神奈川旅行記2020年秋-51
旅行期間:2020年11月24日~27日(3泊4日)
(History of Kanagawa flowing from Sagami Province at the Kanagawa Prefectural Museum of History [Kanagawa Travelogue 51)
相模の歴史!
さてこれから数回に渡って神奈川県旅最終日に訪れた「神奈川県立歴史博物館」での、見学したブースについて紹介していきます。旅の思い出は綺麗な景色や美味しい食べ物という人も多いと思うけど、やっぱり訪れた場所がこれまで長い時間を掛けてどういう歴史を辿って来たかを知ると、その思い出がより深いものになる。
住所:神奈川県横浜市中区南仲通5-60
営業時間:9時30分~17時頃(※定休日:月曜/他HP確認)
電話番号:045-201-0926
観覧料:20歳以上300円/20歳以下or学生200円/高校生or65歳以上100円/中学生以下無料
神奈川県立歴史博物館の見学!
しかし人類の技術革新というのは、何も19世紀のイギリスの産業革命だけではなく、昔からいくつも起こってきた。縄文時代には人々はその辺に落ちている石を割って研磨したり、サメの歯を使ったりしていたのが、青銅器や鉄器を開発するようになって、頑丈な物が造られていくようになる。こういった技術革新を繰り返して、今の世界が造られている訳だ。
そんな青銅器や鉄器などを見た後で再び縄文時代の土器や埴輪を見ると、ちょっと文化が低かったように見えてしまう。しかし、このような時代を経たからこそ、その後の技術革新が生まれた訳で、何も無い所から新しい技術が生まれる事はまずない。
このように埴輪などで物を作るという事を繰り返すと、「更に良い物を作るには?!」と考えていき、試行錯誤を繰り返して新しい技術に出会う事に繋がる。勿論全ての人が技術革新に成功する訳ではないけど、技術革新に成功した人はみんな試行錯誤を繰り返して諦めずにやり通した人ばかりである。
海蝕洞窟で暮らしていた縄文人なども、次第にこういった家を造れるようになって行動範囲が広がっていったのかもしれない。現代人から見れば台風が直撃すれば全部飛ばされてしまうような家にしか見えないけど、当時はこれが最新鋭の家で自慢していたのかもしれないが。。
そして次のブースに向かうと、手を挙げてこちらを出迎えてくれているかのようにも見える木彫りの仏像が見えてくる。目に見えない不安に駆られやすい人間は、精神的に救いを与えてくれる宗教という物に活路を見出していった事がこの木像を見れば分かるような気がする。
「都とさがみの国」にて
神奈川県というとやっぱり大河ドラマじゃないけど、鎌倉時代のイメージが強いように思う。しかし、それ前後の歴史は鎌倉時代に比べると知名度がないだけで、勿論鎌倉時代前後の歴史は何かしらある。しかし学校などの勉強では教えられる程の内容ではないので、こういった博物館でじっくり学ぶのがいいのである。
こちらの模型は奈良時代に相模国で建立された「相模国 国分僧寺」という、聖武天皇が仏教を国内に広めた時に全国に造らせた国分寺の1つ。ただ相模国:国分僧寺は平安時代に衰退するが、鎌倉幕府の時代に修復される。しかし、その後も繰り返し衰退と修復を繰り返して、人類に弄ばれたような歴史を辿った寺でもある。。
要るんか要らんのか、ハッキリせえ!
全国に造られた国分寺では7重の塔を造るようにも指示があったらしく、その当時の様子を再現した模型が置かれている。なお相模国:国分僧寺跡は神奈川県海老名市国分にあり、隣に国分僧寺の後継の寺が造られている。また国分僧寺跡は国の史跡となっており、かつては法隆寺のような構えの寺だった可能性があるとか。
次のコーナーに差し掛かると、いきなり大きな立体模型が斜めに展示されている光景が見えてくる。このような立体模型って普通は平面状態で置かれている場合が多いけど、このように斜めから見た方が意外とインパクトを大きく感じるように思う。
このように鎌倉幕府が置かれた鎌倉の地形を立体で見ると、また違った印象を感じる。最近よく使うグーグルマップでも、このような隆起した山の細かい形までは再現されないので、こういった模型のアナログの良さが分かる。それと共にこの模型を見ると山に近い事が分かるけど、その山は防御と共に湧き水を得る事の利点も想定して、そのような場所に鎌倉幕府が配置されていた事も分かる。
改めて鎌倉の場所を眺めてみると、街が山の隙間に並んでいるのが見て分かる。地球上に生きる生物に絶対必要な物は水で、山があるという事はそこに降った雨が地中に溜まって自然の湧き水として、その近くに還元されてくるのである。
このように鎌倉を東側から見ても、山を通り抜けないと簡単には辿り着けないような立地になっている。これは東側だけではなく、西側も北側も山に囲まれており、南側は海となっていて自然の要塞に鎌倉幕府を置いていた事が分かる。過去に都が置かれていた場所には必ずその設置理由があるが、そういった観点を頭に入れつつ鎌倉の街散策をすると、また違った目線で観光が出来る事だろう。
平氏との戦いで負けて伊豆の地へ流された源頼朝は、それから後に平家追討の命を受け重い腰を上げて、再び平氏に立ち向かう。しかし初戦で自軍の10倍以上の兵力を持った平家方の大庭景親に負けて千葉へと逃げ込むが、徐々に力を蓄え、また相模武士達の信頼も得ていき、最終的には大庭景親を打ち取り、鎌倉を本拠に構える。
こちらは人が斬られて血がドバ~~っと噴出している強烈な描写がされている絵だが、これは『酒吞童子絵巻』という江戸時代に描かれた、源頼光がその配下の四天王と共に丹波国:大江山での酒呑童子討伐の様子を描いた内容となっている。だから派手に斬られている方は、その辺の飲んだくれのオッサンという訳ではなく、一応鬼という設定だったようだ。
この当時は飲んだくれのオッサンが酒吞童子だった時代ダね!(笑)
この『酒吞童子絵巻』の伝説では、京に住んでいた若者や女が消え去るという不思議な事件が多々起こった。そこで安倍晴明に当時の天皇が占わせると、丹波国:大江山に住む鬼の仕業だという。そこで天皇は大江山に源頼光を向わせて討伐してくるように命ずる。
そして大江山に辿り着いた源頼光は一計を案じ、山伏に扮して鬼の住む城に泊めて欲しいと願い出る。そして鬼に怪しまれた源頼光も何とか素性を誤魔化して、鬼と酒を飲み交わしてその距離感を縮めていく。そして鬼が酔っ払ってきたタイミングで忍ばせていた毒入りの酒を鬼に飲ませ、そして鬼が毒酒に酔って寝込んだ所を襲ったのである。。
酔っ払った所を襲うとは、なんと卑怯な!!
そして見事鬼の首を切り落とす事に成功した源頼光であるが、なんとその切り落とした鬼の頭部はそんな状態でも源頼光の頭に向かって噛みついてきたのである。そこで配下の兜を重ねて被って、何とか鬼からの嚙みつき攻撃をはねのけた源頼光。
「面白い鬼型の兜だな~」と思ってました(笑)
そら、酔っ払って寝込んだ所を襲われたら、鬼も怒るけ!
そしてこちらの図は鎌倉時代に強大な勢力を保持してアジアを支配したモンゴル帝国が、日本を襲ってきた”元寇”の時の進路が描かれている。学生時代の歴史では学ぶ元寇だけど、意外とその詳しい移動ルートなどは覚えていない。当然ながら朝鮮半島から直接やって来たのではなく、その途中にある対馬や壱岐の島などを経由して九州地方に辿り着いている。ちなみに壱岐の島では防衛にあった武将らは、ほぼ全滅してしまっている。
またこの当時のモンゴル帝国の領土が右上に描かれているが、中国や朝鮮半島から黒海付近までという、途轍もない領土を誇っていた強国だった。しかし領土が大きくなればなるほどに色んな問題が出て、ローマ帝国やオスマン帝国なども同様に領土を広め過ぎた為に衰退していったと言っても過言ではない。だから領土開拓と衰退は紙一重と言えるかもしれない。
「小田原の北条家」にて
そして鎌倉幕府は源頼朝が亡くなった後は子孫が続かずに、源頼朝の妻となった北条政子の父である北条時宗が周りの御家人を排除し、北条氏がその後を継いで執権という鎌倉幕府の実権を握り続けた。しかし鎌倉幕府も約150年の間に腐敗してしまい討幕する力が全国で増えて、後醍醐天皇を筆頭とする討幕勢に押し切られて滅亡に至る。
そして鎌倉幕府の滅亡後、約150年程の歳月を空けて再び北条氏が関東を支配する事になる。しかし注意しないといけないのはこの室町時代~戦国時代に活躍した北条氏は鎌倉時代に執権として支配していた北条氏の生き残りではなく、『備中伊勢氏』から台頭してきた勢力である。そして鎌倉時代との北条氏と同じ名前を襲名した為に紛らわしく、その為にこの室町時代~戦国時代に活躍した北条家は「後北条氏」としても呼ばれる。
その後北条氏は初代の北条早雲(伊勢宗瑞)を祖氏とするが、北条早雲⇒北条氏綱⇒北条氏康⇒北条氏政⇒北条氏直という5代でこの関東の大部分を支配する事に至る大名と成長していく。なお、この後北条氏が鎌倉付近に領地を持っていた山内上杉家を打ち負かした為に、山内上杉家は越後の長尾家を頼りに逃げ落ち、その先に長尾景虎(上杉謙信)が誕生する事にもなる。
こちらは後北条氏が築いた勢力図で、ほぼ関東圏の重要な部分を支配していたのが分かる。後北条氏は戦国時代に織田信長の跡を継いだ豊臣秀吉の前に屈服せずに強固な小田原城に籠城作戦を展開したが、後に天下を治める事になる豊臣秀吉に捻り潰されて終わりを迎える事となる。。
秀吉の強烈な小田原攻めには、度肝抜かれタよ・・・
こちらは後北条氏3代目:北条氏康の弟が開基として小田原城内で建立した本光寺に対して、北条氏康が送った『北条氏康判物』という1548年頃に作成された書状。これは北条氏康が本光寺に対して、税金の免除と支払うべき項目を指示したもの。
こちらも『北条家朱印状』で、当時の裁判沙汰になっていた本光寺の所領地かどうかを指示する内容になっているようだ。この北条家は戦国時代好きなボクは勿論知っているが、その成り立ちなどについては全然知識がなかっただけに、ここの資料が良い勉強になった。
こちらには鎧兜も展示されていたけど、この流れで北条家に伝わった鎧かと期待したけど、残念ながら北条家ではなくて藤堂家の分家に伝わった鎧兜のようだった。
なお、後北条氏は豊臣秀吉の前に敗北して滅亡してしまったけど、その子孫は死罪を免れて存続し、第5代当主:北条氏直が徳川家康の娘婿だったのもあって江戸時代には大阪で狭山藩主となって豊臣家より長く生き残る事になった。
こちらに置かれていた模型の屋敷は、鎌倉時代の幕府に関与していた有力な武士の館を想定したものだそうだ。まあ鎌倉時代に実際にタイムスリップしてその景色を見て来た人が造った訳でもないので、このイメージはあくまでもその時代考察をした”推定”の家のようだが。。
ただこのような造りの家屋が多く、母屋と離れがあったりと、今の都会では考えられない位に敷地が広いのには驚く。もしこの広さの土地を都心で持っていれば、直ぐに売って大きな高層マンションが造られるような土地にしか見えない。。
そして鎌倉時代には近くの海に浮かぶように見えた江ノ島を、弁財天が宿る島として信仰の対象としており、鎌倉幕府初代征夷大将軍:源頼朝も江ノ島によく参拝に来ていたそうだ。また江ノ島では源頼朝の寄進した石の鳥居が、今でも残されている。
平安時代頃から貨幣という流通システムが出来てきたが、中世の日本で使われていた貨幣は国内で製造した物ではなくて、古代中国から輸入した古銭などが使われていた。なおこの古銭は1955年に鎌倉市内の道路工事の際に、土の中から発見された約12,000枚もの古銭の一部だという。
どうせなら徳川埋蔵金が出て来て欲しいよね!
その古銭は大半が北宋と南宋で使われていた物で、こんなにも種類があるようだ。ちなみにお金にまつわる日本語の漢字は貝辺が多いけど、その理由は大昔の人達が貝殻をお金代わりに使用していたからとされている。貝殻がお金代わりに流通するなんて現代人には考えられないけど、逆に昔の人からするとその価値を担保する物がない「暗号通貨」という物も逆に考えられない物になる事だろう。
モンゴル帝国は日本国内に攻め入る事は出来なかったけど、この図のように中国大陸からは多くの交易品が日本国内に流通していた。こういった図を見ると、日本というのも中国大陸に大きく依存して生きてきた種族であり、今更中国大陸との関係も簡単に切る事が出来ない理由も分かるような気がするのであった。。
こんな旅はまた次回に続きます!
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