島根県旅行記2021年11月-26
旅行期間:2021年11月上旬(2泊3日旅)
代官の気分?!
世界遺産となっている石見銀山の麓にある「大森町」。こちらはかつて代官所が造られていた場所近くで、坑道跡などから意外と離れた場所にある。ここにやって来る前は徒歩で楽に散策できる場所かと思っていたけど、実際にはここから坑道跡へ向かうにはそれなりに離れていて、レンタサイクルなどを利用する人も多いという。
「お食事処 おおもり」で昼食!
そんな大森町でバスに乗らずに徒歩で龍源寺間歩まで歩いたりしていたので、いつの間にか13時前となっていた。これから代官所跡に造られた資料館を見学する予定なので、その前に腹ごしらえをする事にした。

先に何か食べようや!
この「お食事処 おおもり」の建物は、かつて熊谷家の酒蔵だった所を改築して営業しているお店だという。熊谷家というと、先程通ってきた大森町にあった住宅が重要文化財として保存されていた家でもある。
店内は意外と広くなっていて、この1階だけではなく、2階は大広間になっていて、60人以上が入れる大きなお店になっていた。石見銀山の足元では大きな飲食店が無いだけに、石見銀山の観光ツアー団体などの一行が唯一入れそうな大型店になっていた。
なお、今回の島根県旅では”出雲そば三昧”を目指していたので、ここでは問答無用でメインの「代官そば」(1200円)を注文する事にした。島根県に来てから、昨日の昼食と、ホテルの朝食で出雲そばを既に食べているので、これが「そば3食目」となる。

最終的に「そば6食」も食べる事になるんですよ・・・
ここ石見銀山の足元でも、2段の割子そばが出てくる。しかし、ここでは冷たい割子そばだけではなく、温かい方のそばもセットとなっている。その為に3段セットが多い割子そばが、2段で提供されていた可能性が考えられる。
今日はレンタカーでの移動で楽できると思っていたのに、大森町で多く歩かされて疲れていたオカンだが、大好きなそばを目の前にして、そんな疲れを忘れて嬉しそうな顔をしていた。

そば、食べるで~~♪
麵料理というと最近ではラーメンが若者にも大人気となって、ラーメン人気に後塵を譲っているが、日本人には「うどん」とこの「そば」は欠かせない料理だ。
どうも出雲そばは”冷たい割子そば”かと思っていたけど、この”温かい方のそば”も出雲そばのもう一面的な存在のようだ。見た目では”冷たい割子そば”が優位に立っているが、”温かい方のそば”も同じように味わわないと、出雲そばを満喫した事にならないようだ。
注文した「代官そば」は1200円という値段もあって、こちらの天ぷらもセットになっていた。特に具の無いうどんよりも、このように天ぷらを載せてみるだけで、ちょっと贅沢をしているかのような気分になる。
そして冷たい割子そばにタレをジャブジャブとかけていく。昨日の昼食に初めて割子そばを食べた際は初体験でちょっと手間取ったけど、2回目となると慣れた手つきでタレをかけて味わう事が出来た。
そしてお店の片隅にはお土産コーナーもあって、先程立ち寄った「有馬光栄堂」の名物お菓子である『げたのは』も販売されているのが見られた。さすがにドイツ風パンが置かれているよりも、歴史ある昔からのお菓子が置かれていた方が、観光客に受けがいいのかもしれない。
そしてその隣には「銀山あめ」も一緒に販売されていた。ただこちらの飴は”昔の飴”みたいな感じで、オカン曰くは

この飴、イマイチやな・・・
というご感想だったそうです。

昔はこげな飴しか、食えんだったんだわ!
その代官そばをたっぷり味わって食欲を満たして、お店を後にする。この代官所跡がある大森町の東側には、このように10数台の車が停めれる無料の「大森代官所前駐車場」が用意されている。ただ早い者勝ちの駐車場なので、ここにいきなり来ても停めれない事も多いので、観光案内所では「世界遺産センターへの駐車」を奨励しているようだ。
そしてこの辺りには、こちらの「西南戦争の戦死者記念碑」も設置されていた。西南戦争は”日本国内で最後の内戦”とも言われており、明治時代という新しい時代を迎えながら、日本人の志が一本化していなかった事が伺える跡となっている。
そして代官所跡に造られている資料館の見学を行う前に、見学を終わった後に世界遺産センターに戻る際に乗るバスの時刻表を確認しにいくオカン。息子の言う通りに付いていくと、必ずと言ってもいい程にかなりの距離を歩かされてばかりなので、先手を打ってバスの時刻表を確認しに行っていたようだ。

もう歩きたくないねん!(怒)
ここ代官所跡から世界遺産センターまでのバスは、シャトルバスではなくて、地域のバス会社「岩見交通」の路線バスなので、思っている以上に本数が少ない。だからそのバスに乗って移動する人は先に時刻表を確認して、バスの時間に合わせて行動を行う必要がある。
代官所跡の「石見銀山資料館」を見学!
そして帰りのバスの時間を確認してから、こちらの代官所跡に造られている「石見銀山資料館」へと向かう。
住所:島根県大田市大森町ハ51-1
営業時間:9時30分~17時頃(※定休日:火曜&水曜)
電話番号:0854-89-0846
入館料:大人550円 / 小中学生 250円
ここはかつて石見銀山を監視していた代官所があった場所だが、今の建物は江戸時代に造られた建物ではなく、明治時代の終わり頃に建てられたもの。なお、石見銀山が閉山となった事を受け、一時は学校として使われていた事もあり、その後に資料館となって保存されている。
この代官所跡の資料館は大森町内でその歴史が学べる、数少ない場所となっている。ここ石見銀山の坑道跡を見学するだけでは、石見銀山を殆ど味わった事にならないので、このような資料館でその歴史を勉強する事が大事である。
特にボランティアガイドのツアーに参加せずに大森町を散策だけした観光客からすれば、石見銀山の歴史を全然知らずに帰ってしまう事になる。見た目には”廃れた町と鉱山跡”にしか思えない場所だけに、しっかりと歴史を学ばないと、ここまでわざわざ労力をかけてやって来た価値がなくなるのである。
まずは日本家屋に付き物の「鬼瓦」が設置されていたけど、銀山の町だけに「銀で出来た鬼瓦」を見たかった。しかし石見銀山では銀は殆ど掘り尽くされてしまっているので、銀が多く流通している景色は皆無なのだが。。
さて意外と歴史を知らない「石見銀山」の勉強がスタートします。その名前は知っていてもその歴史を知っている人は少ない銀山跡で、昭和前半まで稼働していた鉱山だったという。
まず最初に「福石」という、石見銀山で主要な鉱石が置かれていた。この「福石」という名前だけを見ると、”幸せになれる石”みたいなイメージを思い浮かべてしまうけど、そうではなくて「福石鉱床」で採れた鉱石となっている。
こちらは「青気(あおげ) 六方(ろっぽう)」という鉱石。ただこちらに展示されていたものが、意図的にか”顔文字”のようになっていたので、その可愛らしさに目を奪われてしまったのだが。。
この石見銀山では、初期頃に掘られた「福石鉱床」と、その後に掘られた「永久鉱床」と2つの鉱床から採掘されていた。「福石鉱床」は特に銀の含有量が高い鉱石が産出した事もあって、最初に発見された時に”山の上が光っていた!”という逸話になる程だったようだ。
戦国時代には尼子氏や毛利家の支配下になり、江戸時代には江戸幕府の天領となった石見銀山だが、幕末には長州討伐で逆に石見銀山が長州藩に奪われてしまって、長州藩の管理下になった。そして明治時代を迎えると石見銀山は民間に払い下げとなり、そこで手を挙げたのが大阪の「藤田組」だった。
大阪の「藤田組」はここ石見銀山だけではなく、福岡や秋田や岩手など多くの鉱山に進出し、多角経営を行うようになっていった。そして明治時代以降の石見銀山では、既に銀鉱脈の多くが採掘されてしまった後だったので、鉱山のメインは銀ではなく”銅”となっていった。

実際には「石見銅山」だわ~!
こちらは「黒鉱(くろこう)」という、主に日本海側で多く採掘された外見が黒い鉱石。この黒鉱はかつて日本列島が海に沈んでいた時代に、海底へと噴き出した熱水から沈殿した硫化物などが固まってできたという説がある。なお、この黒鉱には銀だけではなく、色んな貴金属が含まれている。
このように「石見銀山」という名前だけだと如何にも「銀のみが採れていた場所」と思ってしまうけど、実際には色んな貴金属が採れていた場所でもあった。金は採れなかった事もあって「石見金山」とはならず、また銅が採れたにも関わらずネーミングが銀山より弱かったので「石見銅山」ともならなかったのだろう。
こんな旅はまた次回に続きます!
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