薩摩藩英国留学生記念館の見学②:サッポロビールや葡萄王や博物館の父を生む留学【熊本&鹿児島旅行記18】

熊本&鹿児島旅行記2021年12月-18

旅行期間:2021年12月頭(2泊3日旅)

留学の成果!

鹿児島県いちき串木野市 薩摩藩英国留学生記念館 建物

ここは鹿児島県でも西側の海沿いに造られている「薩摩藩英国留学生記念館」。幕末に江戸幕府に隠れて海を渡って、イギリスに送り込まれた留学生が出航していった羽島の地に、今ではその記念館が設置されている。

 

 

 

薩摩藩英国留学生記念館の見学!

鹿児島県いちき串木野市 薩摩藩英国留学生記念館 館内 長テーブル

2014年に造られたこの記念館は、カフェも併設されていたりして、館内もまだ比較的新しい建物のように思える程に清潔感があった場所でもあった。

 

鹿児島県いちき串木野市 薩摩藩英国留学生記念館 「羽島浦出航之図」 中村晋也 レリーフ

そんな記念館の壁には、こちらのブロンズのレリーフが飾られているのが見えた。こちらは『羽島浦出航之図』という、昨日の夕方に訪問した日本が誇る彫刻家:中村晋也氏の作品でもあった。

 

鹿児島県いちき串木野市 薩摩藩英国留学生記念館 「羽島浦出航之図」 中村晋也 レリーフ 船

このようにレリーフというよりも立体感が感じられる作品となっていて、英国に連れて行ってくれるグラバー商会の船に向かって、荒波を小舟で進んで行く様子が再現されている。見果てぬヨーロッパという地にこれから送り込まれる若者達のちょっと不安げな気持ちと、その小舟の先頭には強い志を持って商船に先導する人物の背中が特徴的な作品ともなっている。

 

鹿児島県いちき串木野市 薩摩藩英国留学生記念館 館内の景色

この記念館では、1865年にイギリスへと送り込まれた『薩摩藩遣英使節団』の、その後の業績などが丁寧な解説と共に展示されている。この時の留学生のその後を知ると、今の日本国内に大きく影響を与えていた事が分かるのでもある。

 

鹿児島県いちき串木野市 薩摩藩英国留学生記念館 鹿児島紡績所』模型

この薩摩藩遣英使節団には若い留学生と共に、海外諸国と交渉目的で訪れる使節も乗り込んでいた。その使節として乗り込んだ五代友厚は、イギリスで当時最先端の紡績機を買い付け、薩摩藩ではその新しい紡績機を導入して、鹿児島紡績所などを造って紡績産業が発展していった。

 

鹿児島県いちき串木野市 薩摩藩英国留学生記念館 町田久成の肖像画

こちらの肖像画は「町田 久成(まちだ ひさなり)という留学生の1人で、後に上野に東京国立博物館を創設して、初代館長ともなった人物である。明治時代を迎えると、今までの江戸幕府の影響力を落とす為に廃仏毀釈などが行われて、貴重な歴史ある文化財などが次々に破壊されていったが、1867年のパリ万博にも参加した町田久成は、それまで無かった文化財を保護する博物館の設立に尽力したのである。

開聞茸
開聞茸

僧侶のように見えるのは、晩年に出家したからだよ!

 

鹿児島県いちき串木野市 薩摩藩英国留学生記念館 森有礼の肖像画

こちらも留学生の1人「森 有礼(もり ありのり)で、イギリス留学の後にアメリカにも渡り、帰国してからは福沢諭吉らと共に『明六社』を設立し、後に現在の一橋大学の前身である私塾「商法講習所」を開校した。そして初代:内閣総理大臣に任命された伊藤博文の内閣に入閣し、初代:文部大臣に就任した人物でもあった。

 

 

鹿児島県いちき串木野市 薩摩藩英国留学生記念館 森有礼の案内

ちなみにこの森有礼は『国語外国語化論』という、英語の国語化を提唱していた先見の明のある人物でもあったようだ。実際に幕末に海外を渡った人物は、その当時はオランダ語が全く通用せずに、英語が全世界で伝わる言語となっていたので、それを国語として導入すべきだと考えたのだろう。

 

鹿児島県いちき串木野市 薩摩藩英国留学生記念館 サッポロビール創設者:村橋久成の案内

そして留学生の中には、サッポロビールの前身となる『開拓使麦酒醸造所』の設立に大きく関わった人物もいた。それが「村橋 久成(むらはし ひさなり)という人物なのだが、当初は留学に行くつもりはなかったのだが、薩摩藩遣英使節団の留学直前に2人の固辞者が出た為に、補欠として選ばれた人物でもあった。

 

鹿児島県いちき串木野市 薩摩藩英国留学生記念館 サッポロビールの文字が入った樽

このように補欠で当初の留学者には入っていなかった人物が、日本に帰ってから『開拓使麦酒醸造所』の設立に大きく関わるというのもなかなかに興味深い話である。しかも、留学にあまり乗り気でなかった村橋久成は、日本から遥か離れた世界で精神を病んでしまい、他の留学生達よりも早々に日本に帰国する事になる。

 

鹿児島県いちき串木野市 薩摩藩英国留学生記念館 サッポロビールの昔のラベル

しかし、他の留学生より早く帰国した事によって、戊辰戦争に新政府軍として参加し、東北地方や函館まで遠征して戦果を残す。そして戊辰戦争終結後にその殊勲が認められて表彰され、「開拓使官吏」として蝦夷地だった北海道へと赴任して、本場ドイツでビール製造を学んできた中川清兵衛を雇って、開拓使麦酒醸造所を立ち上げ軌道に乗せる事に成功する。

東郷どん
東郷どん

人は生きちょりゃ、ないかん役に立つもんじゃ!

 

鹿児島県いちき串木野市 薩摩藩英国留学生記念館 長沢鼎の雑記帳

そして薩摩藩遣英使節団の中でも、当時13歳の最年少で参加したのが「長澤 鼎(ながさわ かなえ)であった。この長澤鼎が日本国内で殆ど知名度が無いのは、彼が日本に戻らずにアメリカの地に移住したからかもしれない。

 

鹿児島県いちき串木野市 薩摩藩英国留学生記念館 長沢鼎の雑記帳2

イギリスでの留学は幼かった為にロンドン大学に入学できず、その代わりに武器商人だったトーマス・グラバーの実家で世話されて学ぶ事となった。しかし、幼いながら優れた才能を見せ、後にトマス・ハリスに誘われて渡米し、他の仲間達が次々と帰国する中、長澤鼎だけはアメリカに住み着いて、農園で働き続けた。

 

鹿児島県いちき串木野市 薩摩藩英国留学生記念館 長沢鼎の印鑑2

こちらは長澤鼎が所有していた「長澤」と彫られた印鑑。ハンコではなくサイン文化のアメリカに住み続けながらも、このようにかつての日本人らしさを大事にしていた長澤鼎。

 

 

鹿児島県いちき串木野市 薩摩藩英国留学生記念館 長沢鼎の印鑑

イギリスに留学後、薩摩藩も幕末の激動に巻き込まれて莫大な費用が掛かる留学生の滞在費用が捻出できなくなっていく。それもあって次々と留学生が帰国する中、怪しい噂がある宗教者「トマス・ハリス」に付いて行って、アメリカに渡る。

 

鹿児島県いちき串木野市 薩摩藩英国留学生記念館 古いファウンテングローブのワイン

そして仲間達が次々と姿を消していくなか、長澤鼎はトマス・ハリスを信用して、農場での働きに没頭する。そして、トマス・ハリスが興した教団はカリフォルニアで広大な土地を購入し、そこでワイン造りが行われカリフォルニアで知られたワイン農家となる。後に教団が解散した後に長澤鼎はワイン農場を買い取り、大きなワイナリーに育て上げるのであった。

 

鹿児島県いちき串木野市 薩摩藩英国留学生記念館 古いグレープジュースの缶

その長澤鼎が引き継いだワイン農場は『ファウンテングローブ・ワイナリー』となり、当時のカリフォルニアを代表するメーカーとなっていく。こちらは禁酒法時代にワインの代わりに葡萄を使って造られていたグレープジュースの缶で、「NAGASAWA」の文字も見られる。

 

鹿児島県いちき串木野市 薩摩藩英国留学生記念館 小菅修船場跡の模型3

こちらは五代友厚が帰国後に、武器商人のトーマス・グラバーと共に立ち上げた、西洋式ドックの「小菅修船場(こすげしゅうせんば)の模型。明治時代を迎えて、世界の潮目は大きな戦艦主義に向けて動いていたので、先見の明を得て大きな船を修理できるドックを導入した。

 

鹿児島県いちき串木野市 薩摩藩英国留学生記念館 小菅修船場跡の模型

この小菅修船場は建造の翌年に明治政府に買い上げられ、明治17年に三菱グループに譲渡され、三菱重工業長崎造船所の礎を築く事になる。この小菅修船場は今では使われていないが、世界遺産『明治日本の産業革命遺産』の構成資産の一部にもなっている。

 

 

鹿児島県いちき串木野市 薩摩藩英国留学生記念館 小菅修船場跡の模型2

このように幕末の留学した人々の事を調べると、進んだ先進国の優れた技術や文化を遅れている国内に導入する事で、明治時代以降に日本が大きく近代化に向けて発展していく礎を築いていた事が分かる。このように、如何に自分の全く知らない遠い世界に出ていく事の大事さが変わる場所でもあった。

 

こんな旅はまた次回に続きます!

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