雲州松平家が治めていた、江戸時代の雰囲気が漂う松江城天守閣の見学【島根県旅行記6】

島根県旅行記2021年11月-6

旅行期間:2021年11月上旬(2泊3日旅)

木の香り!

島根県松江市 松江城 天守 正面からの写真

日本全国の城の中でも”江戸時代から現存する天守”がある、ここ島根県松江市の「松江城」。そんな歴史を持つ城は島根県きっての観光地ともなっており、城には多くの見学客の姿が見られた。

 

 

 

松江城天守閣の見学!

島根県松江市 松江城天守内 景色

そして天守内では”土足禁止”となっているので、入口で靴を脱いで支給されたビニール袋に靴を入れながらの見学となる。こちらは天守の1階部分にあたるフロアで、江戸時代に建造された建物だけあって、木材ばかりが見られる光景となっていた。

 

島根県松江市 松江城天守内 景色2

勿論江戸時代には鉄筋コンクリート造りという建造技術が無かった為に、このような木材を使っての建築方法が普通だった時代。それまで1000年以上の歴史を掛けて、木造建築物の技術を磨いてきた日本人であったが、文明開化となった明治時代以降には、その技術の塊でもあった木造建築が国内で少なくなっていくのである。

 

島根県松江市 松江城天守内の窓

こちらは城の窓的な役割をしていた「狭間(はざま)である。単なる窓ではなく、敵が攻め込んできた時にはここから弓矢や鉄砲を放つ場所でもあったので、外からは狙われにくく、内側から狙いやすい形状になっているのが特徴である。

 

島根県松江市 松江城天守内 2階の部屋

このような江戸時代からの木造建築物は当然ながらエレベーターなどの近代的な乗り物はなくて、特にこの砦となっていた天守内は傾斜のキツくて登りにくい階段しかない。だからこのような城見学をするには、それなりに体力がないと見学も出来ないのである。

 

島根県松江市 松江城天守内 古材展示

そしてこちらには1本の柱のような太い木が、わざわざガラスケースに入れられて展示されているのが見えてくる。

 

島根県松江市 松江城天守内 古材展示 案内板

こちらの木材は昭和の解体修理の際に新しい木材に取り替えられた柱で、その木の断面に彫刻マークが入れられているのが判明したという。この木材には「富」という印が彫られており、堀尾家が最初に居城とした「月山富田城」から流用された木材と考えられているようだ。

 

島根県松江市 松江城天守内 古材の刻印

こちらはそのマークが彫られている断面部分。パッと見は判りにくいけど、よ~~く見ると右側の方に自然な木目ではなく、何かが刻まれたマークのような物が入っているのが辛うじて分かる。

 

島根県松江市 松江城天守内 古材の刻印アップ

こちらはその刻印マークを更にアップにしたものだが、上の方が「富」となっているようだ。

 

それと別に、堀尾家の家紋だった”分銅紋(ふんどうもん)を表す刻印も入れられているのが見つかっているという。

 

島根県松江市 松江城天守内の景観

この1階の中央部分はこのように開放的な空間となっていて、ここには木造っぽい新しい椅子が置かれていた。普通このような空間があれば、城に関連する物を展示している事が多いけど、ここ松江城では空間が意外と広いのでこのような贅沢な使い方がされていた。

 

島根県松江市 松江城天守内 柱の包板

そして”江戸時代から現存する”建物らしさが出ていたのが、こちらの数枚の木の板を金具で固定していた柱。これは「包板(つつみいた)と呼ばれる柱の周囲を板で包む技法で、柱の補強と共に見た目が悪い木材を板で隠す目的で行われているようだ。

 

島根県松江市 松江城天守内 柱の包板2

この「包板」と呼ばれる技法は、ここ松江城天守の中にある308本の柱の内、1/3にあたる103本の柱に施されているという。この珍しい技法は、江戸時代から現存する天守の中でも、ここ松江城でしか見られないという。

シメ縄兎吉
シメ縄兎吉

松江城では、この柱をしっかり見ときなぃ!

 

島根県松江市 松江城天守内 2階に上る

そしてこの1階部分にはそんなに展示品がなくて、代わりにさっきの古材などの松江城天守に使われている木材を見学するフロアでもあったように思う。ただこの1階の見学にはそこまで時間が掛からなかったので、足早に2階へと移動するのであった。

 

 

天守2階にて

島根県松江市 松江城天守内 2階部分

こちらはさっきの階段を登った2階部分で、建物中央にある柱もさっき下で見たような”包板”の技法が用いられていたけど、このフロアの柱は下の柱よりも綺麗な外観に仕上がっているのが分かる。

 

島根県松江市 松江城天守内 2階部分 窓からの眺め

天守内に設けられている狭間の窓も、コロナ禍で建物内の空気入れ替えが必要になったこの時代に、意外とその機能がフィットしているように思える。これが窓ガラスだったら開けれないかもしれなかったが、このようにガラスの無い窓なので、空気の換気には最適なのである。

シメ縄兎吉
シメ縄兎吉

冬は逆に寒えけどなぁ・・・

 

島根県松江市 松江城天守内 2階部分 景観

靴箱が用意されていない天守内では、見学客はこのように袋に詰めた荷物を持って見学していかないといけない。城によっては靴箱が設置されている城もあるのだが、靴箱があったらあったで盗難や紛失などの問題もあって、どちらがいいと簡単に結論を言えるものでもなさそうだ。

 

島根県松江市 松江城天守内 2階部分 案内板

天守という建物は殿様が住む為の場所では無く、あくまでも敵が攻め込んできた有事の際に立て籠もる砦だった。なので、部屋などもなく、このように大きな広間となっている2階部分。

 

島根県松江市 松江城天守内 2階に描かれた松平家の絵

それと2階部分では、江戸時代にこの松江城のあった出雲松江藩を治めていた「雲州松平家」に、ゆかりのある場面が絵が描かれた物が展示されていた。左側の絵は、江戸時代後期に松江藩で多く栽培される事になった「雲州人参」(朝鮮人参)を、長崎経由で中国大陸に販売できる許可が下りて、その貿易で大きな利益を出していたという。

 

シメ縄兎吉
シメ縄兎吉

雲州人参は作付してから収穫まで6年、その後15年畑を休ましぇる必要があ~!

 

島根県松江市 松江城天守内 2階に描かれた松平家の絵2

こちらは藩主が駕籠に乗って、松江城に到着した時の一場面のように見える。江戸時代の全国に300ほどあった藩の藩主は、基本的に治めていた国元ではなく、江戸幕府将軍の足元の江戸藩邸に住んでいたのである。なので、藩主が国元へ帰れるのは、一般的には2年に1回行われた”参勤交代”の時しか無かったのである。

 

島根県松江市 松江城天守内 2階に描かれた松平家の絵の景色

江戸時代までの日本人の平均身長は、現代と比べると低かったとされているので、もっと天井が低いイメージがあったけど、ここ松江城の天守はそんなに天井が低くもない。もしこの天守に立て籠もるとなった際に、兵士たちは兜と鎧を身に付けるので、その兜分だけ頭が高くなる為に、それを見越して天井が高かったのかもしれない。

 

島根県松江市 松江城天守内 2階に描かれた松平家の絵3

こちらは『徳川将軍の正使として朝廷に参内』というタイトルになっていて、徳川家康の孫にあたる存在だった出雲松江藩:初代藩主「松平直政」の姿が描かれている。江戸幕府の世界では、「徳川家康」という祖は神様として祀られる存在でもあったので、その血を引く直系はかなりの高待遇だったと考えられている。

 

 

島根県松江市 松江城天守内 2階に描かれた松平家の絵4

江戸時代には”天下普請”と呼ばれた、江戸幕府から命じられた治水工事や道路整備などのインフラ整備を、自費で行わされていた。その為に全国の藩は出費が嵩んで借金地獄に陥る所が多かったが、その代わりにその地域の人々からすれば、インフラを整備してくれたので有難い事業だった事だろう。

 

島根県松江市 松江城天守内 後藤又兵衛の鎧

こちらの鎧兜は「後藤又兵衛」という、戦国時代に黒田氏や豊臣氏の下で数々の殊勲を挙げた武将が所用していたという一品。後藤又兵衛は仙石家から黒田家に仕えて、関ヶ原の戦いでは東軍として武功を挙げる。しかしその数年後に黒田家を出奔後し、”大坂の陣”が始まると浪人勢として豊臣方に参加した。

シメ縄兎吉
シメ縄兎吉

後藤又兵衛殿は、大坂の陣で家康が特に目を付けちょった要注意人物だったわ!

 

島根県松江市 松江城天守内 後藤又兵衛の鎧兜

しかし家康にも恐れられていた後藤又兵衛は、”大坂夏の陣”で伊達勢の大群と対峙して、壮絶な最後を遂げたとされている。黒田家を出奔した藤又兵衛は、松平直政の父である結城秀康からも誘いを受けていたらしく、こちらの鎧兜は後藤家の親戚であった松江藩士に伝来した物だそうだ。

シメ縄兎吉
シメ縄兎吉

前立ての♡マークは、松江藩の合印”猪の目”だがね!

 

島根県松江市 松江城天守内 松平直政の書状

こちらの書状は、信濃松本藩7万石の藩主だった「松平直政」が1638年に出雲国への移封と、隣の隠岐国の代官を命じられた際の喜びの心情を綴った内容となっている。出雲国と隠岐国の2国を合わせて20万石の”国持大名”となり、名実共に日本国中から認められた存在となったのがとても嬉しかった事だろう。

 

島根県松江市 松江城天守内 橋に使われていた木材

こちらの木の輪切りのような物は、松江城の北東で松江歴史館との間の堀に架かっている「北惣門橋」を、1994年に木造橋として復元した際に使われた青森ヒバの原木だそうだ。元々江戸時代から架かっていたという北惣門橋は、明治時代に石造りのアーチ橋に架け替えられてしまう。しかし、後になって堀の水の通過性が悪くなり、また昔の木造橋の雰囲気を再現する為に、平成時代になってから取り壊され、昔のような木造橋が架けられたという。

シメ縄兎吉
シメ縄兎吉

その時代によって価値観が変わ~けんね!

 

ちなみにこの木造橋「北惣門橋」は老朽化していた為に、2022年の夏に架け替え工事が行われて、今では新しい橋が完成している。

オカン
オカン

新しくて綺麗な橋を渡りたかったワ~!

 

島根県松江市 松江城天守内 橋に使われていた擬宝珠

こちらはその木造橋「北惣門橋」を復元した際に、欄干に取り付けられた擬宝珠の1つ。擬宝珠というと、昔は位の高い人が通る橋にしか取り付ける事が許されなかった代物で、昔の格式社会が垣間見られる代物となっている。

 

島根県松江市 松江城天守内 松平直政像の原型

そして2階には、こちらの上をふんぞり返ったようなポーズをしている小さな騎馬像も見られた。

オカン
オカン

どこかで見た事のある騎馬像やな?!

 

と思っていたら、城手前の三の丸跡広場に設置されていた「松平直政」の騎馬像の、小さいVerだった。

 

島根県松江市 松江城天守内 松平直政像の原型2

松平直政は出雲松江藩:初代藩主なので、松江藩では常に一番尊敬されていた人物でもある。

 

なお、こちらの騎馬像は、このブログでもお馴染みの「株式会社 竹中銅器」さんで製作された銅像となっている。この銅像は松江に城が築かれてから400年を迎え、更に”市制施行120周年事業”の一環で2009年に設置されている。

 

島根県松江市 松江城天守内 松平直政像の原型3

先程三の丸跡で見た松平直政の騎馬像は、実は2代目の銅像らしい。というのも戦前に初代の騎馬像が設置されていたのだが、戦時中の金属回収令で撤去されてしまったので、その代わりとして松江市民が長年要望していたという。

 

ちなみにこの騎馬像は松平直政が初陣を飾った『大坂:冬の陣』で、真田信繁(幸村)が守る真田丸に果敢に攻め込んで、武勲を挙げた戦さを再現した姿となっている。ただその時に松平直政は13歳前後と、今でいう”中学1年生”位の歳だった事もあって、こちらの騎馬像の顔は若干丸みを帯びて、子供のような顔になっていたのかもしれない。

 

こんな旅はまた次回に続きます!

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