られている「高知城歴史博物館」で、土佐藩のゆかりの品々が数多く保管されている。土佐というと坂本龍馬ぐらいしかすぐに頭に思い浮かばないけど、大勢の偉人を輩出した地域でもある。

 

【高知県立:高知城歴史博物館】

住所:高知県高知市追手筋2-7-5
営業時間:9時~18時頃(※日曜のみ8時~、年末休み)
電話番号:088-871-1600
入館料:大人500円/18歳以下無料

 

 

 

高知城歴史博物館の見学!

高知城歴史博物館 藤並神社 御神幸御行列図

こちらは「藤並神社」という高知城の東側(※現在山内一豊の銅像があるエリア)に1806年頃に建立された神社で、藩を挙げての大祭りが行われた様子を描いた『御神幸御行列図』。この藤並神社は土佐藩初代藩主の「山内一豊」とその妻である「見性院(千代)」、そして2代目藩主の「山内忠義」を祀った神社だった。

 

高知城近くの山内一豊の騎馬像2

藤並神社跡に立つ、山内一豊の騎馬像

こちらは先程見た山内一豊の騎馬像だけど、これは元々藤並神社境内に造った物だったようだ。

そして藤並神社が建立された後に、土佐藩3代~14代藩主までを祀る為に新しく「山内神社」が、高知城の南側の鏡川沿いに創建された。昭和時代に入ってからは15代藩主と16代藩主の功績を称える神社を創建する為に、山内神社で祀られていた藩3代~14代藩主は藤並神社に遷座された。

 

そして迎えた第二次世界大戦の最中に空襲に遭った高知市内で、藤並神社と山内神社は焼失してしまった。その後、戦後の1970年に神社を再興して「山内神社」が再建され、今では歴代土佐藩主全員が祀られる神社となっている。

坂本の猟犬
坂本の猟犬

山内神社には、山内容堂公の銅像があるぜよ!

 

高知城歴史博物館 土佐の特産品パネル

こちらには”土佐の名産品”の数々が、紹介されている。土佐というと鰹のイメージしか思い浮かばないけど、実は”土佐木材”として檜や杉の木が国内でも人気で、藩財源の頼りとなる名産品だった。秀吉の時代に大阪城の補修などに土佐の材木が使われ、その質の良さに秀吉から”日本イチ”のお墨付きを貰った為に、全国的な人気になったという。

坂本の猟犬
坂本の猟犬

大阪の土佐堀は、土佐商人が木材商売をしていた名残の名前となってるぜよ!

 


 

大阪市 長堀通り 白髪橋 標識

余談だけど、土佐藩で高級品の材木が獲れた山が「白髪山」と呼ばれていて、藩が一般人の侵入を固く制限する程に厳しく管理していた。そしてその土佐から獲れた材木は大阪に運ばれて、大坂商人を介して多く売り買いされていた。ここは大阪市西区の長堀通りにある「白髪橋(跡)」で、土佐からの材木がこの辺りに運ばれてきていたという。

 

 

 

大阪市 長堀通り 白髪橋 道路

この大阪市西区の長堀通りは、江戸時代前半に開削された運河で、”天下の台所”とも称された大坂の街は全国から色んな物が届けられて、張り巡らされた運河を使って荷物を運搬していた。しかし、近代化が進んだ昭和35年(1960年)より埋め立て工事が行われて、今ではこのように運河がここにあったとは思えない光景となっている。

 

大阪市 長堀通り 白髪橋 案内板

この長堀通りの真ん中に細長い公園部分があり、そこに「白髪橋」の案内板が建てられていた。この説明によると、土佐の白髪山の事には触れていないけど、この南西付近には土佐藩の蔵屋敷があった場所で、この一帯は土佐藩に由来する地名や橋の名前が付けられている物も多い。

 

大阪市西区 土佐藩蔵屋敷跡 白髪橋

大阪市西区の上空から–Googleマップより

大阪市西区の西長堀駅の南西側には、「土佐稲荷神社」という土佐藩の屋敷内で祀られていた神社が残されている。この土地は明治時代になって借金地獄だった土佐藩が、土佐出身の岩崎弥太郎に買い取ってもらい、その岩崎弥太郎が後に大阪市に寄付したという。しかし土佐稲荷神社はそのまま残し、岩崎弥太郎自身も多額の援助をしていたそうだ。

 

 

大阪市 長堀通り 白髪橋 材木市場跡 記念碑

このように長堀通りは今ではかつて運河があったとは思えない光景となっている。ここは左右に道路がある中間地帯で一部緑地化されている場所で、「大阪材木市売市場発祥の地」という記念碑が建てられている。

ちなみに地名として「心斎橋」や「三休橋」などの名前が長堀通りに残っているが、名前の通り、かつてこの地に橋が架かっていた訳だ。

 

大阪市 長堀通り 白髪橋 光景

この場所は過去に何回か歩いた事がある場所だが、その当時はこの土佐藩に関連する場所だという認識が全然なかった為に、全くこの土地を気にする事なく通り過ぎていた。しかし、今は土佐藩の歴史を勉強した為にすっかり同じ土地でも見え方が変わってしまっているのである。

坂本の猟犬
坂本の猟犬

もっと土佐藩の歴史を勉強するぜよ!

 

ちなみに土佐藩蔵屋敷のあった大阪市西区の跡地には、「UR 西長堀」という公団住宅の建物が建っている。この建物は1958年に”関西初の公団高層住宅”として建設された高級住宅で、かつては女優の森光子、南海ホークス時代の野村克也、作家の司馬遼太郎なども住んでいたという。

坂本の猟犬
坂本の猟犬

ここで司馬遼太郎は名作『竜馬がゆく』などを生み出したぜよ!

 


 

高知城歴史博物館 土佐の特産品パネル 鰹と鰹節

ただ木造建造物から鉄筋コンクリート造りに移り変わっていった戦後の日本では、そういった木材も需要が減ってしまい、土佐名物の最高位に君臨しているのは、この通り「鰹」「鰹節」である。

 

高知城歴史博物館 土佐の特産品パネル 土佐和紙と茶

それ以外にも”日本三大和紙”とも称された「土佐和紙」や、土佐が誇る清流の仁淀川や四万十川流域の山間部で栽培された「土佐茶」なども名産品であった。ただ高知県で”お茶”というイメージはあまりなく、全国的なお茶の生産量では全国17位となっている。

※農林水産省:2020年産の茶生産量ランキングより

 

 

高知城歴史博物館 土佐の特産品パネル 展示スペース

かつて土佐と呼ばれた高知県も、今では四国4県の中で最も人口が少ない県となっている。そして更に人口減少率も一番高い県となっており、日本全体が少子高齢化となって人口が減り続けている中で、これから更に人口がが減っていく事だろう。

坂本の猟犬
坂本の猟犬

こんな素晴らしい土佐に、住みたがらないのが不思議ぜよ!

 

高知城歴史博物館 中浜万次郎 漂流始末聞書

こちらは「中浜(浦)万次郎 写 漂流始末聞書」という、万次郎及び一緒に帰国した伝蔵五右衛門から聞いた話を漂流体験記として幕末時代に発行した本となっている。現代となっては万次郎一行の中でも、後に幕府に登用され重宝された万次郎の存在感が他2人に比べると飛び抜けているが、その2人も外国で約10年間生き抜いてきた強者であったのだ。

 

高知城歴史博物館 井伊直弼 大老奉書

こちらは幕末の老中でも有名な井伊直弼が土佐藩宛に送りつけた「井伊直弼:大老奉書」という、俗にいう”安政の大獄”で井伊直弼の対抗勢力でもあった山内容堂に対する隠居勧告が記されている書状である。第14代将軍の座に「一橋慶喜(後の徳川慶喜)」を推す一橋派に加担していた山内容堂などに対して、当時の老中首座にあった井伊直弼が自分の推す「徳川 慶福」を強引に将軍の座に据えた。

 

そして反対勢力を弾圧する為に井伊直弼は、山内容堂や福井藩主:松平春嶽や宇和島藩主:伊達宗城を隠居/蟄居に追いやった。自分の推しを将軍に据える事が出来た井伊直弼だが、後に反対派勢力の浪人達に襲撃され惨殺されてしまう事になるのであった。

坂本の猟犬
坂本の猟犬

井伊直弼が殺された事件が、有名な『桜田門外の変』ぜよ!

 

 

高知城歴史博物館 幕末の土佐藩 説明

浪人達が当時の老中首座だった人物を江戸城近くで襲撃したという前代未聞のテロ行為であるが、その事件が後の日本の行く末を大きく変えていく事に繋がる。そして息を吹き返した一橋派は、理想とする”公武合体”体制の確立を目指して邁進する。

 

高知城歴史博物館 幕末の土佐藩 年表

そして江戸幕府が政権を朝廷に返上した”大政奉還”では、その意見を徳川慶喜に建白したのがこの土佐藩15代藩主だった山内容堂だとされている。こうして江戸幕府と朝廷が手を組んで理想的な国家に進むハズだった日本だが、その後に勃発したのは新政府軍と旧幕府軍での内戦だった。

坂本の猟犬
坂本の猟犬

人類は何かにつけて、戦争をしないと気が済まない存在ぜよ!

 

高知城歴史博物館 坂本龍馬書状 溝渕広ノ丞宛

こちらは坂本龍馬が「溝淵 広之丞(みぞぶち ひろのじょう)という、同じ土佐藩の藩士に宛てた書状の草案となっている。この溝淵広之丞は坂本龍馬と同時期に江戸遊学しており、その際に龍馬の通っていた千葉定吉の剣術道場で同門だった人物でもある。そして佐久間象山の私塾で砲術も学んでおり、龍馬と同じような道を進んだ親友だった。

 

高知城歴史博物館 坂本龍馬書状 溝渕広ノ丞宛 現代語訳

このように同じような苦労をしてきた友人だった溝淵広之丞に、龍馬はやっと最近になって明るい光が見えてきた事を報告する内容となっていた。苦労をしたからといって必ず報われる訳ではないが、報われる人は努力をしてきた人だけである。

 

高知城歴史博物館 坂本龍馬書状 溝渕広ノ丞宛 龍馬のサイン

こちらには坂本龍馬が書いたと見られる、自分の名前が見られる。近年はインターネットの急激な普及で手書きの手紙や書類が少なくなってきているけど、前までは達筆もしくはクセのある字を書く人には少々手間取った。しかし人間という生き物は面白い生き物で、そういった不明瞭な筆跡の人物の字を長く見続けると、不思議と解読できるようになってしまうのである。

 

高知城歴史博物館 土佐藩の軍貝

こちらは土佐藩で使用されていたという「軍貝」。”ホラ貝”とも呼ばれる物で戦の時などに鳴らせていた道具で、ヨーロッパでの戦争時に使われていたトランペットと大違いである。

坂本の猟犬
坂本の猟犬

ホラ貝の方が日本らしいぜよ!

 

高知城歴史博物館 山内容堂 遺墨貼交2

こちらは「山内容堂:遺墨貼交」という、山内容堂が配下に送った書状を集めて貼り付けた物。上・中・下と3枚の書状に分かれており、配下の家臣が藩主様から貰った大事な書状を保管していた。

 

高知城歴史博物館 山内容堂 遺墨貼交

その3段目の一番下には大根のような絵が描かれている。この大根は江戸幕府になぞらえて描かれたものらしく、”大根のように江戸幕府も倒れない事を願う”という意味合いがあったという。

 

高知城歴史博物館 山内容堂 御隠居様自筆写しの書

こちらは「御隠居様 御自筆之写」という、明治3年になって隠居して療養の身だった山内容堂が書いた書状となっている。江戸時代の藩主は40歳前後で家督を次に譲る人もそれなりに居たが、対外的には隠居状態となっていても、実際には裏で大きな影響力を保持し続けて執政的な立場になる藩主が多かった。

 

高知城歴史博物館 山内容堂 御隠居様自筆写しの書 現代語訳

山内容堂の場合は安政の大獄で強制的に隠居させられたので、自ら藩政から手を引くつもりなどなく、裏で大きな影響力を発揮し続けた。しかし、この書状は山内容堂が亡くなる2年程前に書かれた物で、病気が酷くなってきて藩政から手を引いて療養に専念する旨が書かれている。

 

 

高知城歴史博物館 土佐藩ゆかりの品々ブース

そしてこちらのブースには鎧や陣羽織など、土佐藩主が所用していたとされる歴史ある品々が展示されている。このような史料も江戸時代だったら一般庶民達には見る事も出来ない物だっただけに、こうやって目の前に見られるというのはとても有難い時代になったと感じる。

 

高知城歴史博物館 烏帽子の兜

こちらは「烏帽子(えぼし)形兜」で、昔から公家などが被ってきた烏帽子の形をそのまま兜に適用した物。戦の時などは荒っぽい武将に目立つ兜が好まれたので、室町時代以降に多くこのような形の兜が造られる事になったという。

 

高知城歴史博物館 兎耳形兜 山内豊昌 所用

そしてこちらは見た目に可愛らしくも見えてしまう、ウサギ耳の形をした「兎耳形兜」。こちらの兜は土佐藩第4代藩主「山内豊昌(とよまさ)が所有していた物らしく、可愛らしいからではなく、”月の神の使い”ともされていた優れたウサギの能力にあやかって作られた兜だったようだ。

 

高知城歴史博物館 兎耳形兜 山内豊昌 

ウサギはその大きな耳を使って素早く周辺の情報をキャッチし、また坂道を登るのがとても速い生き物でもあったので、戦の時に必要な能力を兼ね備えていた為に、このようなウサギをモチーフにした兜が重宝されたようだ。

坂本の猟犬
坂本の猟犬

この兜、耳の穴部分が空いてないから、周辺の音を集めるには向いてないぜよ!

 

高知城歴史博物館 山内豊房 鎧

こちらは土佐藩第5代藩主「山内豊房(とよふさ)が所用していたと考えられている、『浅葱糸素懸 威 五枚胴具足』の鎧兜。戦が無くなって平穏な時代となっていた江戸時代でも、いつ有事が起こるとも限らないので、このような鎧は常に用意されていたのだろう。

 

こんな旅はまた次回に続きます!

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