神奈川旅行記2020年秋-53
旅行期間:2020年11月24日~27日(3泊4日)
(Learning at the Kanagawa Prefectural Museum of History 3: Products of Kanagawa and the demonic Commodore Perry.[Kanagawa Travelogue 53)
日本を変えた男!
今回も引き続き、横浜市内にある神奈川県立歴史博物館での見学の様子が続きます。いつも歴史博物館を見学するのですが、実は思った程に滞在時はそこまで歴史を勉強している訳ではなく、このブログを後日作成している時の方が大きく勉強できる。だから見返す事の大事さと、そこに一歩踏み込んで興味を持って調べる事の大事さも分かるのである。
住所:神奈川県横浜市中区南仲通5-60
営業時間:9時30分~17時頃(※定休日:月曜/他HP確認)
電話番号:045-201-0926
観覧料:20歳以上300円/20歳以下or学生200円/高校生or65歳以上100円/中学生以下無料
神奈川県立歴史博物館の見学は続く!
江戸時代は現代とは比べ物にはならないけど、それまでの時代と比べても街道が大きく整備されて、各所に宿も造られていったので、遠出しやすくなった時代でもある。昔は日本全国を行脚した僧侶ぐらいしか全国巡りが出来なかったけど、江戸時代になると旅行者向けグッズなどの製作が始まり、今みたいな完全な観光という訳ではないけど、移動する人々が増えていった。
当時の移動の際にはやっぱり大事だったのはお金で、来ている物や草鞋などはもし破れたりしても現地で購入する事が出来た。だから何でもかんでもカバンに詰めて持って行くと、道中かさばってシンドイだけなので、旅慣れてくる程に軽装となっていく。
今みたいにバスや電車で移動する時代はなく、一日何時間も徒歩で移動していた江戸時代。なので負担になる荷物はできるだけ軽くしなければならなかった。逆に現代はツアーバスなどで周遊してくれるので、海外ツアーでは大きなスーツケースの中身を埋める為に日本からわざわざミネラルウォーターを詰めてくる人なども意外と多い。
こちらには『東京名所四十八景』という、昇斎一景が歌川広重(初代)の描いた『名所江戸百景』に対抗して、東京の名所を描いた作品集である。そして歌川広重の描いた江戸に対して、昇斎一景は明治時代となった東京の様子を描いており、文明開化の雰囲気が感じられる風景画となっている。
こちらはその昇斎一景が描いた『日本はし夕けしき 第一』(1871年)というタイトルで、東京の日本橋周辺を描いた作品となっている。そして明治3年に営業が始まった人力車がお客を乗せていたり、外国人と思われる人物が馬に乗っていたりと、明治時代には江戸時代と大きく時代が変わりつつある様子が描かれているのが分かる。
富士山の噴火が過去記録されている中でもっとも新しく、かつ大きな噴火であったのが、こちらで説明されている宝永4年(1707年)に起きた『宝永大噴火』である。この時は富士山の大噴火の前から、何回も大きな地震に襲われていて、富士山噴火の兆候が見られた時代のようだ。
その宝永大噴火の時の様子が描かれている書状がある。この書の中に富士山から火が上がっているように見える箇所があるが、この大噴火の際に出来たのが「宝永山」(標高2693m)で、今では普通に登山も出来る山となっているようだ。
この宝永大噴火では多くの火山灰が吹き出し、周辺の土地に降り積もった。こちらはその当時に降り注いだ「宝永テフラ」と呼ばれる岩砂であるが、このような火山灰が一面に積もってしまうと農作業に大きな悪影響となる。その為に小田原藩などでは幕府に救済を求めたが、約20年間ほどはまともに復旧できずに、この小田原藩では元の米収穫量に戻るまで約90年程を要したという。
この神奈川県には徳川家の直轄地や旗本が多かった。それだけ江戸に近い場所は信頼できる者を配置して、都を守る必要があったからでもある。その為に多くの旗本がこの神奈川県付近にいた事もあって、内側ではなくこの外側に関所(箱根)が造られていた。
こちらには神奈川県の物産品の絵が掛けられている。このように地域によって色んな特産品が昔から採られていて、現代にもその名残りを残す物や、ほぼ消えた物もあったりと、非常に興味深い地図にもなっている。
昨日訪れた三浦半島は周りを海に囲まれているだけに、海産物がメインとなっている。また三浦半島南端の漁港:三崎は、昔からマグロで有名だったようだ。それと三浦半島で今ではすっかり存在感が無くなってしまった三浦大根も、しっかり表記されているのが見える。
こうやって見るとやっぱり海の近くは、どうしても海産物がメインとなるのだろう。そして川がある場所は川から採れる鮎だったりヤマメだったりするが、内陸になれば野菜や果物というのが多かったようだ。
そして次のブース入口に大きな大砲が置かれていたけど、こちらは江戸時代末期に東京湾防衛の為に製造された「80ポンド陸用カノン砲」で、本物は靖国神社に保管されているらしく、ここに設置されていたのはレプリカだという。
このようなカノン砲(キャノン砲)は国内の戦い向けではなくて、幕末に開国を迫ってきた諸外国勢を追い払う為の大砲。しかし、青銅製の大砲だったので資源国ではない日本では、その青銅があまり入手できずに満足に生産する事も出来なかった。
このようなカノン砲も東京湾沿いの台場に配備されたが、その出番は殆ど無かった事だろう。ペリー来航後に開国した日本は他の外国勢とも条約を結び、最終的には内部分裂を起こして江戸幕府は消え去ってしまう。この歴史を見ても、長期政権の支配であっても必ず滅びる頃合いが来て、新しい時代がやって来るという事である。
江戸時代の日本はオランダ以外には貿易を認めずに鎖国という制度の元で、200年以上も過ごして来た。しかし全く外国の文化が入ってきていなかった訳ではなく、唯一の貿易国オランダからの書物などを通じて、国内では蘭学と呼ばれる西洋学がブームになりつつあった。
これだけ大きな地球の中で約200年間も閉じ籠っていると、他国で生み出された最新の発明などの恩恵を受けれずに、経済も停滞してしまい易い。特に日本は米を代表する農産業がメインの国であったが、この江戸時代には富士山の大噴火などもあって気温の低下していた時代が長く続き、その影響もあって飢饉が何度も訪れた。
そしてそんな日本の未来を変えたのが、アメリカ合衆国である。アメリカは江戸時代後半に太平洋で鯨を沢山獲っていて、その太平洋で捕鯨船の補給基地を日本に造りたかったのである。そんなアメリカで日本開国を至上の目的とした一人の男が、日本に送り込まれる事になる。
日本を変えたペリー提督!
1852年11月に東インド艦隊司令長官に任命された「マシュー・ペリー(Matthew Perry)」は、南アフリカからのインド航路で約8ヶ月掛けて日本の浦賀に辿り着く。それまで諸外国からの開国要求をのらりくらりと交わしていた日本だが、ペリーは友好的に進めるのではなく、大きな蒸気船を見せつけて武力をチラつかせて脅せば、開国するハズだと考えていた。
そしてここに置かれていた絵は全て酒呑童子の鬼みたいにも見えるけど、全てペリー提督を日本人が描いたものである。それまでは西洋人を殆ど見かける事がなかった日本人が、その特徴をやや誇張して描いているようにも見える。しかし、いきなり190cmを超える大男がやってきて、目や髪の色が違っていたり、鼻が天狗のように長かったりと、ビックリした事は否定できない。
ただ上の絵は怒り狂った酒呑童子の鬼みたいに見えるけど、こっちの絵はまだ比較的穏やかな顔つきに見える。日本に初来日した時は50歳代後半だったので、それなりにいい年でアゴの下がシワシワになっているのが、少し笑えるポイントでもあるが。
この時の日本ではペリーではなく「ペルリ」と認識されていたペリー提督。しかし、その交渉についての眼力は確かで、他の国が再三開国を迫ってもしなかった日本を、一撃で開国させたのはさすがとしか言いようがない。最近では何でも噛んでも和平を強調して穏やかな外交交渉が多いけど、トランプ前大統領のように強引に正面突破していくという交渉術も時には必要なのである。
しかしともあれ、ペリー提督の来航によって日本はしぶしぶ開国に応じて、そこから大きく日本の未来が変わったと言えるだろう。それまで蓋をしていた日本に急激に海外からの文化が流入した為に、保守的な江戸幕府も急な対応が出来ずに崩壊寸前になっていく。
しかし日本では既にオランダを経由して、諸外国の色んな情報も常に入手していた。またこのペリー提督の来航に関して、約1年以上も前から日本にその情報が伝えられていたので、全く無警戒の日本にペリー提督が乗り込んできたという訳でもない。
こちらの書物はオランダ商館の医師として1690年から2年間出島に滞在していた、「エンゲルベルト・ケンペル(Engelbert Kämpfer)」が書いていた『日本誌』である。長崎から江戸に呼ばれて江戸幕府第5代将軍:徳川綱吉にも謁見した事もあるケンペルは、帰国したのちにこの書をまとめる。そしてこの本はヨーロッパで発売されて、当時はまだ日本という国がどういう国なのかを紹介する資料が少なかった時代に、大きな影響を与えたようだ。
シーボルトの大先輩のような存在ダね!
戦国時代の風雲児:織田信長の家臣に黒人が居たというのは有名な話だけど、今の時代でも黒人を国内で見かけると注目してしまうけど、江戸時代だともっとビックリした目で見られた事だろう。人間も何十世代も暮らした場所で大きく身体的特徴が変化するが、そのNDAパターンは99.9%以上も一致するという。
そしてアルファベットというと、江戸時代に太平洋を漂流してアメリカの捕鯨船に助けられて、アメリカ大陸に渡ったジョン万次郎が体で覚えた英語が印象的である。なおその時代はジョン万次郎だけではなく、ロシアに流れ着いたゴンザなど同様に海外の言葉を習得した日本人が居たけど、ゴンザは残念ながら現地で亡くなってしまった為に、その功績が国内で認められる事は殆どなかった。
しかしジョン万次郎は捕鯨船で働いて副船長の座まで登り詰めて、またアメリカの西海岸でゴールドラッシュにも参加して日本に帰国する費用も稼いだ。そしてやっと帰ってきた日本ではまず罪人扱いされるが、海外かぶれの島津斉彬公に気に入られて、洋船の建造技術などの指南を行う。そしてその英語力を買われて、ペリーが来航した際に江戸幕府の通訳になるのであるが、実際にはペリーと対面する事はなかったという。
そして時代は進み、明治時代になると外国の文化と共に多くの外国人が日本国内にやってくる。最初は居留地を造ってそこに滞在させていたが、日本に来る外国人の多くは日本という国に大きな興味を持ってやって来た。そしてそんな好奇心溢れる外人たちは居留地ではジっとしているハズもなかった。
ちなみにこちらは世界一周の旅で立ち寄った、アメリカ人女性が所有していた日本旅行の資料。その当時は外国人はまだ自由に日本国内を訪れる事は出来ずに、キチンと日本政府に許可を得ていなければ旅行できない時代でもあった。
こんな旅はまた次回に続きます!
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