広島県立歴史博物館で漢詩の達人だった菅茶山を学んで、タコの街:三原駅に向かう【尾道&岡山旅行記④】

尾道(広島)&岡山旅行記2021年3月-④

旅行期間:2021年3月某日(3泊4日旅)

漢詩の達人!

「広島県立歴史博物館」の外観全体

広島県の東側にある福山市。ここはかつて江戸時代に備後福山藩の居城:福山城があった場所で、その本丸の西側の三の丸跡にこちらの「広島県立歴史博物館」が建造されている。

 

【広島県立歴史博物館】

住所:広島県福山市西町2-4-1
営業時間:9時~17時頃(※定休日:月曜日)
電話番号:084-931-2513
入館料:大人290円/大学生210円/高校以下 無料

 

 

 

「広島県立歴史博物館」見学の続き!

この広島県立歴史博物館では、主に2階部分に展示室が用意されている。その中でこちらの「近世文化展示室」という、写真撮影が可能なブースに足を踏み入れていく事にした。

 

なお、この展示室のテーマが『菅茶山の世界観』となっていて、医者を目指して儒学を学び、そして漢詩の達人ともなった「菅 茶山(かん ちゃざん)に焦点を当てたブースになっていた。

 

広島県立歴史博物館 菅茶山 肖像画

こちらの肖像画の人物が、その「菅 茶山」である。江戸時代中期の1748年頃にこの福山市の神辺町周辺で、酒屋と農業を営む家に生まれる。この家の苗字は「菅波(すがなみ)という訓読みの名前だったが、儒学を学んだ菅茶山は当時の儒学者が名前を中国風の1文字にしていた事もあって、それに習って「菅(すが)」ではなく「菅(かん)」と名乗ったという。

もみじ饅チャン
もみじ饅
チャン

ちなみに菅茶山の本名は、「菅波 晋帥(ときのり)」だったそうだよ!

 

広島県立歴史博物館 菅茶山 肖像画 アップ

菅茶山は幼い頃から病弱だった事もあって、医学の道を志すようになる。当時の医学は主に中国大陸から渡ってきた書物を参考にした事もあって、医学を学ぶ事が漢文(古代中国の文語体)を学ぶ事に直結していた。その為に当時の医者は殆どが漢文を習得した儒学者となっていて、徳川吉宗が西洋からの書物の輸入解禁を行う前は、医学というと古代中国の世界だったようだ。

 

この菅茶山の肖像画は「蠣崎 波響(かきざき はきょう)という、松前藩12代藩主の松前資広の五男として生まれた人物が師匠だった「高橋波藍」という松前藩士が描いた作品。

蠣崎波響は幼い頃より絵を描くのが得意だったらしく、五男という事で松前藩の跡取りになる可能性も無かった為に、円山応挙や菅茶山などの当時としては一流の文化人と交流を持ったようだ。菅茶山は当時としては”漢詩の達人”として国内でとても有名だった事もあり、その蠣崎波響の弟子がこの肖像画を製作したようだ。

 

広島県立歴史博物館 松平定信 肖像画

こちらの肖像画の人物は「松平 定信(まつだいら さだのぶ)で、白河藩の第3代藩主から当時の老中:田沼 意次(たぬま おきつぐ)の後任として、老中首座に就任した。なお、この松平定信は”暴れん坊将軍”としても有名な、江戸幕府第8代将軍:徳川吉宗の孫でもある。徳川吉宗の子孫として派生した御三卿の、田安徳川家の祖である「徳川(田安)宗武」の七男として生まれたのである。

徳川ヨシオ
徳川ヨシオ

ワシが死んだ後に生まれてるから、会った事がないんじゃ・・・

 

松平定信の残した『座右の銘』の書

こちらの書は、その松平定信が書いた漢詩による『座右の銘』となっている。松平定信は田安徳川家から、徳川家康の異父弟系血縁である久松松平家の陸奥白河藩第2代藩主:松平定邦に養子入りしたのである。そして後に陸奥国白河藩の第3代藩主に就任し、1783年頃に発生した”天明の大飢饉”を上手く収め、その手腕が認められて江戸幕府の老中に就任する事になる。

 

そして松平定信は老中として、祖父である徳川吉宗の行った”享保の改革”を参考にして、後に”江戸時代の三大改革”とも称される寛政(かんせい)の改革を主導した人物でもある。しかし、老中に就任したものの、当時は天明の大飢饉のダメージを受けた江戸幕府の財政が徳川吉宗時代の1/3以下に減っており、またその財源が赤字になる見通しだったので、重要な判断が求められる時代であった。

 

 

松平定信の残した『座右の銘』

その中で松平定信はまず飢饉で米不足に困る農民などの救済策を掲げ、また飢饉により人口減少を回復させる為に児童手当を支給し、人口増加を図った。そして幕府の質素倹約にも努めて、また年貢を徴収する役人の不正を徹底的に追求し、荒廃した農村が再び繁栄するような施策を行った。

 

松平定信の残した『座右の銘』 現代語訳

そんな松平定信の残した『座右の銘』に書かれた内容を見ていくと、

・他人の欠点をあげつらってはならぬし、自分の長所を述べたててはならぬ。
・人に与えた恩恵は心に留めてはならないが、他人から受けた恩恵は忘れてはならない。
・世の評判は気にかける程のものではない。
・精神を平静にしてから行動する。
・口は禍の元、腹八合は医者いらず。

など、現代にも通用する内容ばかりとなっていたのに驚く。江戸時代中期に生きた松平定信の残した『座右の銘』に従って生きるだけで、真っ当な人間として生きれる教訓ばかりである。。

徳川ヨシオ
徳川ヨシオ

さすが、ワシの孫だね!

 

白川候 住吉社参図 広島県立歴史博物館

こちらは「白川候 住吉社参図」という、1788年に禁裏造営御用掛になった松平定信が、京都大火によって焼失した禁裏の造営をした頃に、住吉大社を訪れた様子を描いた物。この頃には松平定信は老中筆頭になっており、寛政の改革を主導しながらも、大坂までわざわざ足を運んでいたようだ。

 

広島県立歴史博物館 館内

メインの展示室が写真撮影禁止という事もあって、今回のこの広島県立歴史博物館の見学はこれで終了。大きな建物の博物館だっただけに、もう少し見学の時間が要するかと思っていただけに、ちょっと拍子抜けだった。ただ松平定信の素晴らしい『座右の銘』が見れただけでも、博物館見学の価値があったと感じる。

 

こちらは博物館のある三の丸跡から、福山城天守閣方向を眺めた写真。福山駅にやって来るまでは、この福山城の歴史など全然知らなかったけど、意外といい勉強が出来た。海外に目が向いていた頃と比べると、当時は日本国内の歴史を軽視していたけど、実際に日本全国各地の歴史を調べてみると、自分達:日本人のルーツが分かって非常に面白く感じる。

 

ちなみに先程『座右の銘』を見た松平定信はこの備後福山藩とは関りはなかったけど、儒学者で漢詩の達人でもあった菅茶山と交流を重ねていた縁もあって、この「広島県立歴史博物館」にその書が保存されていたのかもしれない。

 

過去の財政難に苦しんだ江戸幕府が徳川吉宗や松平定信の行った財政改革により、質素倹約や今までの慣例を取り壊して、将来を見据えた改革を行った。しかし今の日本国は少子高齢化で大規模な金融緩和を行っても国内GDPが増えずに、若者が働いて稼いだお金がお年寄りの医療と介護費用にその大半が使われているので、国として衰退途上にある。

 

もう少し危機的な状況に日本が陥らないと、日本国内でも本気の改革が行われる事がないだろう。しかし日銀が政府の小会社化されて、無制限に国債を買い入れるという愚策を平気で行う日本に、明るい時代が訪れるようには思えないのであるが・・・。

 

JR福山駅周辺にて

JR三原駅 外観

さて、それはともかくJR福山駅に戻ってきた。福山城は駅の北側に拡がっているのだが、そのまま駅を通り越して福山駅の南側がどうなっているかを観察しに南口までやって来た。駅前には大きな空き地が見られたが、ここは1976年頃に建てられた商業施設『キャスパ』があった跡地で、2024年頃にこの地に大きなビルが3棟建造予定となっている。

 

 

JR三原駅 周辺

駅前ロータリーの近くには、「天満屋:福山店」という大きな百貨店の建物が見えている。この「天満屋」は岡山県に本社のある百貨店で、この福山店は広島県で最初に出店した店舗。なお、「天満屋」は大手百貨店や鉄道系列の百貨店を除いた”地場独立系”で、日本イチの売上高を誇っている(2020年度の売上)。

 

 

JR三原駅 デザインマンホール

こちらはご当地デザインマンホールでも珍しい、写真のデザインとなっているマンホール。2016年に”福山市:市制施行100周年”を記念した事業の一環で、このようなカラー印刷されたマンホールが設置されたのだろう。

 

 

JR三原駅 近く 像 五浦釣人像

そして福山駅南口の脇には、このように細くて長い竿を手に持った「五浦釣人」という人物の像が設置されていた。この像は福山市民にとっては”待ち合わせスポット”としてみんなが知っている程に有名な像らしいが、昭和50年(1975年)に山陽新幹線の開通とこの福山駅の駅舎完成を記念して設置された物だという。

 

JR三原駅 近く 像 五浦釣人像 説明

この銅像の作者は「平櫛 田中(ひらぐし でんちゅう)という、ここ福山市の名誉市民でもある彫刻家。この平櫛 田中が師と仰いでいたのが、東京藝術大学の設立にも貢献し、近代日本における美術史学研究の第一人者でもあった「岡倉 天心(おかくら てんしん)である。岡倉天心というと、下村観山や横山大観などに日本画を指導した人間としても有名である。

 

JR三原駅 近く 像 五浦釣人像

こちらの「五浦釣人」の像は、その岡倉天心が”関東の松島”とも呼ばれる茨城県の五浦に晩年住んだ際に、釣りに出掛ける時に撮影された写真をモチーフに制作された作品。なお、この銅像の作者:平櫛 田中は1872年2月生まれ~1979年12月没で、満107歳という当時としては日本で一番の長寿だった男性のようだ。

 

もみじ饅チャン
もみじ饅
チャン

この長い竿は、過去に何回か折られる事件が発生しているよ!

 

と言う事で福山城のある北側ばかりに観光客は行きがちだけど、南側はそれなりに発展している場所となっていた。この訪問時は駅前の大きな空き地は更地になっていたけど、次に福山駅を訪れる際には大きな建物が乱立する景色となっている事だろう。。

 

 

「JR三原駅」に到着!

そして福山駅から次に向かったのが、こちらの「JR三原駅」。今回の旅の目的地は一応尾道なのであるが、この三原駅は尾道駅よりも西の方にある。というのも、今回の旅は”青春18キップ”を活用しての移動だったので、わざわざ尾道駅を通り越してまで三原駅にやって来たという訳であった。

 

このように尾道駅はさっきの福山駅と三原駅の、ちょうど真ん中付近にある。今回の旅で使った”青春18キップ”は新幹線に乗れないので、山陽本線の列車に乗って尾道を一旦通り越して、この三原駅までやって来たのである。

 

わざわざ三原駅までやって来たのは、この駅の周辺にある「三原城跡」を見学する為である。普通に旅をしていたら立ち寄る事がまず無かった三原駅だけど、”青春18キップ”を使う旅だったので、出来るだけキップの元を取る為に寄り道出来る所を探していた為に三原に寄ったのである。

 

JR三原駅 タコ

そして三原駅から三原城跡の天守台に向かう通路の脇には、こちらのタコの置物が置かれているのが見える。ここ広島県三原市はマダコの名産地として昔から有名な場所で、瀬戸内海の中でも小島が密集している三原では、かつ水が綺麗で餌になるカニやエビなどが豊富な為に、タコが昔から沢山獲れるという。

 

JR三原駅 ラッキー神社

その脇にはこのような「ラッキー神社」という、有難みの感じない小さな神社が見える。受験シーズンには三原市にある瀧宮神社で祈願された紙製絵馬「置くとパス」が無料配布されるそうだ。

 

 

このJR三原駅は全国の駅の中でも珍しい、城跡の本丸部分近くを線路が突き抜ける場所でもある。かつてこの場所には「三原城」という城が存在し、江戸時代には紀州藩から移封されてきた浅野家の家老が城主となり、広島藩の支城となっていた。

 

そんな三原城の歴史を遡ると、こちらにある肖像画の人物「小早川 隆景(こばやかわ たかかげ)が大きく影響を与えている。小早川隆景は戦国時代に有名だった毛利元就の三男として生まれ、豊臣秀吉配下時代にはその活躍から大きく信頼されて、徳川家康や前田利家などと共に五大老にも選ばれた人物でもある。

 

その三原駅の脇に残っている三原城の天守台跡に向かうには、駅から出るのではなく、駅構内の専用通路を進んで行く必要がある。この三原城天守台跡の見学は無料となっているが、その天守台跡への通路がJR駅構内にある為に、見学時間はJRが営業している6時30分~22時までとなっている。

 

JR三原駅 天守台跡に通じる階段

城跡の見学ってそれなりの入場料を課している場所もあるけど、ここ三原城跡は特に入場料が不要な為に、そこまで期待するような場所でもないのだろうと予測する。もう少し予算があれば、天守台に繋がる階段などに三原城のペイントなどを施したいのだろうが。。

 

JR三原駅 天守台跡に通じる階段

階段を上に登ると、このようにドアが開いていて、ここから自由に三原城の天守台跡に立ち入れるようになっていた。このような三原城の見学をする事が出来たのも青春18キップのおかげであったが、色んな寄り道が出来る楽しさを感じた旅でもあった。

 

こんな旅はまた次回に続きます!

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