尾道(広島)&岡山旅行記2021年3月-㉒
旅行期間:2021年3月某日(3泊4日旅)
歴史ある尾道の寺!
今居る寺は、広島県尾道市内でも最大級の敷地の広さを誇る「西國寺」という、真言宗醍醐派大本山のお寺。”尾道三山”とも称される愛宕山の麓から中腹にかけて増築された事もあって、奥の山の上に向かって縦長に広い寺という印象を受けた。
「西國寺」にて
この西國寺も『中国三十三観音霊場』の1つだが、千光寺は第10番、浄土寺は第9番となっているが、この西國寺はその番号が無くて、代わりに”特別霊場”という括りで入れられているようだ。
さて奥に広い西國寺で一番見たかった三重塔は、その敷地内でも一番奥の山の中腹に造られている。なので最後まで歩いて行かないと見れないようになっているので、余計に三重塔の価値を感じてしまう構造となっていた。
奥の三重塔まではこのような階段を登る徒歩ルートだけではなく、その近くまで車で行けるので、現代人はわざわざ歩いていく必要も無くなっている。しかし、本来は歩いて巡る事に日本人は意義を感じていたのであり、四国巡礼旅なども本来は歩きだけしか、その恩恵を受けれないハズなのである。
お遍路さんも、商売的に車での巡礼も認められているけ・・・
そして階段を登った上には「小林 和作(わさく)」という、大正~昭和時代に活躍した日本の洋画家のお墓と筆塚が設置されていた。小林和作の生まれは山口県だが、人生の半分を過ぎた頃にこの尾道に移り住んできて、この街の景観を愛して生涯住み続けた人物でもある。
西國寺の一番奥に造られている三重塔は”国の重要文化財”にも指定されており、建立されたのは1429年頃とされている。時の室町幕府の将軍だった足利義教が、この西國寺に三重塔を寄進にしたとされている。
室町時代に建立された三重塔の足元に到着する。しかし、これ以上先には入れないようになっていて、その手前から拝むだけしか出来ないようになっていた。さすがに室町時代の三重塔だけに、簡単に一般人が近づけないようにされていたのかもしれない。
なおこの三重塔は1576年頃に屋根を修理した際の書置きが見つかっているみたいだが、特に焼失したとも書かれていないので、修理は度々されたものの、昔からの塔として現存している事に驚く。これも尾道に爆弾が落とされる事が無かった事も一因だろうが、逆に見れば戦争で多くの文化財が焼失してしまった事が残念である。
この西國寺を訪れた時には全く見学者の姿がなく、三重塔付近も誰の姿も見なかった。しかし、室町時代に建立された塔が目の前に残っている景色をなかなか拝む事が出来ないだけに、とても貴重な場所だった。
西國寺の三重塔を間近で見る事が出来たので、次の場所に向かう事にした。こちらはその途中に見かけた「久保八幡神社」という、八幡系の神社。
久保八幡神社の境内には、尾道市内でよく見かける江戸時代最後の横綱だった「陣幕久五郎」の手形が入った石碑が置かれていた。ボクは小さい頃から大相撲に興味を持って、物心付いた頃から大相撲のテレビ中継を欠かさず見ていたが、その当時は横綱が不在だったので、当初は横綱が絶対居るという認識が無かった。
ボクが見出してから、最初に昇進した横綱は「曙」でした!
この久保八幡神社には、尾道の名石工が彫ったという「軍配灯籠」なる物も置かれていたようだが、この神社は事前に調べていなかった事もあって、単に素通りしただけであった。
そして尾道の街でも特徴的なのが、このように寺や神社の境内の中を貫通するように敷かれた山陽本線の線路である。このように寺や神社を二分するような形で鉄道の線路を敷く事に、当時としてはかなりの抵抗があった事だろうが、それ以上にこの路線の重要性が考慮されて敷かれる事になったのだろう。
神社の前を通過する山陽本線! 動画
そして下の国道2号線に出て、東側にある浄土寺に向かって歩いている途中に、交差点で歩行車に体を預けながら歩いているおばあちゃんが目に入った。そしてちょっと怪しい足取りだったので気にして見ていたら、横断歩道の最後でズルズル~と前のめりにコケてしまった。
ちょうど歩行者用の信号が点滅していた事もあって、急いでそのコケたおばあちゃんの元に近寄って、脇を抱えて持ち上げて近くの歩道脇に座らせてあげた。なお、その時に二十歳前後の若者も手助けしてくれたけど、若者は介抱する気もなく、介抱する自信も無かったからか、「後はお兄さんに任せました・・・」という感じで逃げ出してしまった・・・。
若者の男子より、女の子の方がよっぽど甲斐性あるじゃけ!
そのおばあちゃんを近くに座らせて休憩してもらっている間に話を聞いてみたら、80歳過ぎの年齢で家はこの近くで、今日は尾道市役所に行ってきてその帰りだという。「家はすぐ近くだから1人で歩ける!」とおばあちゃんが主張したので、5分程休憩をしてもらった後に立たせて再び歩行車を支えに歩いていった。その様子を心配な気持ちで見ていたが、案の定すぐにまたズルズルと前のめりにコケてしまった・・・。
どうやら体力面にも問題がありそうだったけど、この歩行車のブレーキが摩耗し過ぎていて、ブレーキを握っても全然効かなかったのでコケてしまったようだ。それもあっておばあちゃんにこれまでにも同じようにコケた事が無いかを聞いてみたら、「何回か、コケた事あるよ・・・」との事だった。
という事でおばあちゃんの家が近くと言っているので、家に到着するまで介助しながら送っていく事にした。そしてこのバス停のあるベンチの近くが家だというので、このベンチまで送り届けてお別れとなる。そして最後に歩行車のメンテナンスをするか、新しいのに交換するべきだと伝えた。
一応おばあちゃんも「そうする!」って言ってたけど、まだその時の歩行車使ってそうな・・・
国宝の寺「浄土寺」にて
そんな風におばあちゃんを介助しながら300~400m程歩いた所に、何と目的地の「浄土寺」の入口が目の前に見えた。
これも何かの運命だったのかもね?!
浄土寺の精霊が導いてくれんさった!(笑)
浄土寺の入口参道部分には山陽本線の線路が高架となっていて、その下を通過して進むようになっていた。そしてまず見えてきた浄土寺の山門は、鎌倉時代頃に建立されたとされている国の重要文化財にも指定されている門である。
この浄土寺は、一説には聖徳太子が開いたとも言われているようだ。しかし、その事実を残す証拠はなく、文章に名前が出てくるのは鎌倉時代になってからだという。そしてその頃には浄土寺は荒れてしまっていたが、その鎌倉時代に復興されて、その際に再建された本堂と多宝塔が現存していて今では国宝に指定されている。
浄土寺は『中国三十三観音霊場』の第9番目になっており、また尾道三山の1つである瑠璃山の麓に建立されている寺。尾道には20箇所を超える昔の寺が残されているけど、これまで巡った千光寺と先程の西國寺と共に、尾道を代表する寺となっている場所でもある。
千光寺や西國寺でも見かけた一休さんのような坊主頭の看板は、どうやら『中国三十三観音霊場』向けの看板だったようだ。ただこの浄土寺に設置されていたこの看板は、先程見た物と比べるとちょっと古そうで、手作り感満載の看板だったが。
尾道は歴史ある街並みが残っている場所というのは聞いていたけど、このように1327年に再建された建物が残されているなんて、なかなかに歴史ある建物が存在していて、少しビックリしてしまった。
尾道の歴史をねぶりんさんなや!
勿論1327年に再建された後に何回か補修が行われているのだろうが、本堂の外観をパッと見ただけでは、それ程の歴史は感じない程に綺麗であった。京都には国宝の寺がゴロゴロしているけど、”小京都”とも呼ばれた尾道も負けてない雰囲気を感じた浄土寺。
この浄土寺には室町幕府初代将軍となる足利尊氏が立ち寄った場所ともされていて、”地頭職”と呼ばれた荘園などを管理する権利などが与えられている。そういう歴史もあって室町時代には権力を持っていた浄土寺も、室町時代が下火になると徐々に権力を失い、江戸時代以降は尾道の豪商の支援を受けて存続していったようだ。
こちらにあった水掛け地蔵のような観音像は、『観音霊泉』という飲泉療養にも使われる冷泉鉱がこの地から出る事もあって、置かれていたようだ。
この「観音霊泉」は痛風や消化器病、胆のう炎や神経痛・筋肉痛などに効果があるようだが、引用上の注意として、開始する前に専門的な知識を有する医師の指導を受ける事が望ましいと記載されている。ただ、まずは試しに・・と飲む人は、1回100~200ml位を飲むのがいいようだ。
その本堂の左側にあった建物は「庫裏及び客殿」で、江戸時代に建立された建物。なお、この中や庭園の見学は有料となっているので、興味がある人は拝観料を払って奥に進めばいい。
入らんのか!
個人的にはその手前に植えられていて、綺麗な緑色を放っていた蘇鉄に目が釘付けになってしまった。2020年に奄美大島を訪れた際に、この蘇鉄という植物の存在を勉強してからは、結構色んな場所でこの蘇鉄が見られるので、毎回蘇鉄が目に入ると気になって仕方がないのである。
そして本堂の右手には、こちらも国宝に指定されている「多宝塔」の姿が見えている。この多宝塔も1328年頃に建立された歴史ある塔で、中国地方の塔の中でも特に古い部類に入るようだ。
そんな国宝の建物が並ぶ浄土寺の境内に、気になったのがこちらの鳩に餌をあげていたおばあちゃんの姿。国宝の建物など歴史ある建物だらけの浄土寺で、沢山の鳩が集まってくると、その鳩の糞で歴史的な建物が汚れてしまうので、寺を管理する側としては嫌われていそうにも思うのだが。。
しかし、この浄土寺ではこのように「鳩のエサ 30円」という文字が見られて、普通に鳩のエサが販売されていた。鯉の餌などは販売しているのをそこそこに見かけるけど、鳩の餌が普通に置かれている寺もなかなか珍しいように感じる。
ちなみに浄土寺では江戸時代に商人が江戸幕府が禁止にしていた伝書鳩を飼育していた場所だったらしく、その名残りもあってこのように鳩に餌を与える事が許されていたのかもしれない。
こちらの国宝の本堂と多宝塔に挟まれた建物は「阿弥陀堂」という、これまた鎌倉時代の1345年頃に建てられて、国の重要文化財にも指定されている建物だ。この浄土寺では10を超える重要文化財があって、まさに尾道の歴史が秘められた寺となっている。
こちらがもう一つの国宝となっている「多宝塔」で、鎌倉時代の1328年頃に建立された建物となっている。歴史的に古い塔は国内にそこそこ残っているが、明確に鎌倉時代に造られたという事が判明している塔としては珍しいようだ。
さすが、尾道の宝じゃけ!
こんな旅はまた次回に続きます!
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