備中松山城で江戸時代から残る二重櫓も見学し、昔の雰囲気が残る城下町をブラ歩く【尾道&岡山旅行記51】

尾道(広島)&岡山旅行記2021年3月-51

旅行期間:2021年3月某日(3泊4日旅)

昔の面影が残る!

備中松山城 天守閣 景色 外側

日本国内でも貴重な”江戸時代から現存する天守”の備中松山城:天守の見学を終え、天守の東側に北側へ延びる道があったので、もう少し奥まで行ってみる事にした。なお、この天守を取り囲むように設置されている土塀は復元された物だが、下の方にある三の平櫓付近の土塀は江戸時代から現存する塀となっている。

 

【備中松山城】

住所:岡山県高梁市内山下1
営業時間:9時~17時頃
電話番号:0866-21-0461
入城料:大人500円/小中学生200円

 

 

 

もう少し、備中松山城を見学!

備中松山城 天守閣 東通路

その天守沿いの道を進んで行くと、天守を支える石垣が綺麗に保存されている訳ではなく、このように木が生えてきていたりとなかなかにワイルドな光景になっている箇所も見受けられた。この備中松山城は明治時代以降に廃墟となって放置され続けた為に、石垣の脇に木が生えてしまっている部分もある。

 

備中松山城 天守閣 東通路 進む

このような城跡が観光資源として注目を浴び出したのも、主に昭和の中盤以降だろう。それまでは城という建造物に対して日本人は慣れ過ぎていた為に、その有難みや希少価値を理解できなかった。しかし明治維新から100年が経過した頃には、このような城跡は歴史的な遺産として認識され出して、こぞって保存されていくようになる。

 

裏手にある「二重櫓」にて

備中松山城 天守閣 東通路 二重櫓

そんな天守脇の道を進んで行くと、さっき天守の裏道から見えていた「二重櫓」とその土台である石垣などが見えてくる。この備中松山城では江戸時代から現存する天守として、天守の建物のみが脚光を浴びているけど、実はこの「二重櫓」という建造物も江戸時代からの生き残りである。

 

備中松山城 二重櫓 後曲輪

この二重櫓が設置されているのは天守の北側で、こちらにはかつては門や櫓などが造られていた。しかし、時間の経過でこれらの施設は破却されてしまって、今ではその跡形だけが名残りを残している。このように城跡では今目の前に見ている光景だけではなく、その昔にはもっと物々しい警備が厳重な場所だった事が伺える。

 

備中松山城 二重櫓 後曲輪 景色

ただ二重櫓も取って付けたようなサイズ感で、あまり大きくもない。そして中には入れない事もあって、この備中松山城を見学しに来た観光客が特に立ち寄らずに帰っていくのだろう。天守以外にも江戸時代から現存する建物として、もう少し脚光を浴びるべき存在なのであるが、天守から比べると地味な存在という事もあって、あまり見向きされていないようだ。

 

備中松山城 二重櫓 後曲輪 景色2

備中松山城は基本的に南側が城の正面側となっているので、敵が攻め込んできた際に万が一の逃走経路として、設置されていた可能性もあるという。地味な建物という事は逆に目立たないから、隠れるにはもってこいの場所でもあった可能性は考えられる。

 

備中松山城 二重櫓 後曲輪 九の平櫓跡

城跡の隅っこに、このような石垣が造られて四角いスペースが残っている所には、だいたい櫓(やぐら)という建物が造られていた可能性が高い。この櫓は基本城の周囲を警備する番人が常駐する要所として使われており、城には必ず何個かの櫓が造られていた。

 

備中松山城 二重櫓 後曲輪 九の平櫓跡 景色

この備中松山城が造られている場所は、標高約430mの場所だけあって、そこそこに見晴らしが良い。しかし、今ではこのように木々が生い茂っているので、ここから下をクリアに見下ろす事は難しい。城は放置され続けた際にこのような木々に取り囲まれてしまったが、戦時中には逆にそれらの木々がカモフラージュしてくれた為にアメリカ軍には気付かれなかったという。

 

 

二重櫓を眺める! 動画

 

 

備中松山城 東側の塀

今日は土曜日という事で駐車場はそこそこに車が停まっていたけど、この二重櫓まで見に来る観光客は少なかった。多くの人達は城の顔でもある天守閣の建物を見に来ている事もあってか、このようにお尻のような存在でもある二重櫓までわざわざ足を運ぶ事も少ないのだろう。

 

 

備中松山城 景色 城下町 見下ろす

備中松山城の登城してきた時に登った階段の上からは、このように高梁市の街中が一望できる景色が広がっていた。そして右側に見える高梁川は備中松山藩の特産品などを運搬した重要な川で、その河口下流には今の岡山県倉敷市に”飛び地”となっていた玉島港があって、そこから出荷していた。

 

備中松山城 登山道 帰り道

この高梁市で歴史的に一番重要な人物でもある「山田方谷」だが、彼の行った改革の1つに”特産品を大坂に卸さず、直接江戸に運搬して売り捌いた”という功績がある。大坂がこれほど商業の町として発展したのには、それだけ商人が活躍して儲けたからだ。そしてその儲けとは、生産者と購入者の間に仲買人として仲介し、その手数料で儲けたのだ。ただ逆に考えると、生産者がより利益を出すには、その大坂商人を通さずに直接購入者に商品を売る必要があった。

今ではこのような考えは普通に浸透しているが、当時は大坂商人に卸すのが一般的だったので、このような慣例に知らず知らずのうちに従っていた人が多かった江戸時代。米沢藩を立て直した上杉鷹山も、苦労して作った名産品は全て大坂に運んでおり、そういう意味では「山田方谷」の行った改革は世間の常識に惑わされずに時代を先んじていたようだ。

 

備中松山城 登山道 帰り道 駐車場

そして階段を進んで行くと、下には駐車場が見えていて、多くの車が停まっている景色が見られる。この日は土曜日だった事もあって車でやって来る人が多かったようだが、それもあって駐車場には行列が出来ていた。山の上にある城跡だけあって、自分の足で登りたくない人達が車で大挙していたようだ。

 

備中松山城 登山道 帰り道 歩く

一応徒歩でもその車道の舗装された道を通って下に降りていくルートもあるのだが、やっぱりこのような登山道を歩いて降りて行った方が雰囲気があって気分も良くなる気がする。特に観光をしている時には、車やバスで体を動かさずに移動するよりも、このように自分の体を使って歩いた場所の方が記憶に残り易い気がする。

 

備中松山城 登山道 帰り道 歩く2

ただ、この登山道の帰り道も1人としてすれ違う人を見かけなかった。このような味のある登山道の存在自体を知らないのか? それともただ単にしんどいから登りたくないだけか? そして登山道入り口付近で、これから登城する年配の奥様とやっと遭遇したけど、その人は歩く気満々の姿だったが。

 

備中松山城 登山道 麓 景色

平穏な時代となってしまった江戸時代には、このような高い山の上に造られた山城の存在は、逆に痛手というか、面倒な場所になっていた可能性もある。戦も殆ど起きる可能性もないし、登城の為に毎回坂道を30分以上掛けて登る必要があったりと、江戸時代の人もシンドイと思っていた可能性はある。

 

備中松山城 登山道 麓 景色 建物

そして細い川が脇を流れる「城下通り」を下っていると、武家屋敷っぽい佇まいの建物の割に、食事を提供しているような雰囲気が漂っている場所を発見する。

 

ここは2016年に武家屋敷をリニューアルして、イタリアンレストランとして営業している「VicchuNut Griglia(ヴィッチュナッツ グリッヤ)というお店だった。城に近くて日本家屋を利用してのイタリアンレストランで面白そうだったが、1人だという事もあって敷居が高く感じて、毎度のスルーしてしまうのだった・・・。

桃四郎
桃四郎

こねーなお店は、思い切って入ってみにゃあ!

 

備中松山城 麓 高校 門

こちらの表に大きな鳥居のような門が見えた建物は、「岡山県高梁日新高等学校」という私立高校だった。起源は1904年に発足した有漢准教員養成所となっていて、後に農林学校や商業学校と合併して現在に至る。またこの高校では”中国地方初のビューティー科”があって、美容業界に進みたい若者向けに特化しているようだ。

 

 

 

日本家屋が立ち並ぶ「本町通り」にて

岡山県高梁市 城下町 景色

この「本町通り」は江戸時代初期に城下町として整備された商家が立ち並ぶメインストリートで、今でも古い日本家屋が残されているので、江戸時代の風情を感じれる通りとなっていた。

 

岡山県高梁市 城下町 景色 建物

備中松山城へ向かう時に通った「石火矢町」の武家屋敷群と比べると、こちらの本町通の方が昔からの商家が受け継がれて並んでいるので、雰囲気としてこの本町通りの方がいい風情を出していたように感じた。

 

岡山県高梁市 城下町 景色 並び

この本町通りのすぐ右側(西)には高梁川が流れていて、川を使って運搬された商品などがこの辺りの商家で販売されていたのだろう。石高5万石という小さな藩であっても、それなりに人口があって人々は色んな物を購入していたので、このような商家街が発展していったのだろう。

 

岡山県高梁市 城下町 景色 看板

このように藩があった場所の近くに高梁川があった為に、その水運を活用して多くの物流が生まれ、その物流によってこのような商売も活気を呈していったようだ。人の流れの前に、川の流れが江戸時代にはとても重要だった事が分かる景色でもある。

 

岡山県高梁市 城下町 景色 日本家屋

そしてこのような昔ながらの醬油屋は、日本全国でもよく見られる。江戸時代に醤油は大量生産されるようになり、何と海外にも出荷される程に日本の名産品となっていたという。

 

岡山県高梁市 城下町 景色 日本家屋2

武家屋敷では見られないが、江戸時代から続く商家らしく、敷地に目一杯に建物が建っている姿が見られるのが特徴でもある。武家屋敷の場合は武士が住む家だったので、庭が必ずあって、そこに植木などがあって母屋もあって・・・という景色だが、商家の場合は商売に特化した建物の造りを優先していた。

 

岡山県高梁市 城下町 日本家屋 格子

こちらの窓は「格子」という木の囲いがあって、窓ガラスが無かった昔の時代にはこういう「格子」の隙間から店内が見えるような仕掛けとなっていた。このように建物には「何でこんなのが付いているのかな??」と思ってしまう物も、それは現代人から見ている限りは理解できない物も多い。

 

岡山県高梁市 城下町 日本家屋 海鼠壁

このような壁の造りも現代人からすれば何の為に造られているのか理解できないだろうが、これは「海鼠(なまこ)壁」という防火性・保温性・保湿性に優れた加工方法で、江戸時代に造られた商家や蔵などの建物の外観でよく見かける。

 

岡山県高梁市 城下町 日本家屋 海鼠壁 建物

この「海鼠壁」は火事が多かった江戸時代に防火対策として、瓦を壁に並べて貼り付けて、その瓦の隙間に漆喰をタップリと塗りつけて、その塗った漆喰が「海鼠」のように盛り上がった形から海鼠壁という名前が付けられているという。

桃四郎
桃四郎

江戸時代は火事が多くて、大変じゃった!

 

岡山県高梁市 城下町 日本家屋 看板

そして今日は朝イチに尾道からやって来て、そのまま備中松山城を見学した事もあって、そろそろ13時前になってきて昼食タイムが近づいて来ていた。あとはこの高梁市では「山田方谷記念館」に行くだけなので、先に昼食を食べれるお店を探す事にしてみた。

 

岡山県高梁市 城下町 日本家屋 インドレストラン

そして発見したのは、日本家屋をリニューアルして営業していたインドレストラン。さっきは武家屋敷を改装したイタリアンレストランがあったけど、さすがに日本家屋で食べるインドレストランというのは、あまり想像しにくい。

ただインドレストランはどこの町にでも1軒はあって、味はとても美味しいので、話のネタに”日本家屋で営業するインドレストラン”を訪れるのもアリだったかもしれない。しかしこの訪問時はこの外観に圧倒されてしまって、近寄る事が出来ずにスルーしてしまったのである・・・。

桃四郎
桃四郎

意気地なしじゃなぁ!

 

こんな旅はまた次回に続きます!

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