福井県敦賀旅行記2022年4月-4
旅行期間:2022年4月上旬(当日旅)
元気な桜!
このように敦賀市内には道路の脇に桜の木が植えられている為に、”桜並木”の景色が多々見られた。特に桜の咲く4月上旬に訪れると、このように町散策をしながら、桜見物も楽しめるようになっている
敦賀市内にて
そして桜に吊られて歩いていると、こちらの廃線跡の姿が見えてくる。この線路は、1882年に開業してから2019年に廃線となるまで、約130年間に渡って主に貨物列車用路線として使われてきた「敦賀港線(北陸本線貨物支線)」跡となっている。
地方で使われていた貨物路線も、物流がグローバルな時代となって、より便利な&多くの物量をさばける近代的な港に時代と共に移行していった為に、敦賀の港も時代から取り残されていった。物流網がコンテナ輸送の出現によって1950年代以降に大きく変革されたが、それと共にこのように昔からの港の多くは衰退してしまった。
今日は平日だったので敦賀市内を歩いている人の姿をあまり見かけなかったけど、桜の名所となっている「金崎宮」へと続く道だけは、車が列を成して、多くの人が訪れていた。
金崎宮を訪問!
こちらは金ヶ崎城跡の近くに建立された「金崎宮」などの駐車場として用意されている敷地だが、これまで見てきた敦賀市内にはあまり人がいなかった印象だけど、この駐車場だけはこのように車が溢れている光景が見られた。
金崎宮が建立されている山の麓には、約1000本ものソメイヨシノが植えられているそうで、このようにまずは駐車場から満開の桜が出迎えてくれた。駐車場で既にこのような綺麗な桜の花を眺める事ができるので、わざわざ山の上に登っていく必要性を感じさせない程だった。
ただ、個人的にはそんな金崎宮よりも、戦国時代まで存在していた「金ヶ崎城跡」に興味があったので、この駐車場で満足する訳にはいかなかった。
ここにあったという「金ヶ崎城」は中世の頃に築かれた城で、戦国時代には朝倉氏の支城にもなっていた。その戦国時代に朝倉氏に攻め込んできた織田信長軍が占領したが、同盟関係にあった浅野氏が裏切って背後から攻めてきた為に、織田軍は挟み撃ちにされてしまう事になる。
有名な『金ヶ崎の戦い』だカニ!
この金崎宮で祀られているのは「尊良親王(たかよししんのう)」という、後醍醐天皇の息子という皇族で、南北朝時代の戦いの中でこの金ヶ崎の戦いで戦死した人物。その尊良親王の妻だった「御匣殿(みくしげどの)」との恋愛伝説が残っており、その恋愛にあやかって『縁結び』や『恋愛成就』などに御利益があるとされている。
この金崎宮では『花換まつり』という行事が明治時代から行われており、参拝に来た男女が桜の小枝を交換する事でお互いの気持ちを伝えるという、明治時代の”告白タイム”となっていたという。
ただ『花換まつり』では必ずしも意中の異性と小枝を交換できる訳ではなく、相手に気に入られなかったら交換が拒否されるというシステムだったという。なお、今の『花換まつり』では購入した造花に願掛けをして、それを福娘に『桜の小枝』と交換してもらうようになっている。
なお、福娘は神様の代理だとされているので、この時に交換するだけで願いが叶うとされているとか。。
そんな神頼みの行事にはあまり興味がないけど、とりあえず城跡の様子を見たいので、金崎宮への参道を進む事にする。
なお、この金崎宮は明治23年(1890年)頃に建立された神社で、尊良親王の異母兄弟であった「恒良親王(つねよししんのう)」も後に合祀されて祭神となっている。
普段はそんなに参拝者が来ないと思う金崎宮だけど、この桜が咲く春の時期は『花換まつり』が行われる時期でもあるので、一番賑わう頃なのかもしれない。
人間は”祭”がとても好きな生き物だカニ!
その参道入口脇にあった寺は「誓法山 金前寺」という、高野山真言宗の寺院。奈良時代に起源を持つ寺のようで、長く敦賀市内の歴史を見守ってきた寺でもある。
そして参道には、祭の際に付き物の「屋台」が少しながら出店している姿を見かける。子供からすれば、祭というとこのような屋台が並んでいるイメージを持っている事だろう。だから幼い頃には神社に行くという事より、このような屋台で何かを買い与えてくれるのが嬉しかった記憶の方が多いと思う。
2020年からのコロナ禍の影響で、祭りに付き物の屋台が出店禁止となり、今までは参道に溢れていた屋台が全く見られなくなってしまった。しかし、最近になってコロナも下火になってきた事を受けて、今までの借りを返すかの如く、巻き返しを果たすべく、より美味しそうに見える暖簾などを掲げている屋台が見られた。
昔の屋台で、小籠包なんて売ってなかったで!
ただこれから金崎宮の本堂などがある山の麓まで登っていく参道は、そんなに道幅がない事もあって、屋台は下の寺敷地内ぐらいにしか出ていなかった。
このように敦賀市内でもきっての”桜の名所”となっている金崎宮だけあって、参道の階段から桜の花が綺麗に咲いている光景が見られる。このようにお歳を召した方にはちょっとしんどいような坂になっているけど、この満開に咲く桜の景色を見ているだけで、その疲れが癒されそうに思える。
1000本を超えるソメイヨシノが植えられている金崎宮だけあって、この参道坂道から遠慮なく桜が見られるようになっている。これだけ桜が咲いていると、普段は階段を登るのが嫌に思える人も、ついつい登ってしまいそうな光景である。
階段を登る事がシンドイのは、一緒やで・・・
そしてこの金ヶ崎城跡は、戦国時代に織田信長軍が挟撃されて逃げる際に、羽柴秀吉が殿を引き受けて奮迅した戦でも有名な場所である。昔の戦いでは逃げる時が最も危なく、その殿を受け持つ事は最も死に近い事を意味していた。
しかし、そんな最も死に近い殿を担当する事はその武将にとって最大の名誉であり、主君を生きて逃がす事が出来れば英雄として称えられる、命懸けの名場面でもあった。
今の時代には、上司の為に死ぬヤツはおらんガニ!
そしてコロナ禍という事もあって、この参道の階段は「右側通行」となっていた。日本の道路は「左側通行」が一般的になっているが、この階段はその逆の右側通行だった。
なお、日本の道路が「左側通行」となっているのは、武士が左腰に刀を差していた事が由来しているという説がある。武士が右側通行をしていると、左側を通った別の武士の刀と自分の刀がブツかる可能性があった。その為に刀がブツからないようにと、左側通行が一般的になっていったとされている。
カニの世界では、両側通行だカニ!
なお、この金崎宮で桜が咲く期間に行われている『花換まつり』は、初穂料500円の料金が発生する。その500円で造花をもらい、願いなどを短冊に書き込んで、それを福娘と交換するようだ。
ただ、福娘相手に告白は出来ないガニ!
その参道の階段を登っている途中に脇を眺めると、下に桜の木が見えており、その先には廃線になってしまった線路跡も見えている。この線路を使っていた敦賀港国際ターミナル自体はまだ稼働しているので、その港で積み下ろしするコンテナは、貨物列車ではなくトレーラーによって運ばれるようになっている。
そこそこに階段の段数があった金崎宮。最近の人はこれぐらいの段数を登っただけで弱音を吐く人が多くなっているけど、今から200年前の人達の多くは徒歩でどんな場所にでも移動していたのである。そう考えると、現代人は江戸時代の人と比べて、足腰がかなり衰弱しており、これからの世代はもっと衰弱していくのだろう。
私らが弱いのではなく、江戸時代の人がバケモンやったんや!
そしてやっと金崎宮の鳥居が見えてくる。境内にも多くの桜の木が植わっている光景が見られて、先に進むのがより楽しくなっている景色ともなっていた。
金崎宮の境内にて
桜が咲く4月上旬は、それまでの寒かった冬の終わりと、新しい学期が始まってのスタートという意味合いを兼ねている。
それだけに桜の花が咲く季節が待ち遠しく、また日本人にとって印象的に思えるシーズンともなっている。
そして境内に多くの観衆が奥で行われていた「猿回し」を眺めている光景が見えてきた。猿回しというと、日本古来の伝統的な芸事として行われてきているが、近年の”動物愛護”の考えもあって、これから衰退していきそうな文化のようにも思える。
先日には猿回しの芸を披露している最中に厳しい躾がされていたとして、動物虐待にも思わせるニュースが流れていた。しかし、このような厳しい躾は今に始まった事ではなく、昔から当然のように行われていた行為である。
なので普段は目の前で猿とは思えない程の芸を披露して喜んでいる観衆も、その裏では猿は自分の意思で芸を演じているのではなく、飼育されている人間によって芸を虐げられているという事を理解する必要があると感じる。
その為にボクはこのような猿回しの芸が行われていても、全く見たいとも思わないのである。。
お猿さん、可愛かったのに!
そして境内にはこのように 『花換まつり』を盛り上げる提灯なども吊るされているが、これも地元企業などから寄進されている。そんな提灯を寄進した会社の中でも、特に目を引くのがこちらの「げんでん(日本原子力発電)」であった。
2011年に起きた悲惨な事故の影響で、すっかり国内では原子力発電が悪者扱いされてしまった。しかし、エネルギー物価が高騰した2022年には、石炭や石油や天然ガスを使う火力発電所だけだと、途轍もなく電力代が高くつく為に、仕方なしに原子力発電が再開される運びになってきたのである。
こんな旅はまた次回に続きます!
よければ下記ブログ村のボタンをポチッとお願いします!
↓↓↓↓福井県敦賀旅行記:初回↓↓