神奈川県立歴史博物館で学ぶ④:黒船来航から関東大震災で変貌を遂げた横浜【神奈川旅行記54】

神奈川旅行記2020年秋-54

 旅行期間:2020年11月24日~27日(3泊4日)
(Learning at the Kanagawa Prefectural Museum of History 4: Yokohama transformed from the arrival of black ships to the Great Kanto Earthquake. [Kanagawa Travelogue 54)

変わる日本!

横浜の街は関西の神戸のように江戸時代の終わりに諸外国に開かれた港町で、それぞれに日本に駐留した外国人が住んでいた地域:居留地が異世界のような雰囲気を漂わせていました。そしてそんな日本にやって来た外国人が持ち込んできた外国文化が大きくこの居留地に根付き、そこを出入りする日本人達にも派生していく事になります。

 

 

 

神奈川県立歴史博物館での見学!

この外国人居留地は江戸時代の終わり頃に設けられた場所だが、これは日本にやって来た外国人を守る為の場所でもあった。というのも日本国内は長年の鎖国の影響で庶民が外国人に接する機会が殆ど無かったので、いきなり外国人を見かけると驚いて動揺してしまうという事もあった。そして日本の礼儀を知らない外国人がどこかの町で無礼な事をして、侍に切り殺されるという事件も多発していたからだ。

 

日本にやって来た外国人が殺されると、その国の政府は殺された人間に対しての賠償金を払うように求めてきた。だから江戸幕府としても外国人が殺される事によって高い賠償金を払わされる訳にもいかなかったので、外国人を守るようにこのような居留地に押し込めて厳重にガードしていた。ちなみにこの横浜近くの生麦村で起きた、大名行列を邪魔したとして外国人が斬られた”生麦事件”も、江戸幕府と当事者の薩摩藩にイギリスは多額の賠償金を求めている。

 

そして開国した日本は海外からの金銭為替に対して、不利な条約を結んでしまった。なので外国では外貨を日本円に替えるとそれだけで価値が増えるので、どんどん外貨が両替されて、日本国内から金が流出してしまう。その外貨交換の際にこのような西洋式天秤が使われており、昔から両替などで重宝されていた。

 

そして明治時代になって西洋文化がどんどん国内に流入してきて、明治5年(1872年)には日本国内の鉄道がここ横浜に敷かれる事になる。そしてその国内での鉄道第一号となった車両がこちらの『国鉄150形蒸気機関車(1号機関車)』と呼ばれる、イギリスのバルカン・ファウンドリー(Vulcan Foundry)が製造した蒸気機関車である(※先頭車両)。ちなみにこの時に同じタイプを10両発注したのだが、一番最初に届いた車両を1号機関車として使用した。

鎌大仏君
鎌大仏君

今はさいたま市の鉄道博物館で保管されて、国の重要文化財にもなってるよ!

 

初代:横浜駅(現:桜木町駅)の当時の景色--wikiより引用

初代:横浜駅(現:桜木町駅)の当時の景色–wikiより引用

明治5年に国内で最初に敷かれた鉄道は初代:新橋駅(現在の汐留)と、この初代:横浜駅(現:桜木町駅)間を結ぶ路線だった。この初代:横浜駅は現在の横浜での場所ではなくて、今は「桜木町駅」と呼ばれる海辺を埋め立てて造成した場所に造られた。そしてこちらの写真はその初代:横浜駅を写したものであるが、背後の海には多くの船が係留されているのが見える。

 

こちらのその国内初の鉄道の開業式が行われた場面を描いた物で、記念すべき初日には明治天皇陛下も新橋駅から横浜駅へ乗車している。この鉄道導入から約150年が経過した現代では我々の生活に欠かせなくなっている電車だが、その普及により大きく日本人の利便性を向上させた発明品である。

 

そんな開国して外国の文化を吸収し出した日本の火付け役は、勿論アメリカ人だったペリー提督の約8ヶ月に渡る大航海だった。このようにアメリカの東海岸の街:ノーフォークを出発したペリー提督は、アフリカの喜望峰経由でシンガポールや中国に立ち寄った後に、目的の日本に無事到着した。

 

世界図も平面ばかりで見る機会が多いけど、このように北極側から眺めると、その景色も少し変わって見える。今だと考えられないくらいに長い航海だけど、ポルトガルが大航海時代に突入した15世紀に比べると、その当時よりは遥かに安全な航海ルートになっているのだが。

 

ペリー提督はアフリカ航路でセントヘレナ島に立ち寄り、物資の補給を行っている。このセントヘレナ島はあのフランスのナポレオン1世が幽閉されて亡くなった島としても有名だが、エジプトのスエズ運河が造られるまでは多くの船がアフリカ航路を選んでいた為に、その当時は年間1000隻ほども寄港する島だったという。しかし今は殆ど寄港する船はなく、インターネットも繋がらない島になっているとか。

 

その後はアジア航路で定番のセイロン島(現在のスリランカ)にも立ち寄り、琉球王国に上陸したり小笠原諸島も調べた後に、満を持して浦賀に踏み込んで行く。この時のアメリカ合衆国は太平洋での捕鯨船補給基地を求めていたので、日本本土だけではなく琉球王国や小笠原諸島もキチンと調査を行っていた。

 

 

ペリー提督は日本への航海の様子を日誌にまとめ、後日『ペリー提督 日本遠征記』が発売された。この本はこれから読みたい本であるが、ペリーは単に恫喝して日本を開国させただけではなく、航海前に日本の文化などを細かく調べて、どうすれば開国させられるかと綿密に研究していたという。

鎌大仏君
鎌大仏君

単なる思い付きではなく、裏付けされた計画で行われたんダ!

 

 

勿論この約8ヶ月に及ぶ大航海では、その途中の蒸気機関船の石炭などを補給していく必要があった。その為に日本までの道中に世界中の色んな街を訪れるペリー艦隊であるが、現在とは違ってあまり開拓されていなかった海外の街を見る事が出来て、楽しい一面もあったかもしれない。

 

そんな旅の途中には当時はまだ琉球王国だった沖縄にも立ち寄り、物資の補給と共に現地の検分も行っている。ペリーらは首里城や中城グスクなどを訪れて、その美しい城壁を見て驚いたとか。

 

「黒船来航」という言葉は日本の歴史の中に大きくその存在感を残しているが、黒いタールが塗られた黒い外観の船はペリー艦隊の特徴という訳ではなくて、他の外国船でも一般的に見られた物である。それよりもペリー艦隊が印象的に日本人に心に残ったのが、その船の大きさだったという。

 

こちらはペリー艦隊が浦賀にやって来た4隻の1つ『サスケハナ(USS Susquehanna)。日本人だったら「佐助花」とかと呼んでしまいそうな名前だけど、日本には全然関係なく、ペンシルベニア州を流れるサスケハナ川から付けられた名前となっている。

 

サスケハナは76mの長さもあり、それまで日本にやって来た洋船の中でも見られない程に大型の船だった。そして10インチ砲(約25m)と8インチ砲(約20m)を装備し、東京湾に威嚇射撃も行った。これはあくまでも射撃訓練の一環だと主張したそうだが、江戸幕府を大きく慌てさせる効果があったようだ。

 

こちらは『ミシシッピ号(USS Mississippi)』で、真ん中付近に大きな蒸気機関の部分が見られる。なおミシシッピ号は翌年に江戸幕府の回答を催促する時にもやって来た船で、その後は南北戦争でも活躍したが最終的には爆発して沈没してしまう。

 

横須賀一覧図1881年(複製-神奈川県立歴史博物館所蔵)

横須賀一覧図1881年

そして昨日訪れた横須賀は幕末に江戸幕府の戦艦などを製造する製鉄所を造り、その後にその周辺が造船場となって最終的には海軍の基地となった。こちらはその海軍基地となった横須賀の街の景色であるが、何も無かった場所がこれだけ変貌を遂げたのは、それだけ江戸幕府が外国勢の力を見くびっていた事を後悔して焦ったからだろう。

 

こちらは江戸~明治時代に活躍した実業家の堤磯右衛門が興した、日本で最初の石鹸製造会社が制作した「堤石鹸」の商標。博覧会を通じて世界中でも人気になった石鹸だけど、堤磯右衛門は跡取りを残さずに亡くなったのでその石鹸会社は解散してしまっている。しかし、その石鹸造りに携わった人間がその後の日本の石鹸業界を引っ張ったという。

 

開国して外国文化が大きく日本に入ってきた明治時代だけど、その中でも横浜では外国人が多く居留地に住んでいたので、他の街では味わえない雰囲気を出していたようだ。今でも横浜の山手などはフランスの軍隊とかが駐留していた場所なので、日本とは思えない雰囲気を漂わせている。

 

 

こちらは1861年に月岡芳年が描いた『ふらんす人の図』で、髪の毛や目の色、肌の色や骨格などが違う外国人を直接見た日本人は大いに驚いた事だろう。ましてや地味な日本女性に比べるとファッショナブルなフランス人女性には、度肝を抜かれた事だろう。

 

こちらも月岡芳年が1860年に描いた『港崎(みよざき)横浜景』で、今までの日本文化の中では見られなかった服装に身を包んだ外国人の姿が見られる。この時は外国人に驚いていた日本も、数十年が過ぎると自分達もこの時代に見ていた外国人の振る舞いや恰好に近づいて行くのだが。。

 

こちらは歌川広重(2代目)が1860年に描いた『南京 於魯西亜(おろしや)。こちらは中国人とロシア人を描いた内容になっているが、当時の日本人からすれば西洋人は全て同じように見えたかもしれない。

 

こちらは1872年に銀座や築地周辺で大火災が起きて、その場所が”銀座煉瓦街”として復興された時の様子を描いた絵。背景の方に海やまだ敷設されたばかりの鉄道などが見えているので新橋側とされており、イギリスの街並みを真似た都市計画が行われたようだ。しかしこの煉瓦街も関東大震災(1923年)で倒壊してしまい、今ではその名残りも見られなくなっているが。。

 

このように鎌倉や横浜の歴史を調べていると、近年に起きた大惨事でもある関東大震災(1923年)が必ず顔を覗かせてくる。この関東大震災では特に建物などの火災に多くの人が巻き込まれて、約10万人を超える死傷者や行方不明者が出る大惨事となった。

 

近年に発生した阪神淡路大震災では建物が倒壊してその下敷きになった人が多いが、この関東大震災では風が強かった事や木造建築物が多かった事もあって、当時の気象庁が気温46度を記録する程に火災が広がったという。なのでその大震災後に撮られた横浜の街の写真は、このように焼け野原状態になっているのだ。

 

このように大震災は悲惨な記憶として歴史に残ったが、そのような悲惨な記憶程にその教訓が後世に活かされる事になる。またこの震災の復興には海外からの支援が多く送られてきた事もあって、復興の道のりへと進んで行くのであった。。

 

こんな旅はまた次回に続きます!

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