信州松本旅行記2022年3月-19
旅行期間:2022年3月上旬(2泊3日旅)
高名な思想家!
さて、長野県松本市で迎えた2日目の朝。ホテルの部屋からの眺めは、このように北アルプスが見える景観となっていて、また今日も天気が良さそうな空となっていた。
松本駅の東口付近には、このように大きなホテルの建物が密集している事もあって、せっかくの北アルプス連峰の景色が見えにくくなっている。
ただ、ホテルの中でも上層階の部屋となっていた事もあって、辛うじて山の上に白く雪化粧された景色が見られた。
そして午前8時前にホテルを出発し、昨日借りたレンタカーを停めている松本駅西口側の駐車場へ向かう。
なお、その駐車場はホテルから線路を挟んだ反対側にあるのだが、徒歩で渡ろうとすると、わざわざ松本駅構内の通路を通って渡らないといけないので、ちょっと遠い場所になっている。
ワタシは300~400円高くても、近い駐車場が良かった・・・
そして松本市内から車で約1時間掛けて、長野市松代町へと向かうのであった。
松代町の「象山神社」を訪れる!
そして長野市松代町にある「象山(ぞうざん)神社」という場所に到着する。
こちらの神社は名前からして、江戸時代後期の歴史が好きな人にすれば、誰が祭神として祀られているかがすぐに分かる場所でもある。
全然判らんで・・・
この象山神社では、江戸時代後期に活躍した思想家で儒学者でもあった「佐久間 象山(さくま しょうざん)」を祀る為に昭和13年(1938年)に建立された神社である。
ただ、今回この松代町を訪れた目的は、この象山神社ではなく、近くにある別の遺構跡だったのであるが。。
オレが教えてやった場所に、行ったんやな!
その象山神社入口で、まず出迎えてくれたのがこちらの「佐久間象山先生の騎馬像」であった。
この騎馬像は”佐久間象山先生:生誕200年祭”の記念として2010年に造られた銅像で、富山の彫刻家「田畑 功」の製作となっている。
この象山神社内は、佐久間象山が生まれた跡地に建立されている。
また、佐久間象山が晩年に住んでいた建物が京都から移設されており、まさしく”象山一色”となっている神社でもある。
こちらは鳥居をくぐって正面奥に設置されている「拝殿」で、この拝殿の奥に本殿が設置されている。
なお、拝殿と共に本殿も、”国の登録有形文化財”になっている。
その参道途中脇にあったのは「望岳賦(ぼうがくふ)」という、佐久間象山が天保12年(1841年)の31歳頃に、自分の理想と抱負を書いた韻文である。
佐久間象山が書いた内容を義兄弟となった村上政信が、碑に彫らせて邸宅に飾られる事になった石碑。
その後行方不明になった時もあったが、東京都杉並区の寺内にて発見され、昭和48年(1973年)にこの地に再建されたという。
そんな境内には、まだ他にも銅像が設置されているのが見えてくる。佐久間象山というと、江戸時代を代表する儒学者:佐藤一斎に弟子入りし、その塾生の中で最も優れていたという、備中松山藩の「山田方谷」と毎晩激論を交わしていた事でも有名である。
銅像が沢山設置されているスペースの入口には、こちらの『努力』『勇気』『情熱』と文字が彫られた石碑も置かれていた。
こちらに設置されている銅像群は、この長野市が創業の地である『洋服の青木』の、創業者である「青木 拡憲」とその弟「青木寶久」が出資していた。
『洋服の青木』でも有名な「AOKIホールディングス」というと、日本国内の紳士服業界では「洋服の青山」に次ぐ第2番手となっている大会社であるが、2022年5月に創業者&会長:青木拡憲と、弟で副会長:青木寶久が揃って退陣するという発表をした。
そしてそのニュースから数か月後に、東京オリンピック2020でオリンピック大会組織委員会の元理事とAOKIホールディングスとの間で”汚職疑惑”が浮上し、捜査のメスが入れられた。
青木兄弟も、長野の英雄からあっという間に地に落ったわ・・・
奇しくもそんな長野県で創業して大きな会社に育てた青木兄弟が、この地を訪れた時に佐久間象山という人物の生涯を知って感激し、後にこの場所にその偉業を称える為にこの銅像などを贈ったようだ。
今となっては、汚い金で作られた像など要らねえよ!
まず見えてきたこちらの像は「小林 虎三郎(こばやし とらさぶろう)」という、長岡藩の藩士で明治時代に入ってからは長岡藩大参事ともなった人物。
小林 虎三郎は23歳の頃に長岡藩より江戸留学の命を受けて出向し、そこで佐久間象山と出会い、その門下生となった。その「象山塾」では吉田松陰と共に門下生を代表する『象山の二虎』とも称され、塾頭にもなった。
長岡藩というと戊辰戦争で当初中立の立場を取っていたが、旧幕府軍に加担して敗北した藩である。
その敗れてボロボロになった長岡藩の大参事として復興に当たったのが小林 虎三郎で、有名な『米百俵』の精神で長岡藩の立て直しに貢献したのである。
己の欲に金を使うのではなく、未来の為に使わなくちゃな!
こちらは同じく「象山塾」で『象山の二虎』と称された、「吉田 松陰(よしだ しょういん)」の胸像である。
吉田 松陰は長州藩士の家に生まれ、叔父が開いていた私塾「松下村塾(しょうかそんじゅく)」などで勉強し、その秀才ぶりが幼い頃から光り輝いていた。
そして江戸遊学で佐久間象山と出会い、こちらも門下生となる。
そして国に戻ってからは松下村塾や藩校で子供達に教育を授け、伊藤博文や久坂玄瑞や山縣有朋など、幕末や明治時代を代表する人物を多く輩出する事に貢献した人物でもある。
こちらは、この象山神社2体目の銅像である「佐久間 象山」。
佐藤一斎の門下生として山田方谷と比べられる事が多いが、山田方谷は備中松山藩の財政改革などに大きく貢献した人物であるが、こちらの佐久間 象山はその教えた弟子が更に弟子を鍛えて、その系譜に名立たる人物が列挙しているのが特徴的である。
佐久間 象山は儒学者であったが、松代藩から西洋研究の指令を受け、私塾を閉めて江川英龍から洋式砲術を学ぶ事になった。
その際に蘭学なども勉強し、後に再び私塾「五月塾」を開いて砲術や兵学などを教える事になる。
そしてこの私塾「五月塾」に、勝海舟や坂本龍馬など幕末に活躍する偉人が学んだのである。
こちらは信濃松代藩:第8代藩主の「真田 幸貫(さなだ ゆきつら)」の銅像。
佐久間象山の才能を見抜いて藩の顧問に抜擢した人物だが、真田家の血を受け継ぐ人物ではなく、実は”寛政の改革”を主導した陸奥白河藩主「松平 定信」の長男である。
この真田幸貫は真田家の歴代藩主の中でも”名君”として有名らしく、また父親:松平定信と同じく老中にも就任している。
なお、真田家というと外様大名だと思ってしまうけど、実際には松平定信の長男:真田幸貫が継いだりしていた事もあって、”譜代大名待遇”として扱われた藩だったとか。
こちらはお馴染みの「勝 海舟」で、現代では知らぬ者がいない程の有名人となっている。
古来からの旗本でもあった勝家に生まれ、剣術と共に蘭学にも精を出し、佐久間象山の下で西洋砲術などを学んで、後に江戸幕府の長崎海軍伝習所の責任者となる。
こちらはすっかり現代人のヒーロー的存在にまでなっている「坂本 龍馬」。
こちらも江戸遊学中に佐久間象山の下で西洋砲術などを学んだが、入塾から約4カ月ほどで吉田松陰が米国軍艦に密航しようとした事件の関連を疑われて佐久間象山が投獄された為に、多くを学べたという訳でもないようだ。
こちらは「橋本 左内(はしもと さない)」という、福井藩の医師の家に生まれた人物。
緒方洪庵の適塾で大村益次郎に蘭学を学び、江戸に出てからは佐久間象山の下で学び、水戸藩の藤田東湖や薩摩藩の西郷隆盛などと交流して、その有望さが輝く人物だった。
しかし、吉田松陰などと同様に井伊直弼の行った『安政の大獄』で処刑されてしまい、僅か25歳でこの世を去ってしまった。
『安政の大獄』では多くの優秀な人物が処刑や軟禁される事になり、その大きな反発が後の『桜田門外の変』に繋がっていく。
こちらは、この象山神社で3体目の佐久間象山の像で、その中で最も古い物で着色もされているのが見える。
門下生の吉田松陰が米国軍艦に乗り込もうとした事件の責任を追及されて監禁されてしまい、その後は釈放されたものの、この松代で蟄居を命ぜられた。
しかし、その優秀な思想を頼りにしていた一橋慶喜(後の徳川慶喜)が、1864年に京へと招いた。
だがその当時の京は”尊王攘夷派”の荒くれ浪人達がうろつく危険地帯であり、西洋思想家だった事もあって標的となり、同年7月に京で暗殺されてしまうのであった。。
このように江戸時代が平穏な時代となった事もあって、一気に学問の花が大きく開いた日本。その多様な学問を学んで知恵を付けていき、それが弟子に語り継がれて多くの偉人を輩出していく事になる。
そしてその学問を究めた偉人達の働きによって、時代遅れの江戸幕府が滅びていく事に繋がっていく。
こんな旅はまた次回に続きます!
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