福井県敦賀旅行記2022年4月-2
旅行期間:2022年4月上旬(当日旅)
松と桜のコンビ!
ここは福井県敦賀市の海岸沿いにある、昔から立ち並ぶ松の木々が有名な「気比の松原」。国内ではよく海岸沿いに木々が植えられている場所が多いが、その中でも”3大松原”とも称される程に歴史があって有名な場所。
気比の松原の見学!
なお、この「気比の松原」は国有林となっていて、更には『若狭湾国定公園』の一部にも指定されている。その為にゴミを捨てる事はおろか、気に入った植物を摘み取って持ち帰ると罪になる場所でもある。
JR敦賀駅からこの気比の松原までの距離は約3.6kmあり、徒歩で訪れるにはちょっと遠い場所。もっと簡単に移動したい人はバスを使えば、20分圏内で訪れる事が出来る。
ただ、今回訪れた4月上旬は桜の花が咲く季節でもあったので、道中を歩きながら咲いている桜の花を見ながら歩いた方が絶対に楽しい。バスからもその咲いている桜の花を見る事は出来るけど、バスなどの自動車だと一瞬で通り過ぎてしまうので、じっくりと桜が咲いている様子を観察できないのである。
ワタシはバスで移動したかったんやけど・・・
松原というと松の木ばかりが植えられて並んでいるように思うけど、この気比の松原では桜の木も所々に植えられていて、桜の花が咲く季節には、松と桜がコラボして独特の景観を創り出してくれていた。
気比の松原の景観! 動画
気比の松原では、長さ約1.5km、面積約40ヘクタールの中に、平均寿命が約200年という高齢の松の木が、およそ17,000本も植えられているという。その17000本の中には黒松と赤松が混ざっているが、この気比の松原では「赤松」が80%ほどを占めているという。
そして気比の松原の真ん中付近の海岸沿いには駐車場が造られているが、その脇にこの『駐輦(ちゅうれん)の碑』が建っているのが見える。
この石碑は明治24年(1891年)に建立された高さ約3mの碑で、勝海舟が明治11年にこの地を訪れた明治天皇の様子を想像して、それを漢詩に詠んだ内容が彫られているという。
明治11年に行われた『北陸東海巡幸』は、第3弾:大巡幸として、北陸道を通って新潟まで行ってから日本海側の金沢や敦賀を経由して京都に入り、そこから東海道を通って東京へと帰っていった。
明治天皇時代は、それまでの天皇とは違って、合計6回もの『大巡幸』を行った。その為に日本全国には、その巡幸を記念した記念碑が数多く建立されている。江戸時代までの天皇と違って、大政奉還されて国のトップに返り咲いた天皇家だっただけに、明治政府もそれを利用して全国に顔見世興行的なイベントとして行ったのだろう。
敦賀の港があるこの海岸は、リアス式海岸となっている。そして港は外洋からの波の影響を受けにくい内海沿いに建設されており、まさに”天然の良港”といった地形になっている。現代は大規模な堤防工事などが行える為に便利な場所に港を建造できるけど、昔はこのように自然の地形を利用した場所が港として選ばれて使われていた。
その為に港が必要な場所に造られた港だった訳ではなく、”港を造るのに最適だった場所”に港が造られていたのだろう。ただ近代化が進むと、便利な場所にあって大型の船舶を受け入れる事の出来る港を持つ都市が発展していった事もあって、このように昔からの港は段々衰退していく事になる。
そして現代では、国際的な大型港がある国が大きく発展しており、日本でも横浜港や神戸港が大きく発展していった。
しかし世界的なコンテナ取扱量(国別)では、中国がダントツの一番となっていて、それに次いでアメリカが2位で、3位:シンガポール、4位:韓国となっている。
ちなみに日本は第6位カニ!
海岸からの景観! 動画
それと福井県敦賀市というと、「敦賀原子力発電所」が造られている場所としても有名である。その発電所があるのは、この先に見えている敦賀半島で、敦賀原子力発電所の1号機(廃炉)と2号機以外に、新型転換炉「ふげん」(廃炉)と、高速増殖炉「もんじゅ」なども建設されている為に『原発半島』とも呼ばれているという。
日本初の商業用原子力発電所が稼働したのは、1966年7月25日に稼働した「東海発電所」(茨城県那珂郡東海村)である。この敦賀に造られている「敦賀発電所」は、それに次いで国内で2番目に商業用原子力発電所として建造されている。
なお、日本プロ野球界で最も野球界に貢献した人に贈られる”正力松太郎賞”の元になった人物:「正力 松太郎(しょうりき まつたろう)」は、元々は警察官の立場から読売新聞の社主になった人物である。そして当時は弱小新聞社だった読売新聞の発行部数を増やそうと、プロ野球チームを結成して全国的な新聞の宣伝に使ったのである。
そしてその狙いが大きく当たって、読売新聞は日本を代表する新聞社に成長し、またテレビ界でも大きな影響力を持つ程の会社となっている。そんな正力松太郎は原子力委員会の初代委員長となって、原子力発電推進を行った為に”原発の父”とも呼ばれる存在となっている。
今では海鮮系が美味しそうな敦賀ではなく、”原発の敦賀”というイメージが強くなってしまった敦賀市。実際に訪れたのは今回が初めてだったけど、気比の松原から町中に向かって歩いていても、昔にはそれなりに繁盛していたような通りがあったけど、今ではかなり寂れた雰囲気しか感じられない場所となっていた。
目立った産業も無い敦賀市だったので、関西地方に近いこの場所に原発を造る事と、その原発事業からのお金が流入してくる事というメリットが重なって、この辺りに原発が造られる事になったのだろう。
確かに原子力という発電は最もランニングコストが安い為に、長期で安定して使うには最も優れた発電方法である。火力発電所のように煙も出さないので地球温暖化に繋がらないが、その代わりに2011年の東日本大震災のようにメルトダウンが発生すると、下手すればその地に長年人が暮らせない程に環境破壊されてしまう”諸刃の剣”なのであるが。。
人間って住む場所を破壊してまでも、”電力”というのを使いたいんガニ!
そして海沿いに漁船などが並んでいる光景を見ていると、今日の昼食はこのような海鮮丼を食べたいという気持ちになってくる。今日は朝5時半頃に大阪市内を出発して、午前9時前にこの敦賀に到着していたので、まだ昼食には早かった。
だけど、どこかで後になって食べる必要があったので、町中を散策している途中にもこういったお店も見逃さないように歩くのであった。
こちらは敦賀市のデザインマンホールで、気比の松原に代表される松の木と海岸、それと明治時代に造られた「立石岬灯台」がデザインされていた。
”原発半島”とも揶揄される敦賀市だけに、それを利用して原発デザインもありかと思ったけど、さすがに原発デザインは採用されていなかった。。
そして港近くの海岸沿いを歩いて行くと、昔の港に造られていたような倉庫群の建物が見えてくる。
その内、手前に4つ並ぶ昔の土蔵風の建物は、『木造倉庫群(旧敦賀倉庫株式会社:新港第4~第7号倉庫)』と呼ばれており、戦時中の”敦賀空襲”で焼失した後に再建された建物となっている。
そしてその奥にあったこちらの鉄筋コンクリート造りの建物は、『旧敦賀倉庫(旧敦賀倉庫株式会社:新港第1~第3号倉庫)』と呼ばれている倉庫で、”国登録有形文化財”にも指定されている。
なお、手前に建っていた第4~第7号倉庫よりも、こちらの第1~第3号倉庫の方が戦争で焼失しなかった為に古い建築物となっている。昭和8年(1933年)に建てられた倉庫で、当時は『モダン倉庫』とも呼ばれる程に外観デザインが敦賀では珍しかったようだ。
ちなみにこの倉庫は、現在もまだ現役で使われているカニ!
その倉庫がある通りを東に進んで行くと、「きらめきみなと館」という1999年に造られた多目的ホールの建物が見えてくる。てっきりこの敦賀市の博物館かと思ってしまったけど、残念ながら多目的ホールだったので中に入る事はしなかった。。
そして道を歩いていると、歩道にこのように「ユダヤ難民上陸地点780m」とペイントされているのが見えてくる。
個人的にはこのユダヤ難民が戦時中にこの日本に渡ってきた際の、歴史などが展示されている資料館目当てだったので、この案内を見た時には少し心が躍るのであった。。
そして素通りしようと思っていた「きらめきみなと館」の東側に、こちらの『敦賀港開港100周年記念モニュメント』が設置されていたので、ちょっと見学してみる事にした。
またこの海岸線沿いに東西に走る道路脇には、このように綺麗に桜の花が咲いていて、花見気分で歩ける素晴らしい道となっていた。しかし、こんな素晴らしい景観が楽しめる道を歩いている人は少なく、非常に勿体なくも思ったのである。
こちらがその『敦賀港開港100周年記念モニュメント』で、かつて北前船などの帆船が主流だった日本船を表す「帆」をイメージした作品になっていたようだ。昔の日本で使われていた和船は、江戸時代には大型船の建造が幕府によって禁止されていたので、小さな帆船が主流となっていた。
この日本海沿岸は『第八管区:海上保安本部』の管轄下で、敦賀海上保安部所属の高速特殊警備船「PS202 巡視船ほたか」が停泊しているのが見える。220トンの船舶で、最近日本を挑発してくる北朝鮮や中国などによって、出動する場面も増えているのかもしれない。
そして今回の敦賀旅も、こちらのオカンが同行していて、既に準レギュラーの座から、ほぼレギュラー近くの座に登ってきている。ただ、今回は花粉のシーズンという事もあって、花粉対策用のサングラスを装着して、敦賀見学に挑んでいた。
今回もヨロシクです、ブフっ!
この敦賀を訪れた2022年4月6日は、ちょうど桜の咲き具合が満開に近かった事もあって、遠路はるばる敦賀にやって来て良かったと思う程に、このような道路沿いにあった桜の景色を見て感じた。
ただ、桜はどこでも咲くけど、肝心のその花開いた桜を見る人はそこまで見当たらない。ただ、桜の名所となって人気のある場所は別にあり、みんなはその桜の名所で桜の花見をするようだ。
新型コロナウイルスが世界的に拡大した2020年に、ノーベル賞を受賞した事のある山中教授が「桜は来年も必ず帰ってきます」という言葉を発信していたが、その通り、この2022年も桜は綺麗に咲き誇っている姿が見られる。
ただ、桜は毎年咲くけど、それを見る側が来年も生きている保証がないだけに、「必ず来年も桜を見れます!」という保証はできないのであるが。。
こんな旅はまた次回に続きます!
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