島根県旅行記2021年11月-9
旅行期間:2021年11月上旬(2泊3日旅)
堀尾家と京極家!
江戸時代から現存する天守のある松江城を見学した後は、城のすぐ外に造られている「松江歴史館」を訪問していきます。城だけではなく、その城を居城にしていた人達の歴史や文化も一緒に学ぶと、より趣深い旅となるである。
住所:島根県松江市殿町279
営業時間:9時~17時頃(※月曜定休日)
電話番号:0852-32-1607
入館料:【基本展示】大人510円/小中学生250円
※松江城天守見学とのセット券あり
松江歴史館の見学!
松江歴史館では、常設展と共にその時期に応じた特別展も開催されている。今回の訪問時には、江戸時代にこの地方に移封されてきた「堀尾 吉晴」についての展示が開催されていたが、興味があるのは常設展だけだったので、こちらの特別展はパスする事にした。
こちらの歴史館は城近くの江戸時代風の武家屋敷っぽい外観となっていて、パッと見は歴史博物館に見えない外観となっている。この松江城の近くでは、いかにも”無機質な鉄筋コンクリート造り”という外観が好ましくないから、このような外観にデザインしたのだろう。
その歴史館の入口には、こちらの「レゴ」のブロックで作った松江城の模型が展示されていた。小さい頃によく遊んだレゴのおもちゃだけど、こんな松江城の模型がレゴで出来ているなんて頭の中に無かったから、思わず見惚れてしまった・・・。
ただレゴといっても、お馴染みの四角いブロックだけで組み立てた物ではなく、この松江城を組み立てる為の”特別のブロック”を作って組み立てた物となっている。
さすがに四角いブロックだけやと、松江城なんて再現できんわ!
そして常設展示室の中に入ると、まず見学客が簡単に松江藩の歴史を学べるように、こちらの大きなモニターで説明動画が流されていた。このような歴史館を訪れる人も、本気で松江の歴史を勉強したいと思っている人もいれば、ただ単に城とセットで寄り道しただけという人もいるので、その両方とも納得させるのはなかなかに難しいのだろう。
江戸時代になって新しく城が築かれた場所でも昔に城があった場所を活用したのが多かったが、ここ松江の地は中世頃にあった「末次城跡」の跡地近くに、これからの未来に向けた城下町作りを念頭に置いて、選ばれた土地であった。
関ヶ原合戦の後に毛利家の領地だった出雲国が取り上げられて、堀尾家に任せられた。そして最初に居城としたのは、室町時代から続いてきた尼子氏の難攻不落の「月山富田城」だった。しかし、防御には最適の山城も、平時の際に貿易や街づくりを行う上では逆にそれが難儀なものとなり、海上運搬が使える水際に移転する運びとなる。
こちらは「堀尾 忠氏(ほりお ただうじ)」の肖像画で、堀尾吉晴の嫡男で出雲国松江藩の初代藩主となった人物である。父親の堀尾吉晴は既に隠居していた為に、その跡を継いだ堀尾忠氏が初代藩主となったとされているが、世間的には隠居といいながらも親子で一緒になって政策を進めていたので、その定義はちょっと確定するのが難しいとされているようだ。
しかし、出雲国松江藩の初代藩主となった堀尾忠氏は、出雲に入国した約4年後に急死してしまう。その為に幼少の嫡男「堀尾 忠晴(ほりお ただはる)」が2代藩主となった。ただ祖父にあたる堀尾吉晴はまだ健在だったので、執政として統治の任を行った。そして約7年後に堀尾吉晴が亡くなり、成長した堀尾忠晴が晴れて藩の実権を握って政策を行い、約20年間に渡って藩主の座に留まりながらも、嫡男が生まれなかった為に”跡継ぎ無し”という事で堀尾家は改易となってしまうのである。
昔は跡取りを残しぇだったら”終わり”という時代だがね!
江戸時代初期に建造されたとされる松江城の天守が、近年になって国宝に指定されたのは、建造当時に建物に備え付けられていた建造年が明記されていた「祈願札」という証拠が出てきたからである。こちらの左側にあるのがその祈願札の復元品で、造られたとされる年代が記載されている。
昔の建物には、色んな魔除けやまじないの類が施されていて、この「祈願札」という物も”建物を鎮める”為に備えられていた物だという。なのでこのような迷信の類で取り付けられていた札が、後々になってから建造時期を証明する証拠に使われるとは当時の人は思ってもいなかったのかもしれない。
こちらの木組みの松江城模型は、なんと江戸時代前半に天守を改修工事する際に造られた模型だという。約400年前の時点で、これだけ正確な建造物の骨組みの模型を作る技術があったからこそ、このような立派な天守を建造する事が出来たのであろう。
江戸時代に移封されてきた堀尾家が拠点を移した松江の地は、「白潟」と呼ばれていた町場がそれなりに発展した場所だったという。宍道湖と中海を繋ぐ河口沿いに発展した街で、中国にも知られる地名だったそうだ。
そんな「白潟」という場所には中世頃に「末次城」が築かれていた時代もあって、交通の要所でもあったので尼子氏と毛利家が争いを繰り広げていた場所でもあったようだ。こちらの絵は約600年程前に中海周辺の様子を描いたものらしく、方角は上が南になっている。
この松江の地は江戸時代に出雲に移封されてきた堀尾家が拠点を移して松江城を建造したが、堀尾家は藩主としては2代で跡継ぎが無くなったので改易処分となり、室町時代に出雲国を代々守護してきた「京極家」が若狭国小浜藩から移封されてくる。
堀尾家の後に移封されてきた「京極 忠高(きょうごく ただたか)」は、正室が初姫という徳川秀忠の四女だった。その為に将軍家の身内的な存在で、かつ関ヶ原の戦いでは東軍について毛利軍と激闘を繰り広げた実績を買われて、出雲国に配備されたようだ。ただ、京極忠高も跡継ぎが居なかった為に改易されてしまう事になる。
※京極家は甥が播磨龍野藩に所領6万石を許されて存続する
全国を旅してその地方の城の歴史を勉強すると、次々に治めていた大名が入れ替わった場所もあれば、この前の高知のように一家で守り続けた場所もあった。なお、この松江藩では、①堀尾家 ②京極家 ③松平家 と3つの大名家が治めてきた歴史となっている。
京極忠高の跡継ぎがいなかった事を受けて、信濃松本藩主で徳川家康の孫にあたる「松平 直政(まつだいら なおまさ)」が移封されてくる。この松平直政は中学生頃の歳に迎えた初陣が”大坂:冬の陣”で、その戦いで真田幸村が守る真田丸に果敢に攻め込んだとされる。
なお、こちらの軍扇は松平直政が勇猛果敢に真田丸に突っ込んでいった際に、その勇敢な健闘ぶりに敵であった真田幸村が「アッパレ!」と評価して、真田丸から投げ与えた物とされている。
松平直政殿も勇敢なのか、無茶なのか、分からないわ・・・
こちらの絵は若干14歳で、真田丸に勇敢にも突進していった「松平直政」を描いた内容になっている。こういった武勇伝は特に大名などとなると、多少誇張されている事が多いだけに、額面通りには受け取りにくいのであるが・・・。
そして藩を治める大名が入れ替わると、新しく移封されてきた大名が元の拠点で雇用していた家臣団を引き連れてくる事が多かったので、大名の入れ替わりが多かった藩ほど、連れられて来た家臣団の影響で大きく組織に変化が起きていった。
こちらの肖像画は藩主のものではなく、松平直政の父:結城秀康の代から家臣であった「乙部 可正(おとべ よしまさ)」が描かれている。松平直政が松江藩に移封されてきてからは、6家が代々家老職を務める事になった。
このように藩主だけではなく、その側近である家老職も世襲制で行われるのが一般的だった。それだけ身分社会だった事が伺える江戸時代だが、その世襲制が逆に弊害を及ぼして、ローマ帝国のように江戸幕府も滅びる時が来るのだが・・・。
このような歴史博物館を見学してみると、今まで気にもした事のなかった地方の歴史を知る事が出来るので、とても面白い。更に帰ってから、このブログを作成する時に深堀してみると、その訪問当時以上の驚きの事実などを発見する事も出来るので、こういった歴史博物館の訪問は旅では欠かせないのである。
アンタはエエかも知らんけどな、ワタシはそろそろお疲れが・・・
こんな旅はまた次回に続きます!
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