彦根城旅行記2022年1月-13
旅行期間:2022年1月(日帰り旅)
江戸時代のお宝!
前回に引き続き、滋賀県彦根市にある「彦根城博物館」の見学を行っていきます。
沢山展示されているように思える博物館だけど、収蔵されている品は約9万点もあるそうで、もし全て同時に展示するとなると、エルミタージュ美術館のように数日掛けないと見学できない程の規模となる事だろう。。
彦根城博物館の見学!
こちらに飾られていたのは、「笙(しょう)」という、雅楽で使われる管楽器の1つである。
「匏(ほう)」と呼ばれる土台部分に嵌め込んだ17本の竹管に穴を空け、匏から息を吹き込んでパイプオルガンのように竹管で共鳴させて音を奏でる楽器。
そんな笙を納める箱は立派な造りとなっていて、『鳳鳴朝陽』という中国の詩集『詩経』の中にある言葉が蒔絵されている。
この『鳳鳴朝陽』の意味は、鳳凰が山の東で鳴くという内容で、それが天下泰平を表す例えとして愛用されていたようだ。
こちらも同じく雅楽や神楽などで使われた管楽器の「篳篥(ひちりき)」。
こちらは笙と違って縦笛形式となっていて、「オーボエ」に近い構造となっている。
またこちらの品は、京都の仁和寺に伝わる物で、蓋裏には和歌が書かれているのも見える。
こちらの琵琶は、江戸時代後半に文人画家で琴士でもあった「浦上 玉堂(うらかみ ぎょくどう)」が所有していたとされる品。
岡山藩の支藩だった鴨方藩で生まれた浦上玉堂は、かつてその地方を治めていた戦国大名だった浦上氏の末裔だったともされている人物。
鴨方藩の上級藩士として活躍していたが、琴や絵描きなどの多芸から縛られる藩を50歳頃に脱藩し、子供を連れて全国を行脚してその才能を披露していったという。
こちらは『紺地花菱亀甲繋ぎに飛鶴文様』という名前が付けられた、豪華な金襴の入った「袷狩衣(あわせかりぎぬ)」。
1840年頃の作品となっていて、このような狩衣は能装束としても使われており、インパクトの強い登場人物である天狗や鬼などの役によく用いられていたという。
元々は公家の衣服として奈良時代頃から使われていたようで、時代の流れと共に藩主が楽しむような能で使われる衣装となっていったようだ。
それにしてもこのように金襴が、紺背景なので余計に光り輝くように見える。
こちらは『紅地 霞に雪持松と楓葉文様』という名前が付けられている「唐織」。
こちらは狩衣と違って能で女役の表着となっていた衣装で、女性らしさを表す紅色が目立つ生地となっている。
この唐織には「雪持松」と呼ばれる、松の上に雪が積もったデザインの松が色んな色で散りばめられており、雪の重みに負けずに耐え続ける姿が象徴されているという。
現代人には、雪持松のような我慢力が無いんよね!
なお、彦根藩で最後の藩主となった第14代藩主「井伊 直憲(いい なおのり)」の正室には、皇族「有栖川宮幟仁親王(ありすがわのみや たかひと しんのう)」の娘である「宜子女王」が迎えられた。
その嫁入りの際には皇族だった事もあって、豪華な婚礼調度品が持ち込まれて、この彦根城博物館に数多く収蔵されているという。
こちらは『叢梨子地 花菱唐草菊三ッ横菊紋:手拭掛』という、手拭をかけておく調度品。
水を使う化粧の際には手を拭う布が必要で、その際にこの手拭い掛けが重宝されていたという。
こちらは『黒漆塗 葵唐草文火鉢』という、今ではすっかり見る機会が無くなってしまった火鉢である。
暖を取ったりする際にこの中に炭を入れて燃やして、場合によってはヤカンを置いて湯を沸かしたりしていた火鉢。
なお、こちらの火鉢には”猫足”と呼ばれる台が付いており、『御殿火鉢』とも呼ばれていたという。
こちらは『黒漆塗 笹唐草文広蓋』という、衣装を乗せるお盆のような容器だった物。
元々は身分の高い人物から衣服などを贈られる際に使われていた物で、後に正式な贈答品や結納品を贈る際に使われるようになっていったという。
そしてこちらは『黒漆塗 笹唐草文炭取』という、火鉢などに使う炭を運ぶ際に使われていた道具である。
ただ炭を入れて部屋の中に運ぶだけの道具であるが、江戸時代には身分の高い人の身の回りの品々は、このような威厳あるデザインが施されていたようだ。
こちらは『黒漆塗火鉢:黒漆塗笹唐草文伏籠』という、中に火鉢を入れて、その上に衣装を置いて、乾かしたり温めたりする際に使われていた道具。
今の乾燥機のような物だね!
こちらは『螺鈿筒望遠鏡』という、19世紀にイギリスで製造された、光の屈折式望遠鏡。外観には螺鈿で唐草模様などが入れられているので、イギリスから日本に輸入された後に日本人によって、装飾が施された物だと考えられている。
こちらは『楽焼柳図茶碗』という名前が付けられている、濃茶用に使われていた茶碗。
そしてこちらの茶碗を製作した人物は、彦根藩第13代藩主である、あの有名な「井伊 直弼(いい なおすけ)」となっている。
井伊 直弼は十四男として井伊家に生まれた為に、後継ぎとみなされず、また養子縁組にも恵まれなかった為に、17歳から15年間を”部屋住み”として光の当たらない時代を過ごした。
しかし、井伊直弼は結婚もさせてくれない”部屋住み”という身分に腐る事なく、逆に色んな趣味に没頭して武芸や茶道や和歌などに精通するレベルに精進した。
ナポレオンのように日々の睡眠時間を削り、狂ったかのように多彩な趣味に精通した為に、その才能が評価されて大老にまで出世する事になるのである。
人生って、本当に何が活きるか、分からないよね!
こちらもその井伊直弼の作品で、『黒楽四方手付茶入』という抹茶の粉を入れておく容器だった焼き物である。
井伊直弼は江戸時代後半を代表する”大名茶人”としても有名だった人間であり、多彩な才能を日々の鍛錬で培ってきた秀才でもあった。
桜田門外の変で汚名を着せられた井伊直弼であるが、明治時代になって旧彦根藩士達がそんな優れた井伊直弼の汚名返上に尽力した気持ちがよく分かる一品である。
こちらは繁栄や幸福を意味する「吉祥」を象徴する、松竹梅と鶴の絵が描かれた『松竹梅鶴図』。
こちらの作品は江戸時代後半に、幕府御用絵師ともなっていた「住吉 広之(すみよし ひろゆき)」による物。
住吉 広之は大和絵の流れをくむ住吉家の5代目当主で、老中首座を務めた松平定信に特に気に入られて、江戸時代を代表する大和絵師となった。
こちらは『雲龍図』で、江戸時代後半に表絵師で駿河台狩野家第5代当主の「狩野 愛信」の作品。
狩野家というと、室町幕府の御用絵師となった「狩野 正信」を祖とする”狩野派”一族で、約400年間に渡って一族で当時の権力者の御用絵師になっていた世界に誇る絵師集団であった。
そして江戸時代後半には”狩野派”は国内でも一大勢力となっており、宗家を中心とした血族集団と、門下の集団などで区別されていた。
その”狩野派”のトップは「奥絵師」と呼ばれた格式が最も高い4家となっており、その下に狩野 愛信の駿河台狩野家が属する「表絵師」が15家ほどあって、江戸幕府御用絵師とはなっていたものの、クラス分けが成されていたという。
こんな旅はまた次回に続きます!
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