島根県旅行記2021年11月-22
旅行期間:2021年11月上旬(2泊3日旅)
勉強は欠かせない!
ここは島根県の石見銀山で、常時見学できる坑道の「龍源寺間歩」内。約160mの坑道跡をあっという間に見学してしまい、脇に掘られたこの新しい坑道を通って出口に向かうだけ。だが、この新しい坑道に鉱山の説明などが記されたパネルが展示されていたので、これを見学しながら出口へと向かう事にした。
住所:島根県大田市大森町イ1597-3
営業時間(龍源寺間歩):9時~17時(12月~2月は16時まで)
電話番号:854-89-0183(世界遺産センター)
入場料(龍源寺間歩):大人410円/小中学生210円
龍源寺間歩の見学!
この出口へと向かう道の先には、坑道内で行われていた作業の様子が描かれた『石見銀山絵巻』の絵が展示されている。今では「坑道」と呼ばれるが、昔は「間歩(まぶ)」と呼ばれていた。そしてまず1枚目には、間歩の入口を支える「四つ留」という丸太の木組みが施されていた様子が描かれている。
この石見銀山は江戸時代に江戸幕府が直接管理する天領地となっていたので、出向でやって来ていた代官などが鉱山作業を管理していた。また金のなる木でもある「鉱山」なので、侵入者がないようにキツく管理が行われていた。
ただ江戸幕府から派遣されてきた代官も、ず~~っと鉱山労働を監視している訳ではなく、今の役人と同じようにまずは書類などの申請などを出させて、現場の視察は年数回しか行っていなかったという。
役人の性質は、今も昔も同じだわ!
鉱山から採掘された岩も全てが利用される訳ではなく、銀の含有量が少ないと判断された岩は近くに捨てられていた。そのような捨てられる岩は「柄山(がらやま)」と呼ばれていたようで、その捨て岩を運搬する人夫は「柄山負」、捨て岩が捨てられた場所を「柄山捨て場」と呼んでいたようだ。
坑道内ではベルトコンベアーみたいな道具は無かったので、全て人力で鉱石や柄山を運んでいた。採掘されるのは全て銀が含まれた岩ばかりでなかったので、相当な柄山が出たのであろう。
こちらには坑道内に木材を設置している姿や、坑道内から湧き出た水を排水する人達の姿も見られる。今みたいな排水ポンプなど無い時代だったので、人が竹をパイプ代わりにして水を吸い上げていたようだ。
坑道は落盤する危険性が付き物だったので、坑道内には天井などを支える支柱が多く設置されていた。鉱山を運営する立場の人間からすれば、人命はもとより、大切な鉱脈に辿り着ける道を失いたくなかった気持ちの方が強かったかもしれないが。
人類は水を求める為に土地や山を掘り進んで行った生物でもあるが、ここ鉱山では逆掘って湧き出てくる水が邪魔な存在だった。このような鉱山では落盤や二酸化炭素中毒などの問題と共に、このような湧き出てくる水の対策に頭を悩ませていたようだ。
そして坑道内には、「唐箕(とうみ)」という農業などで使われる風を起こす道具を改良した物を用いて、新鮮な空気を送り込んでいたようだ。この唐箕は1700年頃に開発された道具で、道具内で風を起こして籾殻や玄米などを選別する目的で使われた物だ。
唐箕の使い方 動画
そして坑道の入口では、坑道内を支える支柱などを製作する職人が作業を行っていた。このように今では考えられないほどに、人海戦術で色んな職人が集まって仕事を行っていたようだ。
そして鉱山労働者達は採れた鉱石を役所に持ち込んで、その対価としての給料を受け取っていた。その為に、役所には多くの役人がいたようだ。
こちらは坑道内を掘る様子が描かれているが、今と大きく違う事は、今のように電気がない時代に暗闇を照らすには、油を燃やすしか方法がなかった事である。その為に、油を燃やした際に発生する煙が坑道内に充満し、また粉塵も飛び交っていたので、労働環境としては最悪の場所だった。
採掘された鉱石は、人が背中に背負って外に持ち出していた。狭い坑道でかつ木組みの簡易階段を上下し、更には暗い中を進んで行くという厳しい運搬でもあった。
そして坑道内では堀ったり運搬する人だけではなく、坑道内が崩れないように坑木を組む職人も入りこんで、木枠を設置していた。このように1つの産業では多くの職人が雇用されていたが、現代ではその多くが機械化されている為に、当時の職業の多くが姿を消してしまっている。
そして坑道を掘ると湧き出てきた水を汲んで、排水するのも大事な仕事であった。しかもこれが今から300~400年前に行われていた作業であるので、こういったアナログな作業が延々と行われていた事実に驚きを隠せないのである。
龍源寺間歩の出口に到着!
そんなパネルを見ながら歩いていると、あっという間に出口に到着してしまう。早く坑道を出たかったオカンは、説明のパネルをそこまで熱心に見る事もせずに、先に外に出ていた・・・。
入ったら、出るしかないんやで!
そして出口の外は、このように自然と調和した石見銀山らしく、緑の景色が出迎えてくれている。今では無機質な場所が増えた日本国内だけど、このような自然の景色は人類の、そして地球上の宝物でもある。
こちらが龍源寺間歩の出口ともなっている、新しく掘られた「栃細谷新坑」。この道が入口側だったら世界遺産っぽい雰囲気が出ないけど、出口にするのであれば、観光客もそんなに気にしないのだろう。
そして出口付近には、こちらの『世界遺産:石見銀山』の記念スタンプが置かれていた。ただコロナ禍では下手な接触は避けるべきなので、こういった思わず触ってしまいそうな記念スタンプも自重するのが好ましい。
そして出口付近にも、何箇所かの間歩が見られる。これが銀鉱石を求めた穴なのか、それとも空気孔だったのかは分からない。こういった際に観光ガイドさんがいたら、色々と教えてくれるのだろうが。。
ただこれらの穴は全て自然に空いたものではなく、人為的に掘られたというから、その当時のアナログ作業を思い浮かべると想像すらできない程の労力の産物でもある。
そんな付近には、”ゴリラが寝そべっている”ようにも見える様な、苔が生えた岩が見られた。人間という生き物は面白い生物で、脳が大きく進化していった事で、色んな事を想像できる力を備えている。
単なる岩にしか、見えんで・・・
この石見銀山では、数百を超える間歩があるらしく、それぞれに番号が付けられて管理されているようだ。またそれぞれの間歩は立ち入り禁止となっているので、入口に柵が設置されている。
こんな狭い穴、入ろうとは思わんで!
石見銀山では「福石鉱床」という部分が、主に戦国時代初期に開発された場所である。この鉱山が発見されたのは、遠くから見た時に山の上が光っていたからだという話がある。その為に自然銀が露出していたと考えられている。
そして「福石鉱床」に群がるように人々が集まって採掘が行われるようになり、次第に福石鉱床は掘り尽くされてしまう。その為に山の下の方に埋まっていた「永久鉱床」の方へ掘り下がっていき、江戸時代から明治/大正時代に掘られていた場所だった。
出口付近にはこちらの廃れた小屋もあったけど、ここもひと気を感じない場所となっていた。コロナ禍前までは商売をしていたお店なども、先の見えない新型コロナウイルス感染の中で、店を閉めてしまっていた所が多かったのは残念だった。
こちらには「ここは島根県です!」という、張り紙が見られた。この石見銀山は戦国時代に尼子氏から毛利家、そして江戸時代には江戸幕府が所有し、幕末には長州藩が占領した場所となって、今は島根県に至っている。
時代と共に支配者が変わっていった銀山だわ!
という事で、龍源寺間歩の見学自体は約20分で終了となる。世界遺産だと期待して訪れた観光客からは、この坑道1箇所しか見れなくて、しかも銀の塊も設置されてもいないので、ちょっと退屈に思う人もいるかもしれない。。
そして出口から帰路についていると、道の上に動く物体を発見した。そしてよ~~く観察してみたら、こちらの沢蟹がちょこまかと動き回っていたのである。
石見銀山の沢蟹! 動画
このように石見銀山はその鉱山跡だけではなく、綺麗に残された大自然と調和した場所という事を味わいながら観光すると、”ガッカリ名所”と言われる筋合いもない場所だという事が理解できる場所となっている。
こんな旅はまた次回に続きます!
よければ下記ブログ村のボタンをポチッとお願いします!
↓↓↓↓島根県旅行記:初回↓↓