東京旅(2022年11月)-33
訪問:2022年11月中旬
賢人の考え
ここは今では「皇居東御苑」として一般開放されている、江戸時代の中心地でもあった江戸城跡。
江戸城の本丸跡にて
「江戸城跡」という言葉を聞いても、大きな天守閣がそびえるイメージが湧いてこない。
というのも江戸城には江戸時代の途中から200年以上に渡って、”天守閣”という建造物が存在していなかった影響が大きいようだ。
こちらには江戸時代初期に3度に渡って建造された「江戸城天守閣」の中でも、3番目の1638年頃に造られた天守閣の模型が展示されている。
「明暦の大火」で燃えたヤツぜい🔥
寛永時代の1638年に江戸城内に再建された天守閣は、こちらの図を見れば分かる通りに、姫路城や松本城の天守閣を悠々と超す程に大きな建造物だったようだ。
3度に渡って建造された江戸城天守閣の建物の中でも、最後に造られたこの「寛永時代」の天守閣は、天守台を合わせて高さが約60mもある巨大建築物だった。
燃えた時もよく見えたぜい・・・
3度目に造った天守閣が「明暦の大火」でも焼失した際、早速4度目の天守閣再建案が翌年に進行した。
その天守閣再建計画に伴い、先に天守を支える天守台が「明暦の大火」の翌年に早速再建された。
そして天守閣の建物の設計図も出来上がっていて、あとは建設に着手する段階まで来ていたが、その天守再建計画は中止となって以後も再建される事なく、江戸時代を終えるのであった。
江戸時代の中心地だった江戸城の、更に中心だった本丸跡は、このように緑色の芝生が拡がる綺麗な公園という感じの場所だった。
ここは皇居東御苑でもあるので、一般の公園のように子供が遊び回っていたり、犬の散歩をしている人も居なくて、ただのんびりと過ごせる快適な場所となっていた。
本丸の天守台跡にて
そんな本丸跡の北側には、このように大きな石垣が見えてきた。
遠くからだとあまり大きさを実感できないけど、江戸時代に造られた建造物の中でも最大級の建物が乗る「天守台」となっているので、とても大きかった。
大阪城も江戸時代に江戸幕府によって再建された当時は天守閣の建物があったが、同じく途中で焼失してしまった為に、後々まで天守閣が再建されなかった。
そのように大阪城の天守閣が江戸時代に再建されなかった理由は、この江戸時代の再建されなかった江戸城天守台と同じ訳がありそうな雰囲気がする。
この「天守台」という建造物は、全国の城跡でもよく見られる石垣である。
大きな建造物を載せる為には、しっかりとした石垣で足元を固めて、その基盤となる天守台が必要だった。
今ではこのように広大な芝生の広場となっている本丸跡も、江戸時代には本丸御殿などの建物が密集していたと考えられている。
その中には「大奥」などもあり、そこだけで女中が数千人規模で働いていたとも考えられている。
それと天守台の東側には、このようなギリシャ正教会っぽい外見の建物も見られた。
こちらは「桃華楽堂(とうかがくどう)」という1966年に造られた音楽ホールで、音楽好きだった昭和天皇の香淳皇后の還暦を記念して建てられた物だという。
還暦祝いで建物造ってくれるなんて、幸せだね!
そして立派な天守台の上に向かって、坂道を進んで行く。
今時、これだけ大規模な天守台だけの姿はあまり見る機会が少ないと思う。
博多近くの福岡城跡も天守は再建されずに天守台のみが残されているけど、その大きさは全くこの江戸城の物とは比べ物にならない。
天守台の上に登ってくると、皇居周辺の高層ビルディングばかりが見える光景となっていた。
もしここに天守が再建されて、その上から周囲を眺めると、また違う光景が見えたのだろうが。
この江戸城が明暦の大火で焼失した後に再建されなかった理由として、同じように焼失した江戸の町の復興を優先した為だと考えられている。
江戸幕府首脳の中には、”幕府のメンツ”を保つ為に一刻も早く天守を再建させる計画を進めた人間も居たが、当時の将軍補佐であった「保科 正之(ほしな まさゆき)」が不要な天守よりも城下町の復興を優先させたとされる。
幕府のメンツより庶民の生活を優先した、スゲえ人だぜい!
その保科正之とは徳川家康の孫(徳川秀忠の子)で、保科家の養子となった後に、陸奥国会津藩主となった人物である。
なお、会津藩を歴代治めた会津松平家は保科正之の子孫となっており、江戸幕府が崩壊して新政府軍との対決が始まった戊辰戦争でも、その忠義を守って旧幕府軍側について戦ったのである。
東京だけあって、多くの外国人観光客の姿も見られたけど、模擬天守が造られている大阪城に比べると、ここがかつて270年近くも日本の中心地であった城というイメージを得にくい場所だろう。
この東京にも模擬天守が造られていたらもっと観光客で賑わう場所になっていただろうが、名君:保科正之の考えをそのまま受け継いで今でも天守台のみとなっている。
江戸時代に入ると天守閣という建物の重要性はとても少なくなり、藩主やその家族は近くの御殿で暮らして、そこで藩政も採りしきっていた為に、殆ど使わない場所となってしまった。
それに江戸時代は戦が起きない平和な時代となってしまった事で、敵が攻めてきた際の砦として使われる目的が消えてしまった為に、多くの天守閣は物置として使われる事が多くなってしまったようだ。
物置とは勿体ない使い方だぜ!
そういった”敢えて天守は再建しない!”という意向を受けての天守台だけだった江戸城。
そういう歴史を知って江戸城の天守台を訪れてみると、「何で天守閣を再建しなかったのかな??」と考えずに、「民の為に素晴らしい決断をした人がいたんだ!」と少し幸せになれた場所だった。
こんな旅はまた次回に続きます!
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2022年11月上旬に訪れた、2泊3日の東京旅です。