「和歌山県立博物館」で和歌山の歴史を更にお勉強(Part-2)【和歌山市旅行記⑮】

和歌山市旅行記2021年1月-⑮

旅行期間:2021年1月某日(当日旅)

宗教が根強い和歌山!

「和歌山県立博物館」の外観

ここは和歌山市の和歌山城南側に造られている「和歌山県立博物館」。1994年に造られた博物館の建物だけど、遠くから見ている分には近未来感溢れる建物にも見える。なお、こちらの博物館の建物を設計したのは、黒川紀章である。

 

 

 

「和歌山県立博物館」の続き!

この和歌山は高野山に空海が真言宗総本山を開山した事もあって、神様のような扱いにもなっている。こちらの古い本は「弘法大師行状記図会」という、弘法大師の生涯の業績などを布教活動の為に本にまとめた内容となっている。

 

日本国内で仏教について勉強した空海は、遣唐使に選ばれて唐に留学する事になる。当初は20年程の滞在が予定されていたが、空海は約2年で日本に帰国する。唐で密教を覚えるのを目的にしていた空海はサンスクリット語を覚え、密教を習得する事に成功する。「三鈷杵(さんこしょ)とは密教法具として使われた仏具の1つで、三叉槍を短くしたような道具である。

 

そして密教を習得して予定より日本に早く帰国した空海は、福岡の太宰府に到着するが、予定よりも遥かに早く戻ってきた為に入京が許されなかったという。その後、修験道の聖地である「大峰山」で修業を行った空海。

 

その後、都を離れて自分が習得した密教を開く場所を求めて大和国を彷徨っていると、狩人とその御供の2匹の白と黒の犬に出会う。狩人からその犬を借りた空海は、犬に導かれて高野山の場所を訪れたという。なお伝承ではこの時の狩人は「高野御子大神(狩場明神)」だったとされ、神様に導かれて高野山で開山したという。

 

そして真言宗を開いた空海は、60歳を過ぎた辺りで死去している。ただしよく聞く話で「高野山の奥之院で、空海は今も生きている!」というのを耳にするけど、これは仏陀が”涅槃”したのと同様に、”死んだ”という表現ではなく『入定した(禅定)』という完全なる悟りの道に進んで行った的な表現となっている。

ただ実際には「弘法大師」という名前は空海が死去した後に、醍醐天皇から贈られた”贈り名”である事から、「弘法大師」という呼称がこれだけ使われているという事が空海が死去しているという証でもあろう。

 

こちらは一遍上人が熊野三山参詣をしている様子を描いた巻物。こちらは複製品だが、原品は鎌倉時代に描かれた物らしく、温泉ばかりを探していた印象を受ける一遍上人も、このように真面目に全国を参拝していたようだ。

 

このように歴史博物館も若い頃に来てみてもあまり関心を持たずに、また記憶にもあまり残らずに終わっていたけど、40歳を過ぎてから急激に国内の歴史に興味が出てきたので、今となっては何時間でも舐めるように展示品を見たくなってしまう場所となっている。

 

 

西洋諸国の歴史や文化は主にキリスト教と共に発展してきたが、このような日本の歴史的な史料を見ていくと、日本も仏教という宗教を通して文化などが発展してきた歴史がよく分かる。縄文時代に比べると大幅に人口が増えてしまった地球上では、昔より多くの人間をまとめるにはこのような宗教という鎖が必要だったのかもしれない。

 

こちらは東京国立博物館で所蔵されている飛鳥時代に作られた「金銅弥勒菩薩半跏像」(複製品)で、悟りを開いた仏陀が人間の生死の問題に直面して、片足をもう一方の膝の上に置いて、頬に手を置きながら悩んでいる姿を現した像。”半跏”というのが、この片足を乗せて悩んでいるポーズを意味する言葉だという。

 

次のブースは『鉄砲を持った根来寺の僧兵』というタイトルの人形が待ち受けている。鉄砲が出てくるという事は戦国時代の後半頃だが、当時の国内には”僧兵”という寺お抱えの武力集団が存在していた。宗祖の教えを守れば救われる訳ではなく、寺は常に狙われる存在だったのでこのような自前の護衛集団が必要だったのである。

 

こちらは本願寺 蓮如(ほんがんじ れんにょ)という、浄土真宗本願寺派の第8世宗主だった人物。浄土真宗は「一向宗」とも呼ばれる事があったが、農民などが反発した「一向一揆」はこの一向宗の門徒が奮起して行った一揆の事である。

 

現在の大阪城周辺に大きな「石山本願寺」を築いた本願寺蓮如であるが、織田信長の強力な軍勢に攻め込まれて長期戦となり、最終的には敗北してしまう。そしてその石山本願寺があった地域に羽柴秀吉が大きな大阪城を築城した為に、石山本願寺跡の痕跡は殆ど残っていないそうだ。

 

こちらは「鉄砲秘伝絵巻」という、1605年頃に作成された、火縄銃の撃ち方を記した巻物であった。それまでの戦いでは弓矢や刀や槍という古来の武器がメインであったが、鉄砲が伝来してからは鉄砲を多く揃えて、鉄砲隊の熟練度の高さが勝敗を分ける事に繋がっていった。

 

質の良い鉄砲を開発する事は勿論、それ以上に鉄砲を上手く操って標的の狙った部位に命中させる技能が求められた。この図のようにただ的を狙うだけではなく、ピンポイントで狙う鎧の隙間や、騎馬隊の乗る馬の頭部を狙うなどの細かい指示が描かれている。

 

 

それ以外にもこのような鳥のどの場所を狙えばいいかも描かれている。このように基本は大きな胴体を狙い、胸辺りにそのポイントが密集しているのが見える。

 

種子島に伝来した鉄砲は正確には”火縄銃”で、今ではそんな銃は使われていない程にレトロな鉄砲となっている。火縄銃だと火が着火してから弾丸が発射されるまでの時差が生じ、また雨の日などは湿って撃てないなどの欠点ばかりだった。だから日本国内以外でも戦争が絶えなかった世界中で、最新兵器の鉄砲はどんどん改良されていくのである。

 

こちらは戦国時代:16世紀中頃の、この和歌山の地の勢力図。この図を見れば分かるように戦国大名ばかりが乱立して治めていた訳ではなく、雑賀衆・根来衆・粉河寺・高野山など戦国武将ではなく、仏教寺勢力や地元の集団などの勢力も存在していた事が分かる。

 

このように和歌山と一口に言っても、色んな軍勢が割拠していた和歌山。関西一円を制覇する勢いで乗り込んできた織田信長は和歌山まで攻めてくるが、本能寺の変で急死し、その後に天下人となる羽柴秀吉も関西一円を支配する為に和歌山の地に攻め込んでくる。

 

こちらは「手取城」という和歌山県日高郡日高川町付近にあった、南北朝時代にこの地を支配した玉置氏の居城だったお城の推定復元模型。亀山城主の湯川氏から秀吉の侵攻に徹底抗戦するよう呼び掛けられるが、秀吉の和歌山攻めに協力する立場を取った。それに怒った湯川氏が手取城に何度も攻め込み、遂には手取城は落城してしまう。

しかし和歌山の地が羽柴秀吉によって制圧されると、紀州国を治める為に派遣された羽柴秀長に臣従して、再び手取城の城主に返り咲く事になる。ただ最終的には関ヶ原の戦いで西軍に加担した為に、江戸時代に改易されて手取城も廃城となってしまった。

 

こちらは天下人となる羽柴秀吉が和歌山に攻め込んできた時のルートなどが、詳細に表示されている。陸路と海路で同時に攻め込んできて、今の和歌山城の周辺にかつて存在した太田城では、紀の川の流れを変えて太田城の周囲に流し込み、壮絶な水攻めを行ったという。

徳川ヨシオ
徳川ヨシオ

秀吉公の恐ろしさが分かる図じゃ・・・

 

こちらは1710年に発行された版本の「太閤記」。儒学者だった「小瀬 甫庵(おぜ ほあん)が江戸時代に入ってから出版した羽柴秀吉の一代記であるが、その中に和歌山を攻めた際に根来衆の城や根来寺を焼き討ちした様子が描写されているそうだ。

 

こちらは「羽柴秀吉事書写」で、和歌山攻めで秀吉に屈服した金剛峯寺(高野山)に対して、秀吉がその高野山の寺の所領と金堂を再建する費用を寄進する事が記された朱印状の写しである。当時の高野山はその辺の大名よりも大きな勢力だったので、羽柴秀吉も高野山の勢力を根絶やしにするよりも、領地を認めて支配下に治めた方が合理的だと判断したのだろう。

 

この書状の左側には、丸印の部分に「秀吉」という文字が見られる。全国制覇といってもそれぞれ各地の勢力を根絶やしにしていった訳ではなく、このように配下に収めて足早に勢力を国内に拡げていった事が分かるのである。

 

こんな旅はまた次回に続きます!

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