熊本&鹿児島旅行記2021年12月-20
旅行期間:2021年12月頭(2泊3日旅)
無料とは思えないクオリティ!
鹿児島のいちき串木野市から高速道路を使って移動して、約1時間掛けて戻ってきた鹿児島市内。今日は桜島をグルっと周回してから鹿児島空港へ向かう予定だったのだが、桜島に渡る前にもう一箇所訪れておきたい場所があった。それがこちらの「石橋記念公園」に造られている「石橋記念館」だった。
石橋記念公園を訪れる!
この「石橋記念公園」は、約1年前に鹿児島を訪れた時に見学した場所であるが、その際にはこの公園内に造られている「石橋記念館」という資料館が閉まっていたので、その中を見学できずに石橋だけを見て帰ったのである。だから今回はそのリベンジを兼ねて、また熊本で通潤橋などの石橋を見学した事もあって、余計にここで石橋の勉強をしたかったのである。
鹿児島市内を流れる甲突川には、江戸時代の1840年代に隣の肥後国から石工が集められて、5本の立派な石橋が架けられた。それから100年以上に渡って時を刻んできた石橋であったが、約150年が経過した1993年に発生した『鹿児島大水害』で、2本の石橋が急流に流されて倒壊してしまった。
そして残された3本の石橋も、現代の交通事情に応じた新しい橋の架け替えが望まれ、今ではこの石橋記念公園内に移築されて保管されている。前回この場所を訪れた後に、肥後国の名石工について書かれている本を読んで、熊本県内に残されている「通潤橋」などの石橋に興味を持ったのである。
そして今回の旅ではオカンを修学旅行以来の阿蘇山に連れて行くと言いつつも、個人的には肥後国の職人達が建造した通潤橋などの古い石橋見学がメインだったのだ。そして熊本県内の歴史ある石橋を見学して、更にもっと勉強したかったので、再びここ石橋記念公園まで戻ってきたという訳だった。
こちらの石橋記念公園内入口近くに飾られている立派な橋が「西田橋」で、欄干にこのような擬宝珠が取り付けられている事から分かるように、”甲突川五石橋”の中でも薩摩藩の大名行列が通っていた由緒ある橋だったという証拠なのである。
石橋記念館の見学!
こちらは石橋記念館の2階部分になり、簡単な展示しか見えないけど、本格的な石橋の資料などは下のフロアに展示されている。ここではモニターを使った説明や、鹿児島市内に設置されていた”甲突川五石橋”の地理的な説明がメインとなっていた。
このようにここからは奥に桜島の雄大な景色が見られる場所となっていて、現役を退いた西田橋もここで素晴らしい景観と共に保存されている。あまりにも素晴らしい景観と立派な橋が残っているので、ここで大河ドラマなどの撮影も行われる程に人気のロケーションともなっている。
こちらには”今どき”とは思えないような四角いモニターが置かれていて、昔に設置された機器のような雰囲気を出していた。今の画面が薄くなった液晶ディスプレイしか知らない若い子達には理解できないかもしれないけど、昔はこのようにブラウン管テレビという奥行きがあるテレビモニターが一般的だったのを思い出させてくれる一品でもあった。
こちらには鹿児島市内に架かる石橋などが、地理的に判り易いような模型が設置されていた。橋というと昔は木の橋が一般的であったが、大雨が降ったりして増水した時に木の橋だと簡単に流されてしまって、再び復旧工事が行われるのが常だった。
しかし、その橋が流されて復旧している間に、その橋が使えなくなった事により生産性が落ちてしまっていた。それだと城下町の生産性がいつまで経っても向上しないという事で、莫大な借金があった薩摩藩の財政を厳しい財政改革によって借金返済して貯金まで出来るようにした家老「調所 広郷(ずしょ ひろさと)」が命じて、この甲突川に5つの石橋が建造される事になった。
その石橋を建造する職人は、名石工が揃っていた肥後国の職人に依頼し、その腕に見合った立派な石橋が甲突川に架けられる事となった。そして1993年に2つの石橋が流されるまで、薩摩藩、そして鹿児島市内の生産性を大幅に向上させる役割を果たしたのである。
そして1階部分に降りていくと、こちらの「常設展示室」が用意されている。今ではなかなかお目に掛かれる機会が無くなった江戸時代に建造された石橋だけど、この石橋を今のようなクレーン車などの重機無しに、どうやって造ったのかを知っている人も少ないだろう。
さっき見た2階部分とは全然違って、1階の「常設展示室」は石橋を建造中の人々が配置されている詳細な模型や、石橋造り時の資料などが事細かに説明されていた。
このように、石を割る工程などの模型も再現されていて、なかなかに本格的な展示となっていた。しかも、用意されている説明のボタンを押すと、音声案内と共にこの小さい模型の一部が動くという、無料とは思えないクオリティとなっているのだ。
普段はあまり関心しないワタシでも、記憶に残る位のクオリティでした♪
なお、甲突川に架けられた5つの石橋が、実際にどのようにして建造されたという資料自体は残されていないので、あくまでも他の石橋造りの手順や、橋建造の専門家などの知見から説明したものとなっているようだ。
今みたいに石材を何個も積んで走るトラックや、簡単に運べるショベルカーやブルドーザーもない江戸時代だったので、このように多くの人手が動員されていたのだろう。このように女性と思われる一団で実際に石材を担いでいたかは分からないけど、猫の手も借りたいほどの大工事だった事だろう。
人の苗字で「石橋」という名前があるけど、今まではその名前を聞いても特に何も思わなかったけど、このように先祖は石橋造りに大きく関わった人物だったのかもしれない。
ただ「石橋」という苗字をネットで調べてみると、どうも石橋造りに関わったから名付けられた訳ではないようだ。また全国に住む石橋という苗字の人は、福岡県が一番多いらしく、また「ブリヂストン」の発祥の地である福岡県久留米市が市町村別では最も多いようだ。
バルト三国旅で出会った石橋夫妻も、福岡県だよね!
なかなかに素晴らしい出来栄えの模型だったけど、「石橋がどうやって作られたか?!」という展示の説明で、このように石切り場から始まっているのは驚いた。もっと具体的な橋の形を建造している途中ぐらいの模型であれば特に驚きはしなかったけど、このような石切り場で働く人達の模型から始まり、しかもこの小さな人が動くのである。
しかし石橋造りで大事なのは、このような実際に石橋に使われる石材だったのかもしれない。石切り場から切り出されてきた石を、更に綺麗に割って形を整える工程で手を抜くと、綺麗な石橋にならず、ここが肥後国の名石工の腕の見せ所だった事だろう。
動く模型の人形! 動画
江戸時代に全国の外様大名の中でも、第2位の大きな石高規模を誇った薩摩藩であったが、他の立派な城で見られるような石垣跡はあまり見られない。隣の肥後藩の熊本城みたいに立派な石垣はなく、また鹿児島城下を流れる大きな川の治水工事も、加藤清正の白川ほど熱心に行われた形跡もない。
しかし甲突川は度々氾濫を起こしており、確実にその度に城下町は被害を受けていた。だが薩摩藩は首が回らないほどの大借金を抱えていた時代が長く、なかなか河川の治水工事まで行えなかったのが現実だったかもしれない。
だが1838年頃に発生した大水害で城下町は大きな被害を受け、薩摩藩の財政改革と共にインフラ整備も同時に行っていた家老の調所広郷が、早急の課題として対応をしたのがこの石橋だった。その時代には調所広郷の財政改革のおかげで底の見えない程に膨れ上がっていた借金地獄が徐々に改善されだした頃合いで、余裕が出来た資金で肥後の石工として評判が高かった「岩永 三五郎」を呼び寄せて石橋を架けさせる事になる。
熊本県内の石橋は、今回の初日にも見学した通潤橋などに代表されるように、人里離れた山奥に造られている物が多い。それに比べると、多くの人手が確保できる鹿児島城下での石橋建造は捗ったかもしれない。ただ、簡単にその辺の素人が石橋建造にすぐ使える訳ではないので、そう単純な話ではないのだろうが。。
アーチ状の石橋は古代ローマ時代からの遺跡が残っているように、約2000年も昔から人々に活用されてきた形の橋である。2000年間に渡って使われてきている構造からも分かるように、重さを支える際に円形のアーチ状態が、その上からの重さを分散して支えるのに一番適した構造だったのである。
そんなアーチ状に切り出してきた石材を積んでいく工程には、このように石橋の完成時には見る事の出来ない、木の足場が設置される。まずはこの足場を作ってから、そのアーチに沿って石材を1つずつ順番に積んでいくのである。
そして木組みの足場に沿って綺麗に石材を積んでいき、このように石が綺麗に積まれた状態になってから、慎重に木組みの足場が外されていく。すると、下への重力を支える足場が無くなった事により、アーチ状に積み重ねられた石材同士がそれぞれを支え合う形となって、このような丸いアーチ型がそのまま形成されるという仕組みになっている。
人間って、本当に頭をよく使う生物だよね!
最近は頭使えない人間、多いけどなド~~ン!
そして石橋はその綺麗なアーチ部分だけではなく、その石が積まれる土台部分や、脇の部分もしっかり固めて隙間なく石を並べないと、木の足組を外した時に掛かる重力を上手く受け止めれないと、その石橋全体が崩落してしまう。このように江戸時代に今では考えられない程に、精密な作業が行われていた石橋造りであった。
この資料館、人形が動くのが面白いデ!(笑)
こんな旅はまた次回に続きます!
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