島根県旅行記2021年11月-7
旅行期間:2021年11月上旬(2泊3日旅)
楽しい階段上り!
ここは”国宝”にも指定されている、島根県松江市にある「松江城」の天守内部。全国的に数少ない”江戸時代から現存する”天守の建造物となっており、昔らしい木造建築物に使用されている木材の香りが、何とも堪らない空間でもある。
住所:島根県松江市殿町1-5
【営業時間】 (※最終入場は30分前)
4月~9月:8時30分~18時30分頃
10月~3月:8時30分~17時頃
電話番号:0852-21-4030
入場料:大人680円/小中学生290円
松江城天守内の見学!
こちらには大きな太鼓が飾られている。こちらは二ノ丸にあった太鼓櫓で毎日の登城時間を知らせる目的で使われていたという。現代人からはちょっと想像しづらいけど、昔はこの太鼓を叩いて、それを合図代わりにしてきたのである。
そして3階に上る階段に差し掛かる。この松江城の天守内は意外と広いので、このようにちょっと大きめの階段が設置されている。先日訪れた岡山県高梁市にある、同じく江戸時代から現存する「備中松山城」の天守は、中の空間が狭かった為に階段も短くてより急勾配になっていたが。。
天守の3階にて
3階に登っていくと、このような『祈』の文字が筆で書かれた国宝に指定された記念日を祝う書が飾られていた。明治時代に文明開化が行われて、国内のそれまで古かった建造物などの多くの文化財が取り壊されたり破壊されてしまったが、そんな歴史ある物が今となって国宝に指定されるとは、何とも皮肉な事である。
明治政府は日本の宝を奪ったという事だ!
「江戸時代から現存する天守」は現在国内に12箇所残されているが、それぞれに築城された年代や設計した人物や、その土地の風土などの違いによって、全く同じ構造の天守はない。それぞれの天守には個性が見られて、またその違った設計になっている箇所には、必ずそれなりの意味があるので、その意味を探りながら天守見学をしていくとより楽しめるようになっている。
特に江戸時代初期には多くの天守が一気に建造された”天守建造ラッシュ”の時代だったので、全国的に木造建築物に使用する立派な柱が不足したという。本来なら1階部分から最上階までを貫く大きな柱を使いたかったのだが、手に入らなかった為に松江城では短めの”2フロアを通す柱”を多く設置して、最上階まで橋渡していったようだ。
そしてこのような歴史ある建造物が残されているという事は、その裏にその建造物を未来に残そうとした人々の尽力が隠されている。ここ松江城では廃城令となった際に、有志が立ち上がって天守を買い取る資金を集めて、天守保存活動を行ったという。
こちらは明治初期に”廃藩置県”となった後に、松江藩が時代遅れになった要塞の松江城を廃城にしたい旨を記した御達しの書状となっている。江戸時代までの戦い方では幾重もの防御施設が設置された城の攻城は困難な事であったが、幕末以降に海外から伝来した大砲などにより、遠くから砲弾を撃ち込まれればかつての城郭など何の役にも立たない時代になってしまっていた。
そして役立たずの建造物となってしまった城は、そのまま置いていても何の価値にもならずに、また定期的な補修の費用も掛かる為に、やむなく廃城する他なかったのだろう。ましてやその当時には今みたいに海外からの観光客を迎える観光資源として使う事すら想定もされていなかった。
松江城の櫓や門などは全て払い下げとなり、当時のお金で4~5円という価格で売り払われたという。そして天守は入札に掛けられて「180円」で売却されたが、松江城の天守だけでも何とか残したいと活動した有志が資産家に頼んで、天守だけ買い取ってもらったという。
天守が180円で買えるなら、ワタシ買うで!♪
木造建築物の天守だけあって、しっかりこのように消火器が設置されている。前回見学した高知城には水が入ったバケツが置かれていたけど、松江城では消火器しか見られなかった。
そして天守内でよく見かける”アルアル”な、他の城の天守の写真も飾られていた。こちらは『だんじり祭り』が有名な大阪府岸和田市にある「岸和田城」だが、そんな岸和田にこんな城がある事は意外と知られていない。この岸和田城の天守は江戸時代後半に焼失してから再建されなかったが、戦後になってからその天守が復興されている。ただ城内部には色んな資料が展示されているために”写真撮影が禁止”となっており、辛うじて最上階からの景色だけしか写真に残せない場所ともなっている。
徳川幕府が開かれた江戸時代初期には、家康に恭順した外様大名達が西軍に加担した大名の土地へと移封されていった。そして昔からの城をそのまま使うよりも、新しい場所に城が築かれる事が多かったので、当然その時代に城建造ラッシュが起きて、木材が不足した。
しかし、そんなトラブルを目の前にしても城は造らないといけないので、色んなアイデアが生み出される事になった。そして松江城では、特大の柱は手に入らずとも2階分を支える柱が手に入った為に、発想を転換して2階分を支える柱を多く設置して、その難局を乗り切ったのである。
3階フロアの景観! 動画
勿論こんな歴史的な木造建築物内でタバコを吸う人間は居ないと思うけど、”とてもバカで自分勝手な人間”がタバコを吸うかもしれないので、このような「禁煙」の札が張られているのだろう。
松江城を傷つけ~人間は死刑だがね!
そして4階に向かう階段も、なかなか重厚な雰囲気が出ている階段だった。この階段は万が一の火事が起きても直ぐに燃えないように「桐」で作られているという。また敵が攻め込んできた際にシェルターのように蓋を出来るスライド天井が、階段の上側に設置されているのも分かる。
なかなかに手の込んだ天守という建造物は、当時は最も工夫が籠められて、またそれなりの予算を掛けて造られた建物でもあった。なので城という建物に興味を持って見学するだけで、このように他の天守との違いも楽しめるのである。
4階部分にて
そして4階に到着する。ここまで登ってくるとお年を召した方からすれば「まだ最上階じゃないのか・・・」と思うかもしれないが、こうやって自分の足で江戸時代からの現存する天守の4階まで登れているという幸せを噛みしめるべきだと思う。
江戸時代には一般人は入れない”聖域”だがね!
この4階も下と上から通されている「通し柱」が目立つ内観となっている。地球上では「重力」があるので、このような高い建造物を支える構造が必要になってくる。そしてただ単に長い柱を設置すればいい訳ではなく、上からのしかかる重さを支えられないといけない。
こちらは「梁の上から立ち上がる柱」となっていて、上からの荷重を直接に下の柱が受けずに、梁を通してその荷重を分散する役目となっている。このように積み木のように、ただ柱を繋げていけばいい訳でもないようだ。
こちらのフロアには便所が造られていたけど、今のような誰でも使っていい便所ではなく、藩主専用のトイレとなっていた事だろう。また今みたいに下水道が完備されている訳でもなく、オマルのような箱が用意されていて、そこに💩などをしていたのである。
このように松江城天守内にはあまり展示品が無くて、すっきりとした木造天守の空間を楽しめる場所となっていた。城によっては沢山の展示品を陳列して”歴史博物館”代わりに使用している所もあるけど、ここ松江城は純粋に城の構造を楽しめる天守となっている。
そして4階から最上階までの間には、「5階」の踊り場だけの場所が設けられている。そしてその先からは、眩しい太陽光が差し込んでおり、最上階が近い事を感じさせてくれる光景となっている。
戦が無くなった時代に生きている現代人からすれば、このように侵入者を撃退する為の砦を理解しにくい事だろう。だがその当時には”喰うか喰われるか”の時代であり、常に敵から攻め込まれた時の事を考慮して生きていたのである。
松江城天守の最上階にて
そして本丸から30mほどの高さとなっている最上階に到着する。最上階もこのように特に邪魔な置物や展示品もなく、スッキリとした内観となっている。
そして目の前には、ここ松江市が松江城と共に誇っている「宍道湖」も見えている。江戸時代に移封されてきた堀尾吉晴は、最初にあてがわれた月山富田城という山城では、これからの時代に重要となる貿易には不向きだと悟り、このような海運が使える場所に城を移転したのだろう。
最上階からの眺め! 動画
江戸時代まではトラックなどの陸上を早く移動する輸送手段がなく、主に馬などに荷物を載せた行商レベルだったので、川や海の水運を使って荷物を運ぶ事がとても重要であった。大坂の街が栄えたのも碁盤の目のように張り巡らされた水路があったからで、江戸時代に栄える街には海運は欠かせなかったのである。
この松江城天守では外に出る事は出来ないけど、その代わり窓ガラスもなくて開放的な場所となっていた。かつては藩主や重臣しか見れなかった景色をこうやって今では一般人も眺められるので、松江城天守を保存してくれた人々に改めて感謝の気持ちを捧げたい最上階であった。
こんな旅はまた次回に続きます!
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