尾道(広島)&岡山旅行記2021年3月-54
旅行期間:2021年3月某日(3泊4日旅)
岡山は大都市!
さて岡山県でも山手にあった備中松山城の見学を終えて、これから岡山市内に向かう為にJR伯備線の電車に乗り込みます。
備中高梁駅から岡山駅までは、JRで約1時間の距離。ただ岡山駅~~出雲市駅間を走る特急列車「やくも」に乗ると、36分ほど到着できるけど、その代わりに特急料金は自由席で+760円となっている。この備中高梁駅~岡山駅区間の乗車料金自体は860円なので、倍ほど払えば移動時間を半分ほどに短縮する事が可能となっている。
岡山駅に到着!
なお今回の旅は”青春18キップ”を活用しての旅だったので特急列車は使用せず、約1時間揺られて岡山駅に到着する。岡山には10年程前に一度来た事があるけど、それ以来だったのでとりあえず岡山駅の大きさにビックリした。約72万人の人口を抱える岡山市の中心部にある大きな駅で、山陽本線の始発的駅という事もあって、立派な駅舎となっていた。
そして岡山駅の玄関付近には、このように郵便ポストの上に寝っ転がった桃太郎の姿を早速見る事が出来る。『桃太郎』というと日本人なら誰でも知っている”おとぎ話”であるが、実際に存在したという確証は無いながらも、この岡山県がその”桃太郎ゆかりの地”競争に勝った為に、県を挙げてのPR活動が行われている。
そして新幹線も停まる大きな岡山駅だけあって、駅前広場には沢山の人が群がっているのが見える。今回の旅では尾道駅や備中高梁駅など、そこまで人口が大きくない町ばかりを訪れた後だっただけに、余計にこの岡山が大都市に思えてしまったのである。
という事で駅前に見つけたのは、鳩が周囲に屯っていた「桃太郎」の銅像。この銅像は1971年に岡山市出身の彫刻家「岡本 錦朋(きんぽう)」が製作した物。桃太郎というと犬・猿・キジという仲間を連れて鬼退治に向かったとされているが、この銅像を見ている限りは、「それ以外にも数羽の鳩を従えて・・・」という雰囲気だった。
イメージ的に、鳩は戦いに向かないと思って断ったんじゃ!
そして岡山駅前から、東側に延びるメインストリート「桃太郎大通り」を進んで、今回の旅の最終チェックポイントである岡山城へと歩いて向かいます。大阪に住んでいる人間からすれば、「関西より西側は田舎ばかり」という考えがあったので、この岡山市内の都会っぷりを見て、まだ驚いていた。
「桃太郎大通り」を進んでいくと、短い橋が見えてきて、その欄干には桃太郎お馴染みの動物の銅像が乗っかっているのが見えてくる。実際に桃太郎が存在した人物で、岡山出身だという確証が無い割には、「桃太郎は岡山県のものだぜ!」という気持ちが滲み出る程にアピールしているように感じた岡山県。
『桃太郎』の商標登録、取っときゃあよかった・・・
でも全国的に有名な”おとぎ話”の地という事をアピールできるだけで、宣伝効果が大きく変わるのだろう。確かに岡山県も桃太郎にかなり依存していて、桃太郎が消えてしまうと、「桃」ぐらいしか残らないのかもしれない。。
簡単に桃太郎は消えんよ!
犬は昔から人間にとっては番犬的な存在という事もあって、日常的に可愛がられていた。また江戸時代も第5代将軍:徳川綱吉の時代に『生類憐れみの令』が発令され、江戸の街中で一気に犬の個体数が増えてしまったという。ただそれだけ犬は人間に利用されてきた存在であり、人間側のモラルが低下する程に犬は不幸になっていくという事でもある。
こちらは岡山市内のデザインマンホールで、こちらにも岡山県が勝ち取った桃太郎のイラストが使用されている。こちらのデザインは桃太郎が消防士のように消火活動を行っている姿が描かれているが、残念ながらお供の猿や犬などの姿は見られない。。
そして桃太郎大通りを東に沿って進んで行くと、岡山市を縦断するかのように流れる一級河川「旭川(あさひがわ)」が見えてくる。そしてこの旭川に沿って進んで行った先の方に、大きな城郭が見えてくる。
岡山城にて
そして約10年振りに訪れた岡山城の天守閣が見えてくる。この岡山城も徳川方の池田家が送り込まれて、西国を監視する場所として、姫路城並みの大きな城郭が築かれる事になる。ただ姫路城と違って、残念なことに太平洋戦争時の空襲によって天守閣は焼失してしまっており、今見られる天守閣は戦後に再建された物となっている。
住所:岡山県岡山市北区丸の内2-3-1
営業時間:9時~17時頃
電話番号:086-225-2096
入館料:大人320円/小中学生130円(訪問時)
※天守閣は2022年11月にリニューアルオープン済
この岡山城は豊臣秀吉が天下を制覇した際に”五大老”の1人として重臣となっていた「宇喜多 秀家(うきた ひでいえ)」が、この地に新しい城を築いたとされる。しかし豊臣秀吉の死後は天下を狙った徳川家康と敵対し、天下分け目の合戦である「関ヶ原の戦い」では西軍に加担した為に、天下を手中にした徳川家康から宇喜多家は改易処分となってしまった。
そして宇喜多家の代わりに移封されてきたのは、”関ヶ原の戦い”で最も有名になった武将「小早川 秀秋(こばやかわ ひであき)」であった。”関ヶ原の戦い”の歴史をちょっとカジった事のある人からすれば、この「小早川秀秋」の名前を聞くと、「おっ、あの西軍から寝返った奴だな!」という反応をする人が多いだろう。
「小早川秀秋」は豊臣秀吉の正室だった「ねね(高台院)」の兄にあたる、木下家定の五男として生まれた。幼少の頃に豊臣秀吉の養子となり、7歳には早くも丹波亀山城10万石を与えられる。秀吉の後継者候補として7歳から全国の大名から接待攻勢を受ける程だったというが、1593年に秀吉に実子の豊臣秀頼が誕生した為に潮目が変わってしまう。
秀吉の後継者候補から早々に外されてしまい、三原を治めていた小早川隆景の養子として迎えられる。そして小早川隆景が亡くなって家督を継ぎ、関ヶ原の戦いでは毛利家も参戦した西軍に加わった。しかし、戦いの最中に西軍を裏切り、東軍に寝返ってしまう。この場面は関ヶ原の戦いでも有名なターニングポイントとされていて、小早川秀秋は後世にも続く”裏切り者”というレッテルが張られてしまった瞬間でもあった。
岡山城の手前に設置されていた銅像の人物は、「笠井 信一」という1914年6月に岡山県知事に就任した人物。この笠井 信一の尽力により、現在の民生委員制度が出来上がった為に、1958年に”民生委員制度創設40周年記念”の記念事業としてこの銅像が設置されたようだ。
こちらの門は「廊下門」という、下側は門でありながら上部分は城主が使う廊下となっていた門。ただこの廊下門は見た目の綺麗さからも分かるように、戦後に鉄筋コンクリート造りの建造物として復元された物。
そして岡山城を任された小早川秀秋だったが、幼い頃から接待攻勢によるアルコール依存症となっていた事もあって、21歳で早死にしてしまい、子供も居なかった為に小早川家は改易となってしまった。そして岡山の地は徳川家康の娘を貰って大出世した池田輝政の次男で、その徳川家康の娘「督姫(とくひめ)」が産んだ次男の「池田 忠継(いけだ ただつぐ)」がわずか5歳で任されて、備前岡山藩:初代藩主となったのである。
天下人と血縁関係を結ぶだけで、でーれー効果があったんじゃなぁ!
徳川家康の外孫になる池田忠継は幼くして岡山を任されたが、勿論藩を統制する能力もなく、異母兄の池田利隆が執政として取り仕切った。そして池田忠継は”大阪冬の陣”にも参戦するが、その翌年に僅か17歳にして死んでしまう。
その池田忠継は若かった為に子供を残さずに死去してしまったので、代わりに同母弟の「池田 忠雄(いけだ ただかつ)」(※同じく徳川家康の外孫)が岡山藩を引き継いだ。なお、池田忠雄は淡路洲6万石を与えられていたが、岡山藩を継ぐ際に洲本藩は廃藩となり、淡路国は阿波藩(徳島藩)を治めていた蜂須賀家に与えられる事になった。
廊下門を通り抜けて階段を登っていくと、「表書院/中段」とも呼ばれる本丸内に到着する。ここは天守閣のある上段から一段下がった場所で、かつては5つの櫓が建っていた場所だが、今では江戸時代から現存する月見櫓しか見られなくなってしまっている。
その中央付近には、宇喜多秀家時代の石垣跡が見られる場所が用意されている。1993年の発掘調査で見つかった石垣で、宇喜多秀家が築かせた岡山城の土台の上に、小早川秀秋が新たに拡張させたという証である。
大阪城も江戸時代に再建された城の下に、豊臣秀吉時代の石垣跡が発見されているが、どうせ城を新たに造るのであればその石垣などを流用した方が工期も費用もメリットが出るように思ってしまう。しかし、この江戸時代は前の時代の支配者の存在を消し去る為にも、このように以前の城の痕跡を埋めてしまって、その上に新たに城を築いたのだろう。
こちらが「月見櫓(つきみやぐら)」で、本丸内では唯一江戸時代から現存する建物である。なお、岡山城下としては、西の丸にあった「西丸西手櫓」も江戸時代から残っている建物で、たった2つしか現存していない。空襲の際にこの本丸の天守などが焼失してしまった事を考えると、この月見櫓が焼けずに残っただけでも奇跡的に思えてしまう。
この「月見櫓」は池田忠雄が城主となった1620年代に建造されたと考えられており、長野県の松本城にも同じ月見櫓という建物があったけど、どちらかというと城の防御力を高める為の建物というよりは、偉いさんがここから月見をして楽しむ場所だったようだ。
岡山城は外様大名でありながら、徳川家康の外孫の家系という事で大きな力を得た池田家。一時は池田輝政が播磨52万石の姫路藩主、その息子で家康の外孫にあたる池田忠継が備前28万石の岡山藩主、輝政の三男である池田忠雄(こちらも家康の外孫)に淡路一国6万3千石の洲本藩主と池田家で大きな勢力を誇っていた。
しかし大きな勢力となればなる程に、その管理が難しくなってくる。しかも徐々に時間を掛けて大きくなった勢力ではなく、家康の孫というだけで若年で藩主に抜擢された事もあって、家臣団で揉め事が多発して、それが原因で改易となってしまった者も出てきてしまう。
大きな勢力を束ねるにゃあ、それなりの力がねえと難しいんじゃ!
そしてこの中段から藩主の住居や天守があった本段までの間には、「不明門(あかずもん)」という立派な門が待ち受けている。この不明門は明治時代の廃城令の後に取り壊されてしまった門で、戦後の1966年に鉄筋コンクリート造りで再建されている。
鉄筋コンクリート造りの門ではあるものの、なるべく江戸時代の建造物の雰囲気を醸し出す為に、このように木造チックな外観となっていた不明門。もし何も説明がなければ、「不明門(あかずもん)」ではなく「ふめいもん」と呼んでいただろう。。
そして本丸でも一番内側の本段に上がってくると、まず見えてきたのが「旧天守の礎石」。昔の建造物はこのように地面に柱を支える礎石が埋められていた。旧天守が戦争中に空襲によって焼失してしまった為に、意味を成さなくなってしまった礎石だけど、かつての面影を残す為にこの場所に移設され保存されているようだ。
そしてこちらが岡山城の天守閣で、1966年に鉄筋コンクリート造りで再建された建物となっている。外観は旧天守とほぼそっくりに再現したというが、備中松山城という江戸時代から現存する木造建築物の天守を見た後だけに、ちょっと味気ない天守に見えてしまったが・・・。
現存天守と比べちゃおえんじゃ!
こんな旅はまた次回に続きます!
よければ下記ブログ村のボタンをポチッとお願いします!
↓↓↓↓尾道&岡山旅行記:初回↓↓