高知県旅行記2021年3月-29
旅行期間:2021年3月某日(2泊3日旅)
高過ぎるのも・・・!
ここは高知県を代表する景観地でもある「桂浜」。目の前には土佐湾とも呼ばれる太平洋の大海原が広がっており、土佐が栄えた海の恵みを与えてくれる存在でもある。
桂浜を散策!
そして先程猫ちゃんと戯れた場所付近には、こちらの『いごっそ魂』という歌碑が設置されていた。日本各地に設置されている歌碑というと昔の和歌や童謡などが多いけど、この歌碑の『いごっそ魂』は高知県出身の演歌歌手:三山ひろしが2018年に発表した新しい歌だった。
三山ひろし「いごっそ魂」MUSIC VIDEO
「いごっそ」は土佐弁で、”頑固で気骨のある”土佐男らしいさを表す言葉ぜよ!
桂浜の高台に造られている、こちらのちょっと近代的な外観の建物は「高知県立 坂本龍馬記念館」。高知県を代表する偉人として全国的に知られている坂本龍馬だけど、幕末の歴史好き以外の人からすると、龍馬がどんな事をした人物なのか、意外と詳細を知らない事が多い。
坂本龍馬記念館の無料駐車場に車を停めて、とりあえず記念館の見学する前に桂浜周辺を散策する事にした。すると、建物の脇にまた別の猫ちゃんを発見した。
先程の猫ちゃん同様にこちらの猫ちゃんも桜耳になっていて、地域の人が管理している猫のようだ。ただ、さっきのいきなり膝の上に乗ってきた猫ちゃんとは違って、こちらは警戒感を出して近寄ってすらこなかった。本来猫は警戒感が強い生き物で、街中の野良猫ちゃんなどはまず人間に寄って来ない。だから、さっきの猫ちゃん程に気軽に近寄ってくる猫は、元々人に飼われていた可能性が高いのである。
こちらが「高知県立坂本龍馬記念館」の正面側で、さっき近代的に見えていたのは裏側だったようだ。なお、この坂本龍馬記念館は1991年に開館しているが、2018年にリニューアルされていて、隣には新しく新館が併設されている。
こちら側の建物が1991年に造られた本館の方で、その入口前に坂本龍馬の像が置かれているのが見える。先程訪れた高知城歴史博物館には坂本龍馬の史料などの展示が少ないなと思っていたけど、その代わりにこちら桂浜に造られている龍馬記念館で見られるようだ。
こちらの龍馬像は”心をつなごう”という意味合いを籠めて、「シェイクハンド(握手)」するポーズとなっていた。しかしこの訪れた時は、大きなグローブをハメたかのような龍馬像になっていた。
よく見ると、このグローブのような物はグローブではなく、コロナ禍で感染防止対策として触らないようにと覆いが掛けられていたのであった。ちょっと前までは何気なく外に設置されている像の一部をスリスリとしていた人達も、コロナ禍になった影響で触られなくなってしまった。
銅像からすれば、勝手に触られなくなって逆に嬉しいかも?!
桂浜にある「浦戸城跡」の見学!
その坂本龍馬記念館の脇には、こちらの木々が生い茂ってこんもりと一段高い丘がある。ここはかつて四国を制覇した長宗我部氏の居城「浦戸城」の天守があった場所で、現在は城郭などは現存しておらず、城跡っぽい痕跡が僅かに残っている。
この場所は浦戸山という標高約59mの山頂に造られており、長宗我部氏以前にこの土佐を支配していた本山氏が1500年代中頃に築城した城と考えられている。
ただこの地は外から見ているだけだと、ここに天守跡がある場所には思えない雰囲気となっていた。城跡というとそれなりに整備されて観光客も来ているイメージがあるけど、高知市内では比較的マイナーな存在で、この桂浜に来る観光客の多くは海岸から大海原を眺めるのを楽しみにしている人ばかりのようだ。
この浦戸城は山城となっていて、1560年頃に本山氏を滅ぼした長宗我部氏が代わりに支配するようになる。しかし当時の長宗我部氏の居城は岡豊城(高知県南国市)となっていて、1588年頃に今の高知城がある大高坂山に居城を移した。
だが近くに川があって高知県は日本イチ年間降雨量が多い地域で水害に苦しめられたので、この浦戸山にあった浦戸城を改築して居城としたのである。そして江戸時代になって長宗我部氏は関ヶ原の戦いで西軍に加担した為に改易処分となり、静岡から移封されてきた山内一豊は、一時期この浦戸城をそのまま活用していた。
今となっては城郭は現存しておらず、僅かに石垣跡がチラホラ見られるだけとなっている「浦戸城跡」。そして天守跡には「大山祇神社」が建立されていたが、この総本山はしまなみ海道途中の愛媛県今治市大三島町にある神社だ。
天守跡といってもこのように鳥居と小さな祠が造られているだけで、入口などに「浦戸城跡」という表示が無ければ、城跡とは思えない光景となっていた。
この浦戸城では江戸時代に移封されてきた新しい当主となる山内一豊に対し、それまで土佐を治めてきて改易された長宗我部氏の家臣団が反発した。そして引き渡しを強要された浦戸城に長宗我部氏の家臣団が立て籠もって、”浦戸一揆”とも呼ばれる抵抗が起きた。
しかし、時代の覇者となった家康の前ではほぼ無力であり、一部の家臣が寝返って最終的には鎮圧されて、立て籠もっていた長宗我部氏の旧家臣団はその多くが首を撥ねられたという。そして数百もの撥ねられた首は、その一揆鎮圧の指揮を執っていた大坂の井伊直政宛に塩漬けにして運ばれたという。
反対勢力が刷新されて、新しい組織が作られていくぜよ!
そんなほぼ何も残っていない浦戸城跡を後にして、桂浜に設置されている有名な坂本龍馬の銅像を見に行く事にする。よくテレビやパンフレットでも目にする、日本国内で一番有名な坂本龍馬の銅像だけど、意外とこの高台ではなく、この坂を下っていった下の方に設置されているようだ。
この緩やかな坂道は「連絡遊歩道:椿の小径」という名前が付けられていた。そしてその有名な坂本龍馬の銅像までは、約270mほどの距離となっているようだ。
その「連絡遊歩道:椿の小径」は、このようなコンクリート舗装された段差の低い階段が続いている。なお今回桂浜で車を停めた駐車場は坂本龍馬記念館の駐車場で高台だったけど、この下を降りて行った先には観光客向けの大きな駐車場が用意されている。
そして階段を降りていくと、その脇に生えている松の木の脇から、桂浜という名前の通り、綺麗な浜が見えてきた。今日はちょっと天気が悪くてスッキリしない景色だけど、天気が良い日には素晴らしい光景に思えた事だろう。
そして階段を降りていくと、こちらの「桂浜」と文字が彫られた写真スポットのような場所に出てくる。もっと晴れた日にはここで浜と海をバックにして記念写真を撮影したい所だが、曇り空ではイマイチそんな気分も起きない・・・。
桂浜に鎮座する坂本龍馬の銅像!
そして先へ進んで行くと、かなり高い位置に設置されている像が見えてくる。昔は偉い人ほどに高い場所に位置していたけど、この銅像の高さはそれだけ土佐の人々にとって、崇められているという証拠なのかもしれない。
近寄っていく程に、この銅像とその下にある台座の大きさが見えてくる。この写真では伝わらないかもしれないけど、この台座だけで約8mもの高さがある。そして龍馬の銅像自体は約5.3mもあって、一般成人の身長と比べてもおよそ3倍の大きさとなっている。
そして正面に回り込むと、よくメディアなどで目にする桂浜の坂本龍馬像が見えてくる。ただメディアで見ている分にはここまで大きな銅像と台座とは思わなかったけど、このように現地を実際に訪れてみる事で、その大きさが分かるのである。
ちなみにこの銅像は昭和3年(1928年)に設置された物で、高知県出身の彫刻家「本山 白雲(もとやま はくうん)」(1871~1952年没)によって製作された。高知城脇に設置されていた板垣退助や山内一豊の銅像も、この本山白雲が製作した作品となっている。
この大きな坂本龍馬像は戦前に造られた銅像だが、戦争時の金属回収令を交わして今も立ち続けている。しかし、この海風が直接吹き付けてくる銅像を設置するには過酷な場所にある為に、過去数回に渡って修復工事が行われている。
さすがの龍馬像も、常に吹き続ける浜風には負けるぜよ!
想像していたよりもかなり大きかった坂本龍馬の銅像。そういえば鹿児島市内に設置されている大久保利通の銅像も、高い台座の上に設置してあるから分かりにくかったけど、同じくらい大きい銅像だった。このようにただ写真で見るだけでは伝わらない現物の雰囲気を味わうには、やっぱり現地に行って直接自分の眼で見ないといけないのである。
そして更に下に降りていく階段が見えて、その前に防風林としては心細いように思える1本の松の木が見えている。目の前にはジョン万次郎が流されて地球の反対側まで行く事になる太平洋が広がっており、その大海原から障害物もなく吹き付けてくる風は相当な威力がある。
この土佐湾沿岸では、このように遠くに多くの船舶がよく見えた。昔は瀬戸内海の穏やかな海域を通っていた船も、近年発展した造船技術や航海術により、狭い内海を通らなくてもいいようになっているからだ。
ここから先に延びている堤防のような場所は「立ち入り禁止」との表示があったが、この先に座っている男性が見える。1人で静かに黄昏ているかのようにも見えるけど、悩み事でもあるのだろうか?
悩みは人それぞれ、何かしらあるぜよ!
この桂浜の海岸は細かい砂ではなく、ちょっと砂利っぽい砂浜となっていた。桜は咲き出した頃合いだけど、まだ春という暖かい感じではなく、また曇り空でもあったので、この桂浜でリラックスしている人の姿は少なかった。。
こんな旅はまた次回に続きます!
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