高知県旅行記2021年3月-36
旅行期間:2021年3月某日(2泊3日旅)
展望台にもなる記念館!
前回に引き続き、高知市の太平洋側に面する桂浜に造られている「坂本龍馬記念館」の見学は続きます。たっぷりとここで龍馬の歴史を学べていい経験になったけど、もう少しだけ見るべきものがあるようだ。
坂本龍馬記念館:本館の見学!
約270年間続いてきた江戸幕府が朝廷に政権を返上した”大政奉還”に大きく関与した坂本龍馬だが、大政奉還が行われた約1ヶ月後に暗殺されてしまったので、江戸幕府無き後の、新しい日本の国を見届ける事は出来なかった。
それまで長い間に渡って日本の国で続けられていた”封建制度”は崩壊し、先進国だったヨーロッパなどで多く導入されていた”民主主義”を採用した明治政府。江戸時代には将軍や執権となっていた老中などが決めていた政策は、選挙で選ばれた人材が国会で討論を行い決めていく方式に変わっていく。
そして明治政府はそれまでの江戸幕府時代の生活様式は”時代遅れ”だと認識し、進んでいた西洋諸国の社会制度や文化などを早急に取り入れていった。そのおかげで日本という国は、”東アジア地方の中でも数少ない植民地を経験した事のない国”となる程に成長していった。だがその影で、これまで培ってきた日本独特の文化が多く消え去っていくのである。
江戸時代までは男子は丁髷(ちょんまげ)で和装だった生活様式が一般的だったが、明治時代になると西洋諸国を視察してきた明治政府首脳たちが西洋文化の真似をして、頭はマゲを落として”散切り頭”となり、服装も洋服に変貌していく。
これほど急速に文化が変わった歴史も珍しいぜよ!
こちらはよく見かける”ボトルシップ”という、ウイスキーなどのお酒が入っていた酒のガラス瓶の中に、帆船模型を入れた飾りの品。こちらの瓶に入っている船は「ジョンハラウンド号」で、万次郎一行が漂流した鳥島から救助されたアメリカの捕鯨船をモチーフに製作した物となっている。
「ボトルシップ」は実は和製英語で、海外では「ship in a bottle」というぜよ!
このようなボトルの中に入れられた、飲み口の口径よりも大きな模型はどうやって入れたのか?、いつも不思議に思っていた。ここに展示されていた「ジョンハラウンド号」にはこのボトルシップを製作した時の過程が説明されていて、基本的にはボトルに入る大きさで一旦ボトルの外で船を組み上げる。それからパーツ毎に解体して、狭い口から各パーツを入れていってボトル内で組み立てていくのだという。
こんな作業、気が狂っているとしか考えられへん・・・
こちらのボトルシップは、瓶の内側に油絵が描かれており、それが背景のように見えている。このような細かい手作業は忍耐強い人しか出来ない趣味であるが、売っている安物のボトルシップは底部分をくり抜いて船の模型をそのまま入れた、安易な方法で作られている物もあるという。
ボトルシップの作り方とは【おとなの秘密基地】
なんでこんなキチガイな事するか、理解できん・・・
こういう事を老後の趣味にしていると、ボケにくいぜよ!
そして坂本龍馬記念館の見学はそろそろ終盤に近づき、下のフロアか、上のフロアか、どちらを先に訪れるかの岐路に立たされる。しかし、即選んだ道は上の階に登る階段で、上に登りたがる人間の習性に合わせたのである。
上のフロアはこのように大きな窓ガラス張りになっていて、ここからだと外に見える桂浜の海岸線がこのように一望できる景色が待ち受けている。さっきまで天気が悪くて曇り空となっていたけど、どうやら天気が回復してきて、お日様も顔を覗かせようとしてきていた。
こちらにはこのように黄色く塗られている、屋上の展望デッキに繋がる螺旋階段が設置されていた。ボクが好きな黄色に塗られた階段だったので、一段ずつ登る度にテンションが上がっていくのを感じながら登っていく。
屋上の展望デッキにて
そして屋上の展望デッキまで登ってドアを開けて出ていくと、このように開放的で見晴らしの良い、素晴らしい展望台に辿り着く。さっきまでの曇り空が嘘のように、太陽の日差しが照り付けてきていた。
この坂本龍馬記念館はかつて長宗我部氏の居城があった山城の「浦戸城跡」に造られている事もあって、それなりの高台になっているけど、この展望デッキまで登ってくると更に高い場所になっていた。
展望デッキからの眺め! 動画
目の前には遠くに水平線しか見えない、大海原が立ちはだかっている。この海は太平洋で、土佐では”土佐湾”とも呼ばれている。左側にはタンカーみたいな船も見えているけど、ここからだと小さく見えてしまう。
「桂浜」って有名な龍馬像が置かれていた部分だけかと思っていたけど、この景色を見てから冷静に考えると、波打ち際は奥まで普通に続いていて、この光景全体が「桂浜」であった。
「桂」っていう浜や!
再び館内の見学!
そんな展望デッキからの桂浜を見渡せれる絶景を楽しんだ後は、再び本館に戻って、今度は下の階の展示ブースに向かった。一番下の階は龍馬にゆかりのある人物を紹介するコーナーとなっていたが、そのコーナーは”写真撮影禁止”となっていたので、仕方なしに写真撮影可能になっていた「写真の歴史コーナー」を見学する事に。
写真という技術が開発されたのは1800年代頃からとされているが、その写真の元になったのが「カメラ・オブスキュラ(camera obscura/ラテン語)」というピンホールから投影された像を写した機械/技術である。
この「カメラ・オブスキュラ」が、今日の「カメラ」の語源ぜよ!
今のような写真技術が開発される前は、「カメラ・オブスキュラ」の機械の中に映し出された光景を、手でなぞって書き留めていた。こちらの絵はエルミタージュ美術館に飾られていた、カナレットと呼ばれていた「ジョヴァンニ・カナール」の作品。とても細かい描写が正確にされているという印象を受けたけど、この作品はカメラ・オブスキュラで投影された景色を下書きで写して、そこに色を付けていった作品である。
日本に写真の技術(銀板写真)が伝来したのは江戸時代の1848年とされており、現存する日本人の写真としては”幕末の四賢侯”の1人でもある、薩摩藩第11代藩主:島津斉彬が写った物となっている。
この島津斉彬は曾祖父が蘭学好きだった事もあって、幼い頃から蘭学に興味を持っていた。それと薩摩藩は日本国内でもっとも南側を任された大名で、奄美諸島と更には清国の属国となっていた琉球王国まで支配下に置いていたので、諸外国と接する機会が多かったのである。
西洋の新しい物好きだった斉彬公は、写真にも特に興味を持ったぜよ!
ただ「写真」といっても今みたいな写真技術が確立される前には、色んな技術や方式が試みられた。湿版や乾版など色んな物が開発されては消えて、次に新しい技術が生まれていったのである。
この龍馬が写真撮影をしていた時代は、写真技術もまだまだ発展途上段階で、版が投影された景色を焼き付けるのにかなりの時間が必要だった。なので今みたいにシャッターを押すと簡単に撮影できた訳ではなく、この有名な龍馬の写真は数十秒もここに動かないように立ち続けて撮影されたと考えられている。
やき、台にもたれ掛かっちゅーポーズになっちゅ~ぜよ
ここでもオカンは自分から、この記念撮影スペースに向かって、
早く写真撮ってや!
という顔をしていた。。
こちらは龍馬が関係した人物が纏められている、人物相関図。土佐藩内で育った龍馬であったが、脱藩後には江戸幕府の時代を終わらそうという方針を掲げていた薩摩藩にだいぶ世話になる。その薩摩藩で大きな世話になった西郷隆盛は、日本に現存する”日本人が写っている最も古い写真”でモデルとなっていた島津斉彬公が、下級武士の家から見出して登用したのである。
島津斉彬公の眼力は、さすが”幕末の四賢侯”とも称されるだけあるぜよ!
こちらには、龍馬と共に京の近江屋で切り殺された中岡慎太郎とツーショットでの銅像となっている。龍馬と中岡慎太郎はそれぞれ土佐藩出身で、共に脱藩組で同じ志を持った盟友だった。
この暗殺は、日本の将来を大きく変えてしまったぜよ・・・
こちらには1867年2月にイギリスの商人から購入した、土佐藩船の「夕顔丸」の1/21模型。主に大坂と土佐の間を結ぶ航路を担っていた船で、1867年7月に長崎から”四侯会議”が開かれていた京に向かって、龍馬は後藤象二郎とこの船に乗り込んだ。そしてこの船の中で新国家体制の基本方針を起草した『船中八策(せんちゅうはっさく)』が書かれたという説がある。
そしてこれにて、約1時間に渡った坂本龍馬記念館の見学は終了となる。思っていた以上に中身のタップリ詰まった記念館で、新館が新しく造られたおかげで龍馬の史料を沢山見学する事が出来て、とても満足であった。
いつでもまた会いに来るぜよ!
そして駐車場に戻って、さっきの”膝の上に乗ってきた猫”が居ないか探していると、こちらの滋賀ナンバーの車の下で日向ぼっこしている姿を発見した。
もう既に13時30分を回っていた時間帯で、この猫ちゃんは昼過ぎで太陽が顔を出してきて、ちょっと眠たくなってきて昼寝タイムが欲しいような顔をしていた。
猫は車の下などの場所を好むのだが、傍から見れば車に轢かれてしまわないかと心配してしまう。ただこのような人懐っこい猫は、こういった所で放し飼いされているよりは、誰か猫好きの新しい主人に貰われていった方が幸せに思うのだが・・・。
ウチには猫ちゃんは絶対入れませんよ!(怒)
こんな旅はまた次回に続きます!
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