高梁市でマルガリータピザを食べ、山田方谷記念館を訪れて偉人の勉強を【尾道&岡山旅行記52】

尾道(広島)&岡山旅行記2021年3月-52

旅行期間:2021年3月某日(3泊4日旅)

備中松山の偉人!

岡山県高梁市 城下町 日本家屋 看板

さて備中松山城の見学を終えて、城下町だった高梁市の昔の日本家屋が立ち並ぶエリアを散策途中に、そろそろ昼飯時という事もあって、昼食を食べれるお店を見つけるモードに切り替えていく。

 

高梁市 そば屋 手打ちそば 方谷庵

すると、こちらの「手打ちそば 方谷庵」という、高梁市の雰囲気にとても似合っている蕎麦屋を発見した。備中松山ではありながら、”北海道の幌加内そば”を使っている蕎麦屋らしい。ただ、どうやら他の昼飯を食べに来た人も同じ考えだったようで、既にお店の前には待っているお客さんの姿が見られたので、ここも諦める事に・・・。

 

 

 

高梁市でピザを食べる!

高梁市 ピザ屋 PIZZERIA 澪 外観

そして近くを散策していると、こちらの「PIZZERIA 澪(ミオ)」というピザ屋さんを発見する。さっきは日本家屋を改装して営業していたインドレストランをスルーした後だっただけに、ちょっと躊躇したけど、蕎麦屋の客待ちを見てしまっただけに、空いてそうだったのでこちらのお店に入る事にした。

 

【PIZZERIA 澪】

住所:岡山県高梁市本町33
営業時間:12時~20時頃(※定休日:月曜日)
電話番号:0866-21-3863

 

 

高梁市 ピザ屋 PIZZERIA 澪 外観2

旅行時のネタとして考えると、さっきの”日本家屋を改装したインドレストラン”と比べるとちょっとインパクトが無いけど、カレー&ナンよりもただ純粋にマルガリータピザを食べたいという個人的な欲望が勝ってしまったのであった。

桃四郎
桃四郎

50歩、100歩っていう言葉通りやね!

 

高梁市 ピザ屋 PIZZERIA 澪 内観

店内には大きな窯があって、それ以外は普通にセルフサービスのお店だった。なお、入口付近には薪が積まれていて、その薪で焚いた窯で本格的なピザを焼いてくれるのだろうという期待を持たせる内装でもあった。

 

高梁市 ピザ屋 PIZZERIA 澪 マルガリータピザ

そしてピザを注文してから約10分少々で、「28番の方~~!」という声が掛ってカウンターまで出来上がったピザを取りに行く。普段はこのようなピザを外で食べる機会も少ないだけに、余計に旨そうに見えてくるマルガリータピザ!

 

高梁市 ピザ屋 PIZZERIA 澪 マルガリータピザ アップ写真

ピザの本場であるイタリアでは、ピザにはこだわりが詰まった食べ物という認識があって、イタリア人の中でも出身地によって好きなピザが分かれていて、その違いが元で喧嘩したりとかはよくある事らしい。ローマではモッチリした生地が人気だけど、ナポリでは薄くてパリッとした生地が人気だったりと、色んなピザがあって興味深い。

 

高梁市 ピザ屋 PIZZERIA 澪 マルガリータピザ 食べる

このマルガリータピザはその本場であるナポリのレストランで、美味しいピザを食べた記憶が蘇る。ツアーで行っていたので周りのお歳を召した方が食べ残したピザを貰って食べて、それでお腹が一杯になった事を思い出す。。

 

 

高梁市 紺屋川 橋

こちらは「紺屋町美観地区」となっている紺屋川に架かっていた短い橋。すぐ脇に同じような短い橋が架けられているので、この橋の必要性をあまり感じなかったけど、昔は城下町の中心部だったので、利用する人が意外と多かったのかもしれない。

 

高梁市 紺屋川沿い お土産屋

備中松山に来たものの、特にお土産に買って帰る名産品などのイメージが思い浮かばなかった。紺屋川沿いにはこちらのお土産屋などもあったけど、足を踏み入れてしまうと何か勢いで買ってしまいそうだったので、ここもスルーする事に。。

 

 

「山田方谷記念館」を訪問!

高梁市 山田方谷記念館 外観

そして帰り道に、楽しみにしていた「山田方谷記念館」を訪れる。この高梁市の備中松山城にやって来るまでは全く聞いた事の無い名前の人物だったけど、これ程の偉業を成し遂げた人物がこんな田舎と言えば失礼になるけど、こんな田舎に居たとは想像にすら出来なかった。

 

 

高梁市 山田方谷記念館 外観 入口

この「山田方谷記念館」は、現在備中高梁駅前に移転して”ツタヤ図書館”として営業する事になった旧高梁中央図書館の跡地を利用して、2019年に開館した建物となっている。

 

高梁市 山田方谷記念館 外観 玄関

この高梁市は小さな町なので歴史を勉強できる博物館みたいな大きな建物はなく、備中松山城の天守閣内にその歴史を紹介するパネルが数枚展示されている位だった。なので、備中松山城を治めていた備中松山藩の中でも、最も偉大で尊敬されていた人物を知れば、備中松山藩の歴史を知る事にも繋がる。

 

高梁市 山田方谷記念館 入口 あいさつ文

江戸時代に日本全国に存在した300を超える大小の藩も、それぞれに財政難に苦しむのが普通だった。そしてそれぞれの藩でも大なり小なり、色んな財政改革などが行われたが、特にその功績が後世に認められている人物も意外と数少ない。

 

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2020年12月に訪れた山形県の米沢市。その中心部である米沢城跡近くに造られている「上杉博物館」で、名君として名高い上杉鷹山の成し遂げた業績を勉強していきます。

江戸時代に藩を大きく改革した人物としても特に有名なのは、米沢藩主だった「上杉鷹山」。上杉鷹山の名前は海を越えて海外でも有名になり、暗殺されたジョン・F・ケネディ大統領が”尊敬する日本人”として発言した事もあって、特に持ち上げられている。

 

高梁市 山田方谷記念館 入口 銅像

しかし、上杉鷹山の改革はその借金が全部返済されるのに約100年という時間を要したのに比べて、この山田方谷が行った改革ではたった8年間で大きな借金状態から反対に、貯金が出来る程に藩を変えてしまったのだ。山田方谷についてをまとめた書籍の中では上杉鷹山との比較が記載されていた本もあったけど、このような改革は同じように比べれる物ではないので、その辺りは参考程度に知っておく位がいいのかもしれない。

 

なお、この入口に飾られていた像は備中高梁駅前のロータリーに設置されている銅像の原型。ただこの原型から作った銅像は、備中高梁駅の東口に設置されているので、今回の旅では立ち寄れなかったのが残念ではあった。。

 

高梁市 山田方谷記念館 山田方谷 書

この山田方谷という人物は、1805年に現在の高梁市で菜種油を製造販売している農家に生まれる。なお、元々は武士の家系だったが、先祖の代で騒動を起こした際に私財没収となってしまい、困窮して農業に手を出していったという。なので家柄としては貧しく、父親からは”質素倹約の12箇条”をキツく教え込まれたという。

桃四郎
桃四郎

この時の質素倹約が、後々に活きたんじゃなぁ!

 

高梁市 山田方谷記念館 山田方谷 書 掛け軸

そして3歳の頃より母親に教えられて、筆を握って漢字を書くようになった。そしてその評判は直ぐに地元に知れ渡って、”神童”として知られる事になる。なお、こちらは「竹虎」という漢字を山田方谷が4歳の頃に書いた書となっていて、脇には手形と共に「四才」と書かれているのも見える。

 

高梁市 山田方谷記念館 館内

この山田方谷記念館の展示スペースは1階部分のこの部屋だけで、そこまで広くはないけど、山田方谷マニアからすれば十分に楽しめる場所となっていた。なお、基本館内は写真撮影OKなのだが、奥の壁に掛けてある1枚の書だけは”撮影禁止”となっている。

 

高梁市 山田方谷記念館 館内 歴史資料

そして地元でも有名な神童としても知られた山田方谷は、5歳の時に高梁市の北西にある新見藩で丸川松隠が開いていた私塾「回陽館」に入門し、朱子学を学ぶ事になる。ちなみに山田方谷という名前の「方谷」は”号”で、本名は「球(きゅう)」、通称は「安五郎」と呼ばれていたという。

 

 

高梁市 山田方谷記念館 館内 年表

山田方谷が朱子学を学んだ「丸川 松隠(まるかわ しょういん)という人物は、寛政の改革でも知られる松平定信のブレーンとしても活躍した中井 竹山(なかい ちくざん)から朱子学を学んだ。

なお、山田方谷が30歳を過ぎてから江戸の「佐藤一斎塾」に遊学に行くが、その佐藤一斎も大坂で中井竹山に朱子学を学んだ同門であった。

 

高梁市 山田方谷記念館 館内 資料

山田方谷は5歳で丸川松隠の私塾「回陽館」に入門し、そこでも神童ぶりを見せつけた。しかし16歳頃の時に父親と母親が急死してしまった為に、仕方なく家業を継ぐ事になった。だが忙しい家業の合間を縫って勉強する時間を捻出し、学問を究める事を諦めなかったという。

 

高梁市 山田方谷記念館 館内 歴史資料 儒学者

そして農業と菜種油の製造販売に時間を取られて、学問を究める時間が少なく嫌気が差していた山田方谷であったが、21歳の時に第6代備中松山藩主:板倉勝職(いたくら かつつね)からその熱心さが認められて、”二人扶持(ににんぶち)という給料が与えられて、更に藩校の「有終館」への入学が認められた。

 

高梁市 山田方谷記念館 館内 歴史資料 肖像画

こちらはその「山田方谷」の肖像画である。特に目立った外観の特徴は見当たらないように見えるけど、頭脳明晰で優れた軍師として影で備中松山藩を操る人物だった。また、明治時代には再三明治政府の要職への就任要請が来たが、全て断り、備中松山の田舎に移り住んで子供達に学問を教え続けたという。

 

高梁市 山田方谷記念館 館内 歴史資料 直筆 花月

こちらの板に書かれている文字は、これも山田方谷が4歳の時に書いた「風月」という漢字で、こちらの板は近くの神社に奉納されたという。”三つ子の魂百まで”という言葉があるけど、この4歳の時のこのような漢字を書いていた人物だったので、大きな改革を成し遂げれたのかもしれない。

 

こちらも山田方谷が4歳の時に書いた「天下太平 国土安全」という漢字で、近くの神社に奉納された物。その幼き頃からの神童ぶりは噂になって、新見藩の藩主の前で漢字を書いて披露した事もあるとか。ちなみに新見藩の丸川松隠塾で学び、9歳の頃に訪問してきた人物が「何の為に勉強しているのか?」と聞いた際に、方谷は「治国平天下」と返したという。

 

治国平天下とは??
・国を治めて天下を平和にするという意味 (『入門:山田方谷 至誠の人』より)

 

高梁市 山田方谷記念館 館内 歴史資料 書物

こちらに展示されていたのは、山田方谷の父親である「山田五郎吉」の遺訓が書かれた書。元々は源家の流れを汲む家柄で、平家討伐での功績によって、この辺りの土地を与えられたという。そして農民ではありながら武士並みの格式を与えられ、酒屋も経営するようになって一時は懐が豊かな時代もあった。

しかし、山田方谷の曾祖父が起こした刃傷事件によって、山田家の全財産が没収されて山田家は落ちぶれてしまうのであった。

 

高梁市 山田方谷記念館 館内 歴史資料 書物1

そんな苦しい家計の中で、何とか生きていく為にと山田家再興を願って、方谷の祖父と父は質素倹約に励みつつ家業を立て直していった。そして山田家では質素倹約が徹底されており、”質素倹約の12箇条”を家訓として子供達にもキツく教育したようだ。この時の倹約が、山田の施策に大きく影響を与えたのだろう。

 

山田家 ”質素倹約の12箇条”

①衣類は木綿のみに限る
②3度の食事は”かす”・”雑炊”・”麦飯”とし、夫婦の米も節約する
③酒の嗜みは不要
④お客のもてなしも、一汁一菜のみ
⑤仕事は忙しい時は、午前4時から深夜24時まで働く
⑥履物は藁草履・引下駄・わら緒のみ
⑦「加羅油(からゆ)」・「月代(さかやき)」は月3度まで
⑧賭博類は一切禁止
⑨芝居などの見学は一切禁止
⑩遊芸は一切禁止
など

桃四郎
桃四郎

現代の贅沢な子供達じゃったら、発狂しそうな環境じゃなぁ!

 

高梁市 山田方谷記念館 館内 歴史資料 書物2

生まれた環境がその後の人格形成に大きく影響するとは言われているけど、このような貧しい家庭で育った事が、後々の藩財政を立て直す事に繋がっていった訳である。

ただ山田方谷も生涯この家訓全てを固く守ったイメージが勝手にあるけど、実は酒飲みだったらしく、”酒の嗜みは不要”という項目だけは守れずに破っていたようだ。。

桃四郎
桃四郎

方谷先生が家訓を破ってまで飲むほどに、酒にゃあ魔力があるんじゃ・・・

 

こんな旅はまた次回に続きます!

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