島根県旅行記2021年11月-13
旅行期間:2021年11月上旬(2泊3日旅)
水と共に生きる町!
松江城近くに造られている、松江藩の歴史が勉強できる施設「松江歴史館」の見学は、もうしばらく続きます。
住所:島根県松江市殿町279
営業時間:9時~17時頃(※月曜定休日)
電話番号:0852-32-1607
入館料:【基本展示】大人510円/小中学生250円
※松江城天守見学とのセット券あり
松江歴史館の見学!
こちらは松江城の天守が1611年に建造された証拠として、松江城が国宝に指定される事に繋がった「祈禱札」のレプリカである。この祈禱札は江戸時代初期に松江城天守が建造された際に、建物内に取り付けられていた物だが、後の改修時に取り外されて行方不明になっていたという。
ここ松江にあった松江藩を治めていたのは3つの大名だが、その最初になったのが外様大名の「堀尾家」であった。堀尾家の「堀尾 吉晴」が関ヶ原合戦などで東軍に加担した事で、出雲国を任せられる事になる。そして松江藩主2代目となった「堀尾 忠晴(ほりお ただはる)」は正室に、徳川家康の曾孫で徳川秀忠の養女ともなった「ビン姫」を迎えるが、結局跡取り息子が産まれぬまま堀尾忠晴が亡くなってしまったので、堀尾家は改易となってしまうのであった。
そして改易処分となった堀尾家の後釜に座ったのが、昔出雲国を治めていた「京極家」であった。若狭国小浜藩から移封されてきた「京極 忠高(きょうごく ただたか)」の父親だった「京極高次」は、このように豊臣秀吉や浅井長政とも血縁があった。
父の京極高次は浅井長政の姉を母親として生まれ、後にその血縁である浅井家に加担する。そしてその後は明智光秀にも通じるが、本能寺の変後に明智光秀は討ち取られ、柴田勝家の元に逃げ込むが、その柴田勝家も滅ぼされてしまう。
そんな苦境に陥った京極高次を救ったのが、秀吉の側室となった妹の「竜子」だった。そのおかげで京極高次は恩赦を受け、近江の大名へと出世した。その跡継ぎであった京極忠高は徳川秀忠の四女だった初姫を正室に迎え入れて、将軍家との繋がりを深くしていった。しかし、堀尾忠晴と同様に京極忠高も跡取り息子を残せなかったので、出雲国を没収されてしまうのであった。
跡継ぎを残しぇるかが、どれだけ大事な時代だったかがよう分か~わ!
そんな将軍家の血縁を迎え入れた外様大名が跡取りを残せなかった松江藩に移封されてきたのが、徳川家康の孫で”雲州松平家の祖”ともなる「松平 直政(まつだいら なおまさ)」であった。この松平直政の父親は徳川家康の次男であった「結城 秀康(ゆうき ひでやす)」で、親藩として江戸時代残りの松江藩を治め続けた。
こちらの模型は先程も見たけど、改めて角度を変えて眺めてみる。こうやって見ると、江戸時代にいかにこのような水が日本人に大きく影響を与えていたのかが分かる。水という物質は人類だけではなく、地球上に存在する無数の生命体にとって絶対に必要な物なのである。
こちらは宍道湖と中海を繋ぐ大橋川に架っていた大橋周辺の街並みで、海運輸送で賑わっていた岸沿いに多くの建物や商人などが集まってきていた事が分かる。荷物が多く行き交う現場ほどに、関わる人間が増えていき、このように人間の数が増えるに従って建物も増えていった。
人類の経済発展の歴史などを調べていくと、このような港が昔から多く栄えてきた。しかし、恒久的に栄えた場所というのはごく一握りしかなく、時代が進む毎に商流の変化や造船技術の向上によって、求められる港の条件が変化していき、時代の波に付いていけなくなった港は廃れていくのである。
松江藩7代目藩主「松平 治郷(不昧)」の時代に、宍道湖の増水対策として佐陀川が日本海との間に掘られる事になった。この工事ではおよそ7万人の人手が駆り出されて、大掛かりな工事となった。しかし、この運河の開設は宍道湖の増水問題の解決だけではなく、城下町近くまで船で荷物を運搬できる事に繋がり、更に松江は発展していく事に繋がる。
人類の歴史を調べていって「凄いな~人間って!」と思うのが、このように自分達の住み易いように地形を工事していった事である。21世紀となった現代からみれば、人間側の自己都合だけで地形を改造する事が「環境破壊」と認識される時代となっているが、大雨が降った際の水害対策などで八雲町日吉地区では約100年もかけて川の流れを変えたという。
今では人間が生きちょ~だけで、環境破壊に繋が~わ!
こちらは江戸時代の松江城下町を再現した模型が展示されている。このように松江城下町では宍道湖に繋がる水路が整備されていたので、大雨が降った際に水害が出やすいというデメリットも当初はあった。
江戸時代になって出雲国に移封されてきた堀尾家は、最初に居城としてあてがわれた「月山富田城」を、これからの時代に向いていない城と感じ取った。それまでは群雄割拠の”下剋上”戦国時代で、常に戦を最優先にした生活が築かれていた。しかし、徳川家康によって平定された国内は一転して戦乱が収まって平穏な時代になり、戦メインの町から経済を中心とした町造りに大きくシフトしていく。
月山富田城は”難攻不落の山城”として有名ではあったものの、逆に言えば商業などの経済発展を阻害する城でしかなかった。その為に堀尾家は新しい城を建造する候補地を探し、宍道湖や中海の水を充分活用できる松江の地に城を築く事になった。
関ヶ原の戦いでそれまでの豊臣秀吉の家臣として働いてきた諸大名の中で、特に”先見の明”があった人物は徳川方に寝返っている。そしてそんな”先見の明”があった大名は、配置された場所で盤石な砦として強固な城を築くと共に、城下町の整備も最優先にしていった。
こちらは1600年代のこの松江の地図。勿論今みたいに上空から実際に見た訳ではないけど、このように正確な測量技術が開発されつつあったので、かなり正確に描かれていたようだ。
こちらは1700年代の地図で、城下町の整備などで大きく商業的に発展してきていた町の様子が描かれている。この松江城が造られた場所は、かつて末次城という城跡だった所でもあった。
こちらは1800年代の地図で、江戸時代後半を迎えて円熟期に突入してきた城下町の様子が描かれている。この時代になると松江城周辺の区割りも浸透してきて、それぞれに色んな特色のある場所が生まれていた。
そして1900年代に入ると、大橋川に新しく「新大橋」という橋が架けられているのが分かる。明治時代を迎えて、馬車などの交通量が増えて、また電車路線が近くに造られた事により、従来の大橋だけでは物量を捌けなくなったので、新しい橋が架けられる事になった。
そして2000年代の地図には、その大橋川に更に新しく「宍道湖大橋」が架かっているのが見えている。この宍道湖大橋は1972年に建造された橋で、自動車移動が全盛の時代になった為に、従来よりも幅が広い道路として架けられた。
交通手段の発展によって、町も変化していっちょったわ!
このように大きく松江の地が分かるキッカケとなったのが、堀尾家の移封であった。それまで月山富田城を支配していた毛利家のままでは、このように松江の地がここまで大きく開拓される事もなかったのかもしれない。
トップを変え~事が変革に繋が~わ!
出雲国に移封されてきた堀尾親子は、大橋川の南側にあった「元山」の上から、理想的な城を築くための場所を探したという。そして天然の堀として使える川が脇にある「亀田山」に、本拠地となる松江城を築くのであった。
江戸時代初期の1600年代に、それまで湿地だった亀田山周辺が大きく発展する事になる。松江城だけではなく、その周辺に城下町が築かれる事になって、多くの人間が流入してくるのであった。
そして1600年代に城と城下町の基礎が出来ると、1700年代には財政難で苦しむ松江藩の改革が行われる。そこで付加価値の高い名産品開発が行われ、「御種人参」という高級生薬の元になる作物や、”たたら製鉄”などの事業が藩主導で行われていくのである。
そして幕末を迎えると、徳川家康の血が流れる”親藩”という事もあって、微妙な立ち位置となった松江藩。悩みに悩んだ末に新政府側に協力し、過去よりも未来を選んだ松江藩だった。
過去より大事なのが”未来”だわ!
こちらは松江藩10代藩主「松平 治郷(不昧)」の像で、江戸時代の松江藩でも歴史的に有名な藩主である。財政改革の立役者であり、更に江戸時代きっての”茶人”としても活躍したので、当時としては贅沢にしか思えなかった金遣いも、今となっては新たな文化や名産品を生み出す事に繋がったのである。
人の価値は死んでからしか、上がらんわ!
このような当主の贅沢は、メーターを振り切る位のレベルほど、後世になってそれが大きく財産と変わる事が多い。この松平不昧がこだわった”茶会”では、高い茶器と共に出された和菓子の技術についても向上し、後の松江の名物になったのである。
ちなみにドイツでも人気の観光名所となっている「ノイシュバンシュタイン城」も、当時の王様が自分の趣味に没頭し、国が財政難になる程に豪華な城を造った。その当時の国に住んでいた人達にとっては”ありがた迷惑”な事だっただろうが、それから100年以上経った今となっては、その城からの経済効果で何倍もの利益が出ているので、歴史というものは後になってからしか分からない事も多いのである。
そして松江歴史館の見学はこれにて終了となる。そしてこの松江歴史館内では「和菓子」を販売していて、このように目の前で和菓子を製作している過程が見られるようになっていた。
松平不昧がこだわった松江の和菓子は、今となってはこのように若者向きに、彩りやデザインが凝った”見た目”が特に進化している。本来は中身の「味」で勝負のお菓子という食べ物だが、松平不昧のように”もてなし”の心も含めた外観も磨かれていっている。
特に最近は若者向けに”インスタ映え”しそうな、お洒落な外観をデザインした和菓子で、年寄りクサイ雰囲気となっている和菓子に再びスポットライトを当てようと頑張っていた松江の町。
松江歴史館の外には、こちらの松江城天守内で見た鯱の形をした置物が展示されていた。この鯱は松江城三の丸にあった樹齢300年以上を誇る木が枯れ死した為に、その歴史ある木を活用して原寸大の鯱を製作したという。
松江や松江藩の歴史を充分に勉強出来た「松江歴史館」。歳を取れば取るほどに、訪問地の歴史を勉強する事が楽しくなってくる気がする。そしてひとたび勉強した事実が他の地でも繋がっていき、それがどんどんと繋がっていくと、楽しくて仕方なくなってくるのである。
もっと早く勉強好きになってくれてれば・・・
この訪問時には「堀尾 吉晴」の特別展示が行われていた。江戸時代後半頃から、全国諸藩の始祖が神様として崇められるような風潮になっていったけど、どの世界でも”祖”という存在が崇められているのである。
こんな旅はまた次回に続きます!
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