鹿児島市内「維新ふるさとの道」にある、薩摩の英雄:西郷隆盛生誕地

九州縦断旅:鹿児島編

 旅行期間:2020年8月中旬~下旬

 

おいどんの聖地

鹿児島市内の甲突川に架かる橋

さて鹿児島市内の甲突川が流れている川沿いに来ています。この辺りには幕末から明治時代に掛けて、多くの優秀な人物を輩出した鹿児島でも、特に有力な人達が固まって生まれたような場所でもある。これからそんな偉人達のゆかりの場所を見ていきます。なおこの橋は甲突川に架かる高麗橋で、1993年までは江戸時代に架けられた古い石橋があった場所。

 

その石橋時代の高麗橋は歴史的建造物として保存する為に、今では鹿児島市内の北側にある石橋記念公園に移転されている。

 

鹿児島市加治屋町にて

鹿児島市内「維新ふるさとの道」にある、歴史道の門

そしてそんな甲突川側沿いの小道には、このように「歴史ロード”維新ふるさとの道”」として綺麗に整備されていて観光の際には是非立ち寄りたい場所でもある。何と言っても誰もが知る程の偉人達が、この辺りで生まれたのである。

東郷どん
東郷どん

メチャメチャ懐かしい場所でごわす!

 

 

鹿児島市内「維新ふるさとの道」にある、歴史道のパネル

鹿児島城下として発展した加治屋町は、鹿児島城(鶴丸城)から少し遠い場所だったので、下級武士たちの住居が並んでいた地区。上級武士の家ではなく下級武士に育った西郷隆盛大久保利通であるが、のちに薩摩藩主に就任した人物のおかげでそんな身分は関係なしに優秀な才能を見出されて重宝されて、出世していくのである。

 

鹿児島市内「維新ふるさとの道」にあるパネル

そしてこの甲突川沿いには、このような西郷隆盛や大久保利通の顔が入った柱型パネルが6本設置されていた。この加治屋町では彼ら以外にも明治維新や明治時代の政治・軍部に多大に貢献した人物が多いのだけど、やっぱり明治維新の立役者である西郷隆盛大久保利通はその中でも別格であり、ダントツの知名度である。

 

鹿児島市内「維新ふるさとの道」にある、大久保利通のパネル

そしてこのような顔がバラバラに描かれているパネルというのも、あまり日本の観光地では見られないものなので、なかなか面白い取り組みをしていた鹿児島市。勿論1つのパネルだけでは顔の全貌が見えないので、横に移動してこの大久保利通の顔が完成する場所まで移動する必要がある。

 

鹿児島市内「維新ふるさとの道」にある、大久保利通のパネル1

この辺りから見ると上手い事、大久保利通の顔が綺麗にパネルが並んで見える位置だ。それにしても大久保利通の口元周辺には長く生えた髭が目立つ。この甲突川付近に設置されている、中村晋也氏が制作した大久保利通の銅像ではその長い髭が普段邪魔になる位に生えていた様子まで再現されている。明治維新後に岩倉使節団として西洋諸国を視察した時に現地でカルチャーショックを受けたのか、それ以降は洋式の生活を貫き、髪の毛にはポマードまで塗りたくっていたという。

 

 

鹿児島市内「維新ふるさとの道」にある、西郷隆盛のパネル

そしてこちらは有名な西郷隆盛の顔が描かれているパネル。大久保利通は海外まで行ったのもあってか写真撮影を好んで行ったので、その姿が写った写真が多く残されているが、対照的に西郷隆盛の写真は全く残っていない。そして西郷隆盛というとこの肖像画が一番有名であるが、実はこれを描いた作者は西郷隆盛とは面識がない状態の”想像”で仕上げられたものである。

 

>『キヨッソーネの描いた西郷どん:解説シート』–お札と切手の博物館

 

この肖像画の作者は「エドアルド・キヨッソーネ(キヨソネ)」(Edoardo Chiossone)という、明治時代に来日したイタリア人画家である。そんなキヨッソーネは大蔵省印刷局に招聘されて、主に偽造防止用の紙幣制作に注力した。当時は偽造防止の紙幣を日本では造れなかったので、ドイツの会社に発注していた影響でかなりの経費がかさんでいた。そんな国産の紙幣造りに協力したキヨッソーネは、紙幣デザインに採用された藤原鎌足や和気清麻呂の顔を木戸孝允や松方正義などの顔を参考にして仕上げたりもしていた。

開聞茸
開聞茸

ボクの肖像画も描いて欲しいタケ!

 

鹿児島市内「維新ふるさとの道」にある、西郷隆盛のパネル1

だから写真嫌いとも暗殺を防止する為とも言われる程に写真を残さなかった西郷隆盛の肖像画は、弟:西郷従道や従弟:大山巌の顔を参考にして、それと身近な人達の証言を聞いた上で書き上げた作品だという。

東郷どん
東郷どん

出会った事のない人が書いた作品には思えない程、似とるでごわす・・・

 

>西郷隆盛の肖像画と込められた想い-吉満庄司氏レポート

 

 

鹿児島市内「維新ふるさとの道」にある、歴史道の景色

そして維新ふるさとの道を進むと、なにやら詩のようなものが書かれた石碑が見えてくる。こちらは「日新公」と呼ばれた島津忠良(16世紀)という、後の島津家の本流となる祖先が造った、『日新公いろは歌』という薩摩人の志を読んだ47の歌である。この島津忠良という武将は島津家宗家ではなく分家だったが、息子の島津貴久が島津家本家を継いで、その後の薩摩藩主たちの祖先となった人物。

『日新公いろは歌』
『い』
いにしえの道を聞きても唱えても、我が行いにせずばかいなし

『ろ』楼の上もはにゅうの小屋も住む人の、心にこそはたかきいやしき
『は』はかなくもあすの命をたのむかな、今日も今日もと学びをばせで
『に』似たるこそ友としよけれ交らば、われにます人おとなしき人
『て』敵となる人こそはわが師匠ぞと、おもいかえして身をもたしなめ
『と』科ありて人をきるとも軽くすな、いかす刀もただ一つなり
などなど

簡単にいうと、

『い』・・立派な学問なども口にするだけではなく、実行しなければ意味がない

『ろ』・・豊かな場所や貧しい場所に住む人も、その心掛けで高貴になれる

『は』・・明日は無いと思って、今日に勉学を励め

『に』・・友人は似ている人ではなく、自分より優れた人にせよ

『て』・・敵こそわが師匠と思って、自分を戒めよ

『と』・・簡単に人を斬ってはいけない、人を生かすの大事

 

と、さすが薩摩藩の開祖ともなる人物の残した言葉だけあって、今の時代にも通ずる教訓である。島津斉彬もこの『日新公いろは歌』を小さい頃から復唱し、その教訓を身に付けていたのであろう。

東郷どん
東郷どん

小さい頃は『いろは歌』を覚えない奴は、村八分になってたでごわす!

 

 

 

西郷隆盛、生誕の地にて

鹿児島市内「維新ふるさとの道」にある、歴史道の景色1

そして甲突川沿いの「維新ふるさとの道」から道1本挟んだ内地側に、薩摩の英雄である「西郷隆盛:生誕の地」を発見する。ここで薩摩藩下級藩士の西郷吉兵衛隆盛の長男として、1828年に誕生した西郷隆盛。なおこの西郷隆盛という名前は本人自身の名前ではなくて、実は父親の名前である。通称は吉兵衛や吉之助などと呼ばれていて、号は南洲で、のちに官位を授けられる際の届け出でそれを出した人間が間違えて父の名前で出したので、それ以降は父の名前でもある西郷隆盛を名乗ったとされている。

 

鹿児島市内「維新ふるさとの道」にある、西郷隆盛生誕の地の看板

ここに生まれて幼少期もこの加治屋町で育った西郷隆盛は、幼い頃から頭角を現して地域のリーダー的存在になっていく。しかし11歳頃に地元の悪ガキに切りつけられて、その怪我が元でそれ以降は剣の道を諦めたという。

東郷どん
東郷どん

この時の怪我が無ければ、オリンピック選手になっていたでごわす!(笑)

 

鹿児島市内「維新ふるさとの道」にある、西郷隆盛生誕の地の岩1

ここには「西郷従道邸庭園跡庭石」と書かれた案内文が書かれているパネルが設置されていた。この庭園石は西郷隆盛の弟である西郷従道が、兄の休む家として目黒に購入した家に置かれていたものだそうだ。

 

鹿児島市内「維新ふるさとの道」にある、西郷隆盛生誕の地の岩

兄の為に購入した家も西南戦争で最後に自決してしまった為に、西郷従道自身が住む事になった。そんな家には広くて立派な日本庭園があったらしく、そこからこの「紀州の青石」「伊豆石」「伊予の石」がこの史跡跡整備の際に贈られて今に至るという。

 

鹿児島市内「維新ふるさとの道」にある、西郷隆盛生誕の地の説明板

こちらには「時代をにらんだウドメサア」と書かれた案内板も設置されている。「ウドメサア」とは”目の大きい人”という事を意味するらしくて、西郷隆盛の肖像画などではパッチリと大きく開く目が描かれている作品が多い。小さい頃から『日新公いろは歌』を叩き込まれていた少年グループ時代から薩摩独特の考え方を教育されて育ち、苦しい生活をしていた農村などを地方役人として回ってその現状を事細かに報告すると、藩主であった島津斉彬が下級武士の家柄ながらその才能を見出し重用していくのである。

 

 

 

鹿児島市内「維新ふるさとの道」にある、西郷隆盛生誕の記念碑

そして西郷隆盛の生家があった敷地は公園になっていて、その中央部分にはこのような岩の上に乗せられた石碑が見える。貧しい家に7人兄弟の長男として生まれて西郷隆盛は、長男らしくその他の兄弟の面倒を見つつ成長していく。

 

『ろ』楼の上もはにゅうの小屋も住む人の、心にこそはたかきいやしき

   by  島津忠良 — 『日新公いろは歌』 

そのように貧しい家庭環境に身を置いて育った為に、明治維新後には裕福な生活に浸っていく他の維新立役者達とは異なり、質素な生活を選び続けた西郷隆盛。西南戦争で自害するまでは、その『日新公いろは歌』の教えにも乗っ取り、欲には負けずに自分らしさを貫いたのであった。。

 

鹿児島市内「維新ふるさとの道」にある、西郷隆盛生誕の記念碑1

ただ晩年はその食欲だけは止める事が出来ずに、なかでも特にウナギを大好物としていて、更にはウナギを犬にまで食べさせていたという。そうしてみるみるうち肥えていき、肖像画にもあるような恰幅がいい体格になったそうだ。

「腹八分目にして食べ過ぎるな!」という『日新公いろは歌』 がなかったからかな?!

東郷どん
東郷どん

こう見えてストレスがメチャメチャ溜まっていて、喰うのがその解消だったでごわす!

 

鹿児島市内「維新ふるさとの道」にある、西郷従道生誕の記念碑

西郷家は7人兄弟で、西郷従道は3男として生まれた。幼い頃から兄隆盛の背中を見て育ち、その後は薩摩藩士となり、後には陸軍を経て海軍で海軍大将元帥の地位にまで上る。政府に反旗を翻した形となった兄側には付く事なく、西南戦争では新政府軍の一員として参加した。そして見た目が兄の西郷隆盛とよく似ていた為に彼の肖像画を描いた画家:エドアルド・キヨッソーネは、弟:西郷従道を参考にして西郷隆盛を想像しながら描いたという。

 

 

鹿児島市内「維新ふるさとの道」にある、西郷隆盛生誕の記念碑2

この地域では郷中教育という『日新公いろは歌』 を取り入れた教育が自主的に幼い子供頃から行われていたので、その厳しい戒律の影響で明治時代には多くの軍人や政府高官を輩出した鹿児島。しかしその後はだんだんと平和な時代に移り変わり、時代も変わっていくとその厳しい戒律は薄れていったのだろう。

 

鹿児島市内「維新ふるさと館」

そして西郷隆盛生誕の地近くには、このような建物の「維新ふるさと館」が見えている。1994年に開館した明治維新や薩摩藩などの日本の歴史についての資料が展示されていて、動く人形ロボットを使った「維新への道」というドラマ上演は初めての人には意外と楽しめるものとなっている。

 

 

鹿児島市内「維新ふるさとの道」にある、伊地知正治誕の記念碑

こちらには「伊地知正治、誕生の地」と書かれた石碑がヒッソリと立っていた。伊地知正治は薩摩藩士で、優れた策略家で禁門の変や戊辰戦争などでその手腕を発揮した。また西郷隆盛の征韓論には賛成の立場であったが下野せずに、政界に留まる。そして西南戦争で被災した鹿児島の街の復興支援に、尽力した。

 

鹿児島市内「維新ふるさとの道」にある、大久保利通生い立ちの地の記念碑

そしてその「維新ふるさと館」横の甲突川沿いの道には、このように「大久保利通、生い立ちの地」という看板が立っていた。さっきは高麗橋を渡った甲突川の反対に生誕地があった大久保利通だが、幼い頃にこの辺に引っ越してきて3歳の差がありながらも幼少時代から西郷隆盛と仲良く時間を過ごしていたという。

 

鹿児島市内「維新ふるさとの道」にある、大久保利通生い立ちの地の記念碑1

この明治維新というのはそれまで徳川家康が築いた、約250年間に渡って日本を支配してきた江戸幕府を討幕するという、とんでもない構想だった。そして討幕よりも大事だったのは、その後の政権をどう築くかである。ただ今の政権を倒す事が出来ても、その後に理想的な国家を築かないとまた元通りの世界になる可能性が高い。そこで大久保利通は進んだ文明のヨーロッパに目を付けて、先進的な技術や考え方をどんどんと導入した。

 

鹿児島市内「維新ふるさとの道」にある、大久保利通生い立ちの地の記念碑2

その新しい生活様式などを導入し、明治維新が発生してから早くも洋服の導入や断髪令(明治4年)や帯刀禁止令(明治9年)など、明治時代に一気に西洋的な生活習慣に舵を取る日本。そんな目まぐるしく日本国内が動いていく中で次々に新しい政策を決断して実行していった裏には、”影の総理大臣”とも呼ばれた大久保利通が尽力した結果でもある。

東郷どん
東郷どん

利通がおらんかったら、明治政府は無かったと言っても過言ではなかよ!

 

 

昼食は「寿庵」でカツ丼!

鹿児島市内の「寿庵」で昼食

さて「維新ふるさと館」の見学をする前にすでに13時を過ぎていたので、昼食を先に食べてから見学する事にした。今日は九州旅ラストの日なので、黒豚のカツ丼を最後に食べたかった。ただ甲突川付近にはそんなカツ丼が食べれる店が見つからなかったので、「黒豚料理 寿庵:鹿児島中央バスチカ店」を訪れる。こちらのお店は去年(2019年)に鹿児島を訪問した時にアテンドしてくれた”西郷どん”が案内してくれたお店である。

 

 

鹿児島市内の「寿庵」で昼食時に飲むビール

さて真っ先に運ばれてきたのは生ビール!今日は朝イチから照国神社・黎明館・福昌寺跡・多賀山公園・加治屋町と回ってきたけど、全然水分を取っていなかった。

それもあって、この生ビールがまた美味しかったのである!

黒ブタ子
黒ブタ子

この人間は本当にビールが好きなんだブヒ!

 

鹿児島市内の「寿庵」の内観

ちょっと昼時の時間がズレたからか、それともコロナ禍の影響だったからか、店内にはあまりお客さんが入っている感じには見られなかった。ただこちらのお店ではこのようにキチンとカウンター席でも、1席毎に空き席を作っていてソーシャル・ディスタンスの席造りが行われていた。

 

 

鹿児島市内の「寿庵」でのカツ丼

そして注文してから約10分後に運ばれてきた、寿庵さんの黒豚を使用したカツ丼である。カツ丼セットというメニューしか店頭には無かったけど、店員さんに聞いたらカツ丼単品もあるとの事だったので、単品のカツ丼を注文。

黒ブタ子
黒ブタ子

見るからに旨そうな黒豚のカツ丼ブヒ!

 

鹿児島市内の「寿庵」でのカツ丼1

こちらのカツ丼は単品で1,000円(税別)だったので安くはなかったけど、鹿児島中央駅前という立地もあるし、多少テナント料も入っているのだろう。

一番の大好物と言ってもいいかもしれないカツ丼は、やっぱり美味しかった!

黒ブタ子
黒ブタ子

豚肉をここまで旨く食べれる人間は神ブヒ!

鹿児島市内「維新ふるさと館」に向かう

そんな美味しかった黒豚のカツ丼を食べてお腹いっぱいになった後は、満を持して「維新ふるさと館」へと向かいます。

 

こんな旅はまた次回に続きます!

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