高梁市の山田方谷記念館で、借金地獄の藩財政を立て直した偉人を学ぶ【尾道&岡山旅行記53】

尾道(広島)&岡山旅行記2021年3月-53

旅行期間:2021年3月某日(3泊4日旅)

自分にも厳しい人!

高梁市 山田方谷記念館 外観 玄関

前回に引き続き、岡山県高梁市にある「山田方谷記念館」の見学は続きます。江戸時代にこの地を治めていた備中松山藩の大きく傾いた財政を立て直した山田方谷という偉人を学べる資料館となっており、またこの地を訪問した人は必ず訪れるべき場所でもある。

 

 

 

山田方谷記念館の見学!

高梁市 山田方谷記念館 山田方谷 説明パネル資料

1805年頃に生まれた「山田方谷」は、幼い頃から”神童”として知れ渡った程に注目されていた人物で、隣の新見藩の丸川松隠塾に5歳で入学してからも、ひと際目立つ存在だった。本人はそのまま学問を究めたかったのだが、16歳頃に両親が相次いで亡くなった為に、家業を継ぐ事になった。

 

高梁市 山田方谷記念館 山田方谷 説明パネル

しかし家業の合間に諦めきれない学問を勉強する時間を作って、多忙を極めていた山田方谷。そんな折に藩下での教育に力を入れていた藩主の目に留まり、特別に給料が支給され、家業は身内に任せて再び学問(朱子学・陽明学)を学ぶ道に戻る事になった。そして30歳を過ぎて江戸の佐藤一斎塾に入門し、朱子学と対をなす”陽明学”を学ぶ。

 

その佐藤一斎塾の門下生には、同時期に佐久間 象山(さくま しょうざん)という幕末に有名な儒学者・思想家でもあった人物が居た。なお、佐藤一斎塾では山田方谷と佐久間象山が度々それぞれの思想について激論を交わしていたが、その大半は山田方谷が論破していたという。

桃四郎
桃四郎

佐久間象山は勝海舟・吉田松陰・坂本龍馬らを教えた人物としても有名じゃ!

 

高梁市 山田方谷記念館 山田方谷 直筆の書

こちらの書は「盡己(尽己/じんこ)」と師匠の佐藤一斎が書いた物で、江戸で遊学を終えた山田方谷宛に贈られた物だという。『尽己』とは”わが誠心を尽くす”という意味合いがあり、山田方谷は生涯を通じて”誠心”を貫いた。

桃四郎
桃四郎

”誠心”は方谷先生を学ぶ上でのキーワードじゃ!

 

高梁市 山田方谷記念館 山田方谷 説明パネル 資料

そして江戸での修行を終えた山田方谷は帰国し、備中松山藩の藩校「有終館」の学長に迎えられる。そんな山田方谷は更に色んな身分の人でも勉強できるようにと、牛麓舎という私塾を家に開き、全国から佐藤一斎塾の塾頭を務めた彼の名声を聞きつけた人が学びに来たという。

 

高梁市 山田方谷記念館 板倉勝静 肖像画

そして後継ぎ息子の居なかった備中松山藩6代藩主:板倉勝職の婿養子として迎えられたのが、”寛政の改革”でも知られる松平定信の家系である陸奥白河藩:松平家の「板倉 勝静(いたくら かつきよ)であった。板倉勝静は松平定信の孫にあたり、更には徳川吉宗の孫の孫”玄孫(やしゃご)にあたる。

桃四郎
桃四郎

この将軍家の血筋が、後の老中就任に関係してくるのじゃ!

 

高梁市 山田方谷記念館 板倉勝静 肖像画 説明

1842年に婿養子として備中松山藩にやって来た板倉勝静は、当主の座を迎える7年間の間に英才教育が施された。それを指導したのが藩校:有終館の学長でもあった山田方谷で、その教育期間の間に教えられた板倉勝静は山田方谷の類稀な能力を見抜いていたと考えられる。

本来は教える側とはいいながら家臣という立場なので、次期当主に対してはそこまで厳しくしない人が多い中、山田方谷は誠心を持って教育を施した。ある時に徳宗という唐王朝の第12代皇帝の行いを勉強した際に、唐の財政再建を行った徳宗の失敗を教訓として論文にまとめ上げた。するとその論文に山田方谷がサインを入れて、「もし勝静公がこの文章に反する行いをした際には、誠意に欠ける時としてこの書を公に公開する」と告げた。

それに対して板倉勝静は快くその申し出を承諾し、山田方谷も次期当主に相応しい人物として認めた瞬間でもあり、感動したという。ただ、次期当主とはいえ、自らサインしてまでなると、もし自分がその約束を守らないと死が待ち受けているのだが、そんな死をも覚悟した志で自分に向かってきてくれたと感じた板倉勝静は快く受け入れたのであろう。

桃四郎
桃四郎

長年に渡って築かれた信頼関係が当主とあったけぇ、上手う改革げーったんじゃなぁ!

 

高梁市 山田方谷記念館 山田方谷 説明パネル2

そして板倉勝静が1849年に備中松山藩7代藩主を継ぎ、翌1850年1月に”大蔵大臣”並みの重要なポストに山田方谷を任命し、「方谷の意見は私の意見である。方谷に対する悪口は一切許さない!」と皆の前で発言したという。人に全てを任すというのは非常に難しい事であるが、板倉勝静は約7年間の修行の間に山田方谷の人柄を把握して、財政難に苦しむ藩を立て直す最適な人物だと見込んでいたのだろう。

 

高梁市 山田方谷記念館 山田方谷 説明パネル3

まず板倉勝静が1849年に備中松山藩7代藩主に就任した際の備中松山藩の財政は、石高5万石の国に対して借金が10万両もあったという。藩の収入は約3万両しかなく、借金の利息だけで約1万3千両となっていた。しかも石高5万石というのは表向きで、実際には約2万石しかないという事実も判明するのであった。

 

 

高梁市 山田方谷記念館 山田方谷 鎧 資料

普通の人間であればその時点で頭を抱えて悩み続けるのであるが、山田方谷の決断は早かった。「至誠惻怛(しせいそくだつ)(※誠意を尽くして人を思いやる心)と、「市民撫育(しみんぶいく)(※全ては藩士や領民の為に)という精神を掲げ、上下節約負債整理藩札刷新産業振興民政刷新文武奨励軍備増強という財政改革だけではなく、藩政全ての改革に乗り出したのである。

桃四郎
桃四郎

方谷先生の凄かった所は、財政だけではなく、教育と軍備も奨励した事じゃ!

 

まずは【上下節約】として藩士の給料削減や一切の贅沢を禁止、役人への賄賂や贈与を禁止させた。山田家に伝わる家訓や古代中国王朝の歴史にもあったように”贅沢は身を滅ぼす”事を知っていたので、徹底的に贅沢を禁じて、また不正からも綻びが出るので賄賂などは厳しく取り締まり、見つかった場合には厳しく処置をした。

桃四郎
桃四郎

古代中国王朝が滅びた理由を、キッチリ方谷先生は把握していたんじゃ!

 

そして【負債整理】では、主に藩の借金を借りていた大坂商人に備中松山藩の財政事情をそのまま公開し、合わせて綿密に練り上げた負債の返済方法を提示して、借金返済期間の延長を願い出た。これについて表向きは5万石なのに実際には2万石しかないという事実を外部に公開する事に他の家臣は大反発したが、山田方谷は誠意をもって商人に事実を知らせて、逆に信頼を得る事に繋がるのである。

桃四郎
桃四郎

正直に接する事で、逆に信頼を得る事は今でもあるよね!

 

高梁市 山田方谷記念館 藩札

そして備中松山藩ではオリジナルの藩札を発行していたが、借金だらけの藩が発行した藩札だったので、全然信用が無くて逆効果になっていた。その藩札を山田方谷は思い切って全て回収すると宣言し、買い戻した。そしてある程度の藩札が回収できた時点で、その藩札に火をつけて燃やすというパフォーマンスを行った。全ての藩札を燃やすのに半日ほど掛かったとされており、庶民がみんな見物していたという。

桃四郎
桃四郎

紙幣に価値が無くなると、燃やしたくなるのは人間の性分じゃけ!

 

そして燃やすだけではなく、財政改革が進行している中で新たに藩札「永銭」を新規発行すると、財政面で着実に借金が返済されていて備中松山藩の信頼が回復してきた事もあって、他の藩内でも流通する程に人気となった。それにより、新たな財源を確保する事が出来て、より色んな改革に思い切って資金を使えるようになっていった。

桃四郎
桃四郎

歯車が上手い方向に噛み出すと、一気に物事は進むんじゃ!

 

高梁市 山田方谷記念館 山田方谷 至誠惻怛 扁額

こちらの書は、その山田方谷の「至誠惻怛(しせいそくだつ)という、”誠意を尽くして人を思いやる心”という強い志を書いた物である。ちなみにこの書だけは「写真撮影禁止!」となっているのだが、館長が「正面から撮らずに斜めからだと、写真撮っていいよ!」と言ってくれたので、写真に納める事が出来た。

館内でこの「至誠惻怛」の書だけ、写真撮影は禁止されています。今回は館長から特別に斜めから写真を撮影する許可を頂いたので撮影しましたが、今後訪問して撮影したい人は館長からの許可を得た上で撮影されるようお願い申し上げます。

 

高梁市 山田方谷記念館 山田方谷 漢詩

こちらの書は「方谷漢詩」という、63歳の時に老中となっていた板倉勝静の補佐の為に京に上がっていたが、体調不良などの問題もあって帰藩を願い出て受理され、その際に短刀を拝領した時に詠んだ句となっている。山田方谷は長い古代中国の歴史を研究し、約260年続いてきた江戸幕府も終焉の時が迫っている事を実感していたとされる。

桃四郎
桃四郎

地方から反乱が起きる事は、江戸幕府の力が弱まっとった証じゃったね!

 

それもあって藩主の板倉勝静には、再三老中という役を断るように告げたが、板倉勝静は徳川吉宗の玄孫(孫の孫)でもある血筋なので、江戸幕府の重要な役職を断れなかったとされている。そして鳥羽伏見の戦いで板倉勝静は徳川慶喜と共に大坂城に入ったが、徳川慶喜がコッソリと船で逃走する際に同行してしまい、当主が老中首座という立場でもあったので備中松山藩は新政府軍から朝敵とみなされるのであった。

 

高梁市 山田方谷記念館 山田方谷 漢詩資料 教育

この山田方谷記念館内の資料には、山田方谷が行った藩政改革の資料は少なめで、このように方谷の教育者としての面の説明が多かった。個人的には前代未聞の大革命を行った人物の偉業を詳しく説明してくれていたら嬉しかったけど、このように改めて写真を見返すと、その偉業にはあまり触れずに教育関連ばかりでちょっとガッカリした・・・。

 

高梁市 山田方谷記念館 山田方谷 長瀬私塾絵 教育

こちらは明治時代になってから、自宅を増築して塾生を受け入れた私塾の「長瀬塾」を描いた絵。この当時の塾は今のように家から通う場所というよりは住み込みで修業するような場所で、全国に名の知れ渡っていた山田方谷の元には次々に入塾を願って人がやって来ていたという。その為に1棟だけではなく、数棟の建物を増築していたようで、勿論私財から出していたので懐具合は寂しかったという。

 

高梁市 山田方谷記念館 山田方谷 河井継之助 交流

そして山田方谷の行った改革の中でも他の藩と一線を画したのは、”大坂にあった米蔵屋敷を廃止”した事である。当時の米相場というと江戸ではなく、大坂が一番だったので他藩の多くは大坂の中の島周辺に蔵屋敷を借りていた。その思考は、米を米相場の近い場所に倉庫しておけば、相場のタイミングが良い時に売れるから!」というものであった。

桃四郎
桃四郎

思い込みに囚われると、必ず損するんじゃ!

 

しかし、実際には蔵屋敷を借りるのに費用が掛かり、更には米蔵を管理するのに別に藩士を雇う必要があった。ただ実際には米倉庫の管理は藩士が行っていた訳ではなく、大坂の商人に全てが委託されていたのである。そして商人達は米相場を知り尽くしているので、米の値段が安くなった時にその米蔵屋敷から米を買い取り、米の値段が高くなった時に転売して大きな利益を上げていたのである。

桃四郎
桃四郎

大坂商人は藩の為に、利益を献上してくれるなんて事はなかったんじゃ!

 

高梁市 山田方谷記念館 山田方谷 河井継之助 書

では、何故米蔵屋敷を管理するハズの藩士が働かずに、商人達の都合良いように扱われて損をしていたのか?

桃四郎
桃四郎

こりゃ裏に何か、絶対あるなぁ!

 

これは江戸時代に限った話ではなく、現代の会社でも実に多く見受けられる事例である。何故これだけ藩が財政難に苦しんでいるのに、米蔵屋敷の人間は藩の利益をみすみす手放していたのか?

桃四郎
桃四郎

人間の本性が、大きゅう影響していそうだ!

 

その心理として、米蔵屋敷に雇われた藩士にとって、藩のお金は自分の懐に直接入るお金ではないので、増えようが減ろうが問題としなかったからである。会社を経営する立場の人間からすれば、こういった放漫な人間は斬り捨てたくなる程に怒りそうな事だろうが、従業員のサラリーマン側からすれば、米を販売して得た利益を自分のお金と思っていないので、商人から少々の接待を施されるだけで藩の利益を簡単に手放していたのである。

桃四郎
桃四郎

日本人はほんまに接待好きな歴史があるよね!

 

高梁市 山田方谷記念館 山田方谷 小坂部塾跡資料

このようなバカげた行為は現代社会の会社でも日常茶飯事となっていて、会社のお金を自分のお金のように思っていない忠誠心の低い社員ばかりの会社で陥りやすい現象である。

なお、ボクが以前働いていた会社ではそういった社員ばかりで、しかもあってはならない事に社長を含めた経営陣が自ら接待と見返りに会社の金を浪費していたのである。そういう自己を律する理性も厳しさもない人間が経営していた会社は、ボクが入社してから10年以上に渡って毎年赤字経営だったのも納得であった。

桃四郎
桃四郎

慢性的な赤字経営でも、簡単に潰れんのが問題なのかもしれんな!

 

高梁市 山田方谷記念館 山田方谷 閑谷学校資料

そんなボクが入った会社はその会社を大きく成長させた先代社長が死んで、2代目のボンボン社長とそのボンボン兄弟が経営陣にいた為に、余計に会社のモラルが低下して、ちょっとした利益もざるで受けているかの如く、全く会社に残らなかった。

桃四郎
桃四郎

現代は跡取りに厳しい教育を施しとらんのか・・・

 

バブル期にはかなり儲かったそうで赤字経営でもその時代の貯金を食い潰して何とか経営できていたが、しかし最後の方は流石に銀行から金が借りれなくなっていった。そして銀行から資金を融資してもらう為には”売り上げ”が必要と言われ、利益を無視して売り上げを上げる為だけに仕事を取ってくる状態にまで陥ってしまう。そして蓋を開ければ”利益率マイナス50%”という、商品を1つ売るだけで販売価格の50%を損するという考えられない仕事まで受けていたのであった。。

桃四郎
桃四郎

”利益率マイナス50%”たぁ、物を造って渡し、更にお金まで渡しとったという事か?!

潰れかけの会社では、そのような考えられない事がまかり通っているんですよ・・・

桃四郎
桃四郎

そりゃ、全国の藩が赤字だらけじゃったのも理解できるわ!

 

しかもそういった事実も、ある営業担当がチョンボして担当を外されて、その代理としてボクが担当した時に判明したのである。だから、会社で他人に任せるという事も、ちゃんと相手の事を把握しておかないとえらい目に遭うという教訓を得た会社員時代でもあった。

結局赤字だらけの会社は大手企業に買収され、経営陣は持ち株が売れて儲かりましたとさ・・チャンチャン・・orz

 

高梁市 山田方谷記念館 山田方谷 閑谷学校資料1

一応山田方谷記念館で撮影した資料をブログにアップしているものの、文章は山田方谷が成し遂げた改革について記載していく。話は少々逸れてしまったけど、米蔵屋敷を廃止してその管理費の削減に成功した。その代わりに藩内に約40箇所において米蔵を設置し、大坂商人には頼らずに藩が直接米相場を把握して、高値になった時に米を売り捌いたという。

 

この米の扱いを変更するだけで、蔵屋敷の管理費用1000両/年が節約できたという。また米相場を見抜いて米を売り捌いた事により、年間で3000~6000両も利益が出たという。その代わりに藩内に約40箇所の米蔵を設置した費用は掛かったものの、逆に飢饉が起きた際には手元に米が貯蔵されていた為に、備中松山藩では幕末の飢饉の際には餓死者が1人も出なかったとか。

桃四郎
桃四郎

経営の仕方で、こねーに利益が出るんじゃなぁ!

 

高梁市 山田方谷記念館 方谷顕彰碑 拓本 

そして米で大きく稼いだお金で借金をすぐ返すのではなく、そのお金を産業振興に投資していった。この高梁市地区では昔から質の良い鉄や銅が産出しており、その鉱山を藩が直轄運営し、更にはその鉄や銅を加工する工場も高梁市地区に建てていった。

そして高梁市地区で加工された鉄は農機具や釘などを量産し、”備中鍬”と呼ばれる三本歯の鍬を発明し、それをブランド化して全国に売り捌いた。また鉄釘は火事が多かった江戸では、特に重宝されて高値で売れたという。

桃四郎
桃四郎

当時は”備中○○”というブランドが、全国的に知れ渡ってたんじゃ!

 

 

高梁市 山田方谷記念館 方谷顕彰碑 拓本  説明

そして「撫育方」と呼ばれる備中松山藩の専売事業所を立ち上げて、藩の特産品は撫育方が買い上げて一括管理して江戸で販売した。ここで注目に値するのは、普通藩が専売化すると農民や庶民から安く買い叩くのが一般的な所、山田方谷は逆に高値で買い取らせたという。

桃四郎
桃四郎

この専売制も他の藩でも行われたけど、方谷先生は一味違った政策だったんじゃ!

 

”安く”ではなく、敢えて”高く”買い取る事により、農民達のやる気が顕著に増加し、生産性も上がっていった。現代社会の会社では、常識のように業者から仕入れる際には”安く買い叩く”ように指示されるけど、逆に高く買うという発想が全くない事にも驚く。

 

高梁市 山田方谷記念館 方谷顕彰碑 資料

ボクも会社員時代に配属された上司が”安く買い叩く名人”だったので、そういった姿を嫌ほど見ていた。そしてその会社では営業マンは個人商店的な業務をしていたので、自分が業者から仕入れて、それを得意先に買ってもらうのが仕事だった。

だから営業マンとして得意先から「もっと安くできない?!」とか、「もっと安くしてくれないと困る!」と値下げ交渉は毎回の商談に付き物だった。

そして売る側からすれば、努力して商品化した物ほど、安くしてくれと言われる事に腹が立った。自分が頑張って力を籠めて商品化した物を、簡単に安くしてくれという事は、相手が自分の手を掛けた商品の価値を認めていない事でもあったからだ。

そんなイライラするサラリーマン時代を送っていたが、ある仕事で出会った社長は一度見積りで値段を出したら、それから一度も値切る事なく購入してくれたのだ。しかもその社長の案件はスポットではありながら”かなりの金額”だったので、値切られるのに慣れていたサラリーマン人間だったボクは逆に値切らないその社長に驚いたのを今でも思い出す。

桃四郎
桃四郎

そのサラリーマンとは、江戸時代の藩士の事かな?!

 

高梁市 山田方谷記念館 山田方谷 門下生 資料

その仕事が終わって、後々になってその社長と酒を飲んだ席で色々話を聞いていると、その時の仕事の更に得意先である”某大手タレント事務所”のトップから直々に受けた大事な仕事だったそうだ。他にもその仕事を回す業者がありながら、ボクの得意先社長宛に独断で仕事を発注したという。

それには30年以上の長い付き合いがあるらしく、その”某大手タレント事務所”がまだビルの屋上で掘っ立て小屋状態の時からの仕事を続けているという信頼があってこその発注だったという。だからその社長も相見積もりされて他の業者と値段比べに受注した訳では無かったので、利益がそれなりにある仕事だったので値切る事もしなかったようだ。

実はそれ以上に、「値切らないという事は、逆に必ずその仕事をやり遂げてくれ!」という意味合いも籠められていたというのを後で教えてもらったのだ。このメッセージが当時のボクに、雷を落としたかのような衝撃を受けたのを思い出す。

桃四郎
桃四郎

その”某大手タレント事務所”がドコか、気になるんじゃ!(笑)

この社長の座右の銘も「誠心誠意」だったのです!

 

高梁市 山田方谷記念館 魚佩

当時のボクの得意先担当者はみんな会社のサラリーマン購買部担当みたいな人ばかりで、商品を値切る人ばかりだったので、逆に”高く買う”という考えすら持っていなかった。そしてそれ以降はその社長を見習い、商品を仕入れる際にもなるべく値切る事はしなくなって、”高く買う”まではなかなかできなかったけど、”安く買い叩く”事はしないようになった。

桃四郎
桃四郎

桃が安う売っとるだけで、腹が立つのう!

 

何でも自分の立場になって相手の事を考えてみると、毎回商品を納入した後になって値切られるとムカツクだけである。しかし値切らずに、逆に高くても買ってくれるのであれば、その担当者の為にちょっと足が出ても頑張ろうとする気持ちになるのである。

そうしてその社長レベルまではいかないけど、なるべく仕入先からは値切る事はせずにそのまま受け入れるだけで、仕入先担当者からは羨望の眼差しで見られる事になった。それはただ単に”見積もりが通り易い男”という訳ではなく、”商品価値をしっかり認めてくれている男”という認識だったのだ。

会社を辞めてから仕入先担当者と話をしていたら、ボクが値切らずに買ってくれるから、「オマエの仕事だけは何としても諦めずにやり通す気持ちだったよ!」と言ってくれた。これが本心だったか、建前だったかは分からないけど、自分が相手の立場となって、”どうやったら相手の為に、頑張りたくなるか?”という視点に立つと、物事が大きく変わって見える。

特に江戸時代には庶民や農民は勝手に斬り捨ててもいいレベル程に蔑まれた存在だっただけに、その人達のやる気を持ち上げる為に専売事業として”高く買い上げる”という方針にした山田方谷には、感心してしまったのだ。

オカン
オカン

その経験を活かして、早く仕事せ~よ!(怒)

 

高梁市 山田方谷記念館 采配 硯

そうして専売制で高く買い上げた名産品と米は、倉敷に飛び地となっていた玉島港から、これも大坂ではなくて大消費地となっていた江戸まで直接運んで、直に藩が売り捌いていたという。それによって今まで掛かっていた大坂商人の手間賃が削減され、藩に莫大な利益が転がり込む事になる。

更にはそういった利益を公共事業にも積極的に注ぎ込んでいき、道路や河川の整備を行ってインフラを整えた。なお、専売制での買い取りやインフラ工事は備中松山藩の人達にお金が落ちていったので、備中松山藩の内製化として更に拍車をかける程にメリットが大きく増えていった。江戸で外貨を稼いで、そのお金を藩内で循環させる事によって、経済が発展しお金が循環していくという仕組みを上手にコントロールしていたのだ。

桃四郎
桃四郎

マルクスより、いち早く経済論を確立していた方谷先生じゃ!

 

そして山田方谷の凄い所はこのような財政革命で10万両もあった借金をたった8年で返済した訳ではなく、更に10万両を備蓄する程に儲けた事もあるけど、更に藩の人間を身分に関わらず教育に参加できる環境を整えた事と、農民を有事の際には国を守る兵として鍛えて軍備を増強した事である。

上杉鷹山の改革では特産品の開発や質素倹約などの主に財政面ばかりであったが、山田方谷は更に教育と軍備にも力を入れたのである。勿論時代背景や置かれた状況も違うので、簡単に上杉鷹山の改革と比べる方が間違っているとは思うが、それだけ山田方谷の成し遂げた改革を知れば知る程に感嘆してしまうのだ。

桃四郎
桃四郎

鷹山公と方谷先生の討論を見てみたかったね!

 

山田方谷について書かれた書籍類

山田方谷について書かれた書籍類

この山田方谷という人物の行った改革に関しては、これらの資料を読んだばかりとあって、まだまだいくらでも文字数が増えそうな勢いであるが、恐らくこのブログを見ている人との”温度差”がかなりあると思うので、ここはこれで割愛する事に。

オカン
オカン

充分な位に、文章長過ぎるで・・・

桃四郎
桃四郎

方谷先生の生き様を紹介するには、スペースが足らんぞ!

 

高梁市 山田方谷記念館 講習 館長

そして1人山田方谷記念館を見学していると、館長から「他の人達を集めて簡単に案内するので、時間あれば一緒に話を聞いていってください!」と声を掛けられた。ちなみにこの館長は、山田方谷の直系子孫との事。まずは知らないオジサン6人軍団に混ぜられて、用意されたVTRを眺める。

そして館内の説明に移った時に、そろそろ岡山中心部に向かう時間という事もあって、残念ながら退館させてもらった。この時は山田方谷という人間の事を全然理解していなかった時期なので、後腐れもなく帰っていったが、数冊の本を読んで山田方谷の事をいっちょ前に理解した状態だったら、熱く館長と話をしていた事だろう。。

 

 

備中高梁駅へ戻る!

高梁市 街並み 道路歩く

今日はこれから岡山中心部まで行って岡山城を見学してから、大阪まで帰らないといけないので、ゆっくりと山田方谷記念館に滞在する事が出来なかった。しかしこの備中松山城を訪れた事で、江戸時代から現存する天守以上に、凄い偉業を成し遂げた人物を知れたという事が、何よりもの財産となった気がした高梁市であった。

 

高梁市 街並み トマト銀行 建物

そして道を歩いていると、こちらに「トマト🍅銀行」という建物が見えてきた。日本全国を訪れると、その地方ならではの地銀をよく見かけるけど、だいたいはその地方の名前が銀行名に付けられているので判り易いけど、この「トマト🍅銀行」とはどんな銀行かすら、想像できないような名前だった・・・。

 

このトマト銀行は岡山県岡山市に本店があり、岡山で第一地方銀行となる「中国銀行」に次ぐ”第二地方銀行”である。元々は1931年に「倉敷無尽」として創業され、1969年に「山陽相互銀行」と商号変更し、1989年に山陽相互銀行から普通銀行に転換した際に今の「トマト🍅銀行」という商号になったという。

もみじ饅チャン
もみじ饅
チャン

世界中で愛されて庶民に馴染みがある、認知度の高いトマトが採用されたけ!

桃四郎
桃四郎

トマトではなく、岡山だけにモモ🍑にしとけよ!(怒)

 

高梁市 パネル 駅前 ようこそ

そんなこんなで何も知らなかった備中高梁の町と城跡などを散策し終えて、備中高梁駅まで戻ってきた。

ただ単に江戸時代から現存する天守閣の建物を見たかった為に訪れただけなのに、地方を悩ませる”ツタヤ図書館問題”や、上司が老中首座にまで採用される程に藩政改革の功績が認められる事になった立役者の「山田方谷」なる存在などを知れたというお土産をたっぷりを得れた高梁市だった。

 

こんな旅はまた次回に続きます!

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2021年3月に訪れた尾道(広島)&岡山の旅行記。青春18キップを握りしめて広島県に向かい、山陽新幹線沿いに見えてきたお城跡「福山城」に早々寄り道をするのであった。。
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