尾道(広島)&岡山旅行記2021年3月-㊽
旅行期間:2021年3月某日(3泊4日旅)
ちょっとした資料館!
ここは標高約430mの地点に造られている山城でも、江戸時代からの天守閣が残る「備中松山城」。天気はあいにくの曇り模様ですが、天守の建造物は天気にも左右される事なく、じ~っとこの場所に鎮座している姿が見られる。
備中松山城の天守内にて
そして天守への入城料:500円を支払って、天守の建物に入っていきます。昭和時代に再建された天守閣の建物は、内部は土足で入れる所が多いけど、江戸時代から現存する天守閣の建物はこのように土足厳禁な場所が多いように思う。
城によっては袋を渡されて内部を見学中に靴を持ち歩く所もあれば、このように靴置き場が設置されている所もある。個人的には見学中に靴を持って移動するのが面倒なのでこのような靴置き場があった方が嬉しいが、靴置き場の場合は置いた靴が盗まれたり間違って履いていかれたりというトラブルも発生するので、判断は難しい所。。
じゃけぇ旅行先にゃあ新品の靴は、履いて行かん方がええんじゃ!
天守内に入ったものだと思っていたけど、この場所は天守ではなくて「接続(つなぎ)廊下」という、脇にあった「八の櫓」から繋がっていた廊下部分だった。昔の備中松山城の天守は連立式天守として、「八の櫓」と廊下で繋がっていて、そこから行き来していた。しかし、戦前に老朽化が激しく修理が困難な事から、その「八の櫓」は破棄されてしまったという。
今見える姿が、昔のままという訳じゃねえんじゃよ!
天守といっても国内に現存する天守閣12個の形や内装は、それぞれに異なって全く同じ物は存在していない。その城を居城とした大名の力や石高、またその土地の特性や江戸幕府との関係性など、多様な条件の下で様々な天守が建造されていた。
こちらは他の城でもよく目にする「石落とし」の穴。籠城戦の場合には目前に迫ってきた敵兵に向けて、ここから石を落として撃退するつもりだったというのが、いかにも昔らしい戦いだった事が伺える。今みたいに鉄砲や大砲なども存在していなかった時代には、刀と弓以外に石も活用していたのだ。
江戸時代に造られた全国の城はそれまでの戦であれば、多少は凌げる構造となっていたが、幕末~明治初期になると海外から最新兵器が次々に導入された為に、今までのこのような手の込んだ攻城戦の防御機能があまり役に立たなくなってしまった。戊辰戦争では海外の新兵器をいち早く導入した新政府軍は、会津若松城を遠くから大砲で狙撃した為に、あっさりと城が陥落してしまった。
そのように江戸時代には要塞と化していた天守閣であったが、海外から大砲などが入ってきた明治時代にはそこまで役に立たない建造物と成り果ててしまった。そのように時代遅れになった城という風潮もあって、廃城令が全国に出されて、多くの城が取り壊されていくのであった。
しかし全国で役立たずとして葬り去られた城という建造物だけど、今となってはその昔のままの姿を残しているだけで、逆に貴重な存在に変わっている。時代とは何とも不合理なもので、邪魔だと斬り捨てたかと思えば、時を経ると逆に貴重な存在として手厚く保護したりと、如何にも人間らしい世界である。
こちらに置かれていた木材はこの備中松山城の天守に使われていた「唐破風板」という、屋根の芯材として江戸時代に建造された当時から城を支えていたパーツだという。ただ、木造建築物も何百年と持つイメージがあるけど、使われている木材のパーツも痛みが早かったり、腐ったりしてしまった場合には、新しい木材に交換する必要がある。
これらの木材は江戸時代から使われてきたが、戦前の大改修の際に取り替えられた物だそうだ。江戸時代から約250年ほどの間、この備中松山城の天守を支えてきた大事な木材である。
こちらは天守の1階部分の内観で、このように柱だらけの部屋となっている。そして解体して大きく補修はされているが、昔の木造建築物として保存する為に、昔のままの技法を継承して補修されているので違和感を全然感じない。
こちらのパーツは「蕪懸魚(かぶらげぎょ)」という、天守の上層に取り付けられていた装飾品。左右で一対になっていたパーツで、こちらも江戸時代創建時に取り付けられていたパーツが、平成の修理時にお役御免となって、ここで保管されている。
このように今目の前には綺麗な天守の姿をしているけど、それはこの城を修復しようと立ち上がった人達の汗と苦労の結晶でもある。明治時代に出された廃城令の後に放置され続け、大正時代には荒れ果てて廃墟となっていたなど、今のこの備中松山城の天守を見ている限りは想像できない。
こちらの写真は、備中松山城の天守が戦前に解体修理が行われる前に撮影されたもので、漆喰が剥がれたり瓦が落ちていたりと無残な姿が見られる。また天守の周辺には放置され続けた為に、雑草から木が生えてきて周囲を覆い尽くしていた姿も見られる。
そんな無残な備中松山城を再生させたのは、高梁市に赴任してきた中学の教員であった。その教員は備中松山城に興味を抱き、その様子を資料にまとめて発表すると、それが注目されて備中松山城の修復に動き出すのであった。もし、この中学教員が備中松山城に興味を抱かなかったら、城の修理はもっと遅れたものになっていた可能性が高い。
昭和14年(1939年)に備中松山城の天守が解体されて、大幅な補修工事が実施された。標高430mの山城だけに、当時はろくな機材もなく、本丸へは全て人力で木材が運搬されたという。その為に、新たに使う木材はこの臥牛山から調達して、少しでも労力を削る工夫も行われた。
この城のある臥牛山から木材を調達したとはいいながら、城のある本丸までは全て人力で運ばれたというのは、今では考えられない事でもある。このような工事が成し遂げられたのも、その時代らしさが生きたのであろう。
こちらの写真は女学生が城の屋根に使う瓦をそれぞれが担いで、城へと向かっている姿である。女学生や周辺の小学生・中学生も動員され、約2万枚もの瓦が運ばれたという。こういった行為も現代では”児童虐待”とか”肉体酷使”という言葉で簡単に反対されるのであろうが、1つの目標にウンもスンもなく動員されていた戦前らしいエピソードである。
このように建築の職人だけではなく、高梁市全体が協力して、再興された備中松山城。それだけに地元にある城でも、自分達で守っているという自負も強そうな感じもする。こういった一般市民も改修工事に参加する事で、より自治体も一体化して高梁市の象徴的な備中松山城となったのだろう。
こちらには「大政奉還と備中松山藩」と題した、江戸時代末期の動乱の時期に、この備中松山藩がどういう道を辿ったのかがパネルに説明されている。その時のキーマンはパネルの右下に写っている2人、1人目は藩主だった「板倉 勝静(いたくら かつきよ)」で、もう1人は藩主以上に存在感が世間に知れ渡っていた「山田 方谷(ほうこく)」である。
その後、日本国内は新政府軍と旧幕府軍に二分し、備中松山藩は当主:板倉勝静が老中首座という江戸幕府の中枢の役職に就いていた事もあって、新政府軍から”朝敵”として攻められる事になる。そして板倉勝静は鳥羽伏見の戦いで、大坂城に籠城するハズだった徳川慶喜が城を脱出する際に同行し、江戸城まで戻っていってしまう。
その間に”朝敵”と認定された備中松山藩は、新政府軍の岡山藩から攻め込まれる。なお、備中松山藩は山田方谷が藩政を立て直した際に、軍備も増強して軍事力を高めていた為に、新政府軍と戦う用意はあったものの、山田方谷自身が江戸幕府はもう既に終わりを迎えている事を悟っていた為に、抵抗せずに無血開城を行った。
こちらは戦前に備中松山城の天守で解体修理が行われた際に、その工事を記念した「棟札」。そして脇には”皇紀二千六白年”という表記も見られる。これは初代天皇である神武天皇が即位したとされる年を紀元とした年号の一種で、『神武天皇即位紀元』とも呼ばれている。
今では「紀元」というとキリストが生まれた西暦が一般的だが、戦前頃は初代天皇が生まれた紀元が一般的だったようだ。
「皇紀」は西暦より660年前の事じゃなぁ!
この『神武天皇即位紀元』は、特に昭和前半の戦前日本時代に多く使われたらしく、西洋式な年号ではなく、日本を中心として世界に領土を拡げようとした日本帝国の影が感じられる。
あまり広くはない天守閣内は、このように柱だらけとなっている。江戸時代からの現存する天守閣の建物ではありながら、木材が朽ちたりしていた箇所は全て取り替えられているので、そういった意味では”新生天守”とでも言えるのかもしれない。
上手に扱えば長持ちする木材も、条件が悪い中に放置され続けると朽ちるのが早くなってしまう。昔の日本家屋も定期的に空気の入れ替えをしていれば長く持つけど、家の主が居なくなって部屋が閉ざされたままになると、意外と早く痛みなどが出てきて老朽化しやすい。
そして天守は藩主が常に滞在する場所ではなかったけど、このような囲炉裡が特別に造られていた。万が一この天守に籠城した場合を想定して造られた囲炉裡だけど、天守にこのような囲炉裡が設置されているのは非常に珍しいそうだ。
天守閣の内観! 動画
こんな旅はまた次回に続きます!
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