福井県敦賀旅行記2022年4月-3
旅行期間:2022年4月上旬(当日旅)
定休日にご注意!
ここは福井県敦賀市のかつて敦賀港として大きく発展していた場所。そしてこちらに見える年代物のような建物は、ここに存在した「旧敦賀港駅舎」を再現して新たに造られた施設となっている。
旧敦賀港駅舎にて
そんな「旧敦賀港駅舎」を再現して作られた建物は、今では無料の資料館「敦賀鉄道資料館」として一般公開されている。ただこの訪問時は水曜日が定休日という事で、閉館になっていた。。
この建物周囲には桜の木が沢山見られて、桜の花が咲く春の季節には素晴らしい景観を見せてくれる場所となっていた。
なお、そんな桜の木はこちらの説明板にあるように、2001年に杉原千畝氏の夫人:幸子さんがこの地を訪れた時に、リトアニアとの友好的な交流を記念して植樹された物だったようだ。
桜は4月の僅かな期間にだけしか綺麗な花を咲かせないけど、それが日本人にとっては象徴のような存在にもなっている。短い期間だけ花が咲いて、すぐに散ってしまうその様子は日本人の気質を表しているかのようにも思える。
ここに存在していた明治時代に建造された「旧敦賀港駅舎」は、第二次世界大戦中の敦賀空襲で焼失してしまい、昔の姿を残した資料が見当たらなかった為に、当時の姿を正確に再現したものではなく、その時のイメージを想像して再建された建物となっていたようだ。
この敦賀の町は日本海側で最も早く鉄道路線が敷かれた町として発展するが、逆にその鉄道が延伸する事によって、港の優位性が失われてしまい、敦賀の町の繁栄は過去の物となってしまう道を辿るのである。
金ヶ崎緑地にて
そしてかつての敦賀港があった場所は、今では「金ヶ崎緑地」なる広場が設けられている。広場入口付近には、こちらのかつての灯篭をイメージした時計台が設置されているのが見える。
そしてここでも綺麗に咲いている桜の花を見る事が出来る。桜の花が咲くシーズンは、日本全国でもだいたいドコにいても見れるだけに、このような光景は日本人にとってはお馴染みである。
しかし、このような桜が咲き誇る景色の写真を冬場に眺めると、その春の到来が待ち遠しく思えてしまう気持ちになる。
日本人からすれば春になったら当然のように咲く桜の花が至って当然の事であるので、その桜の花を見れる幸せに慣れてしまっている。だから桜が咲く春以外のシーズンに桜の花が咲いていた写真を見ると、その有難さが改めて理解できる。
そして寒かった冬からポカポカ陽気となってくる春は、日本では新学期の始まりともなっているので、余計に新しい気持ちになれる季節でもある。それもあって、その気分のいい時期に合わせて咲く桜は、まさに日本人の象徴にもなっているのだ。
さてそんな金ヶ崎緑地の広い広場の方に向かって進んで行くと、奥で大勢の子供達が遊び回っている姿と声が聞こえてくる。子供達からすれば、そんな綺麗に咲く花よりも、思いっ切り走り回れる広い広場で遊べるのが楽しいのであろう。
そして一応の目的地である、ユダヤ難民などの資料館を探して緑地内をウロウロとする。すると右手に比較的新しい建物が見えてきた。ただ外観からは思わせぶりな建物に見えたけど、この建物は「金ヶ崎緑地休憩所」となっていた。
そんな休憩所脇には、こちらの「自由への扉」というモニュメントが設置されていた。そして右側にはイスラエルを訪問した時に見かけた「ヘブライ語」でのメッセージも入っており、ユダヤ人難民に関連したモニュメントだという事が分かる。
シャローム~~だカニ!
この広場には、こちらの大きな柱が植えられていて、それを中心に小学生のような子供達が走り回っていた。大人から見れば何気ない柱に見えるのだろうが、子供達からすれば、鬼ごっこで使う貴重な柱に思えるのかもしれない。
人道の港 敦賀ムゼウムにて
そんな柱を見ながら歩いていると、道の脇に比較的新しそうに見える建物があった。
この建物が目的の「人道の港 敦賀ムゼウム」というユダヤ難民などの資料館となっている建物だったが、想像していたよりもヒッソリとした雰囲気の中にあった。
この建物は、かつてこの敦賀港近辺に並んでいた「敦賀税関旅具検査所」や「敦賀港駅」や「大和田回漕部」などの建物の外観を復元して作られた資料館となっている。
ここ敦賀では明治時代に入って鉄道が敷かれ、後に近隣のロシアなどとの海外貿易で大きく栄えていった。そしてその際に北前船主であった豪商の大和田家が、大和田銀行を設立し、その敦賀港整備に貢献した。
なお、この敦賀市出身の有名人というと、俳優の大和田伸也と大和田獏であるが、この2人はその大和田家の子孫にあたるという。
へ~~~!
ただ目的地にしていた「人道の港 敦賀ムゼウム」は、ここも残念ながら水曜日が休館日となっていて、閉まっていたのである。。
なんでアンタ、前もって開いているか、確認しとかへんネン!(怒)
このような史料館や博物館の施設は、基本月曜日の休館が多いイメージだったけど、意外と水曜日に休みな施設も多いようだ。今回は大阪からそこそこ気楽に訪れる事のできる敦賀市だっただけに、油断して事前リサーチをしていなかったのである。。
綺麗な桜を見れただけで、満足するガニ!
閉館していた「人道の港 敦賀ムゼウム」の建物を見ていただけに、この足元の「ユダヤ難民上陸地点」という表示には、心が躍らなくなってしまった。。
なお、第二次世界大戦中に日本に渡ってきた数千人とも言われるユダヤ難民の大半は、この日本を経由地としてアジア地方やアメリカなどに渡っていった。その為に、この日本の地で暮らしたユダヤ人は少なく、それもあって日本国内ではユダヤ人街が見られない。
敦賀赤レンガ倉庫にて
そして次に訪れたのが、敦賀市内の観光地としてよくメディアなどで見られる「敦賀赤レンガ倉庫」。このような赤レンガの建物は明治時代以降に港周辺に倉庫として建てられた物が多く、現代ではその役目を終えて観光資源として活用されている所が多い。
この赤レンガの建物は明治38年(1905年)に、「旧紐育(ニューヨーク)スタンダード石油会社」の石油備蓄倉庫として建造された建物となっている。それと建物脇には、JR小浜線を昔に走っていた『国鉄キハ58系気動車』の車両が、展示保存されている姿も見られた。
「国鉄キハ58系気動車」はディーゼル車で、高度経済成長期の日本国内で1960~1980年代に多く走っていた。しかし、ディーゼル車も時代遅れとなり、新しい車両の台頭で2000年を持ってこのキハ58系気動車は、JR路線から姿を消す事になった。
そして赤レンガの建物の場所から、東側の丘の上に緑の中に桜の木が沢山植えられている場所が見えている。あの辺りは「金崎宮」という神社があり、そのもう少し上に登った場所に戦国時代に朝倉氏の支城だった「金ヶ崎城跡」がある。
それとこの敦賀赤レンガ倉庫も周囲に誰も居なくて「活気がないな・・・」と感じていたら、なんとここも本日水曜日が定休日となっていたのである・・・。
だから、水曜日は閉まっている所が多いって言ったヤロ!(怒)
しかし逆に考えれば、閉館の日の方が人が居ないので、建物の写真撮影や記念撮影などに打って向きな日でもある。だから、この福井県らしさを出している『フクイラプトル博士像』を独占できるのである。
「ラプトル」というと、映画『ジュラシックパーク』内では人間を狙う獰猛な恐竜として描かれているが、このように像にすると可愛らしくも思える。しかし、この頭の骨格を見れば分かるように、大きな物にかぶりつけるように大きく長い口になっている。
映画『ジュラシックパーク』で出てくるラプトルだったら、こんな記念撮影をしている間に、あっと言う間にオカンは嚙みつかれている事だろう。。
恐竜に食べられて死ぬのは本望だ~~!
このフクイラプトルは今から約1億2000万年も前の、『前期白亜紀』時代に生存していたと考えられている。その時代は温室効果ガスが多く出ていた為に、今よりも温暖な気候だったとされている。
ただ長い時間をかけて多くの恐竜へと進化していった生物が多かったが、そんな恐竜時代も氷河期によって絶滅する時代が来るのである。
この明治時代に造られた敦賀赤レンガ倉庫では、2棟ある建物だけではなく、その外側を囲む「煉瓦塀」も国の登録有形文化財に指定されている。定休日だったので残念ながら建物内には入れなかったが、その代わりに外から煉瓦塀と共に、その歴史を眺めるのであった。。
こんな旅はまた次回に続きます!
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