コロナ禍で「猫城主:さんじゅーろー」が不在で物足りなかった備中松山城【尾道&岡山旅行記㊿】

尾道(広島)&岡山旅行記2021年3月-㊿

旅行期間:2021年3月某日(3泊4日旅)

写真で我慢!

備中松山城 天守閣 2階 内観

ここは江戸時代に5万石を治めていた備中松山藩が居城としていた、岡山県高梁市に現存する「備中松山城」の天守2階部分。江戸時代から現存する天守として国内でも珍しい木造建築物で、天守らしい特徴が見られる場所ともなっている。

 

【備中松山城】

住所:岡山県高梁市内山下1
営業時間:9時~17時頃
電話番号:0866-21-0461
入城料:大人500円/小中学生200円

 

 

 

備中松山城天守の見学!

備中松山城 天守閣 2階 窓

この備中松山城は、”江戸時代から現存する天守”の中でも一番標高の高い(430m)場所に造られている城でもある。ただ山城として日本イチの標高の高さにあったのは「岩村城跡」とされているが、このような城郭建築物が残っているのは、この備中松山城が一番高いという。

桃四郎
桃四郎

城は築く高さを競うた建物じゃねえけぇなぁ!

 

備中松山城 天守閣 2階 展示資料

江戸時代に徳川家康より西国の監視要員として、天領となっていた備中に小堀家が送り込まれてきた。小堀家が2代治めた後に、因幡鳥取藩を治めていた池田家が移封されてきて、備中松山藩が立藩したのである。しかしその池田家は2代で子供が途絶えて改易となり、代わりに福山藩の水野家が一時預かりとなり、後に水谷家が送られてくる。

しかしその水谷家も3代で子供が途絶えてしまって改易となり、その後約1年間は播州赤穂藩が預かる事になる。その際に”忠臣蔵”ですっかり有名となってしまう大石内蔵助が派遣されて、この備中松山城の城代を務めていた期間がある。

 

備中松山城 天守閣 2階 展示資料2

戦国時代には毛利家の後押しを得た三村家が治めていた。三村家を治めていた三村元親は、父親を暗殺させた宇喜多直家と激しく争っていたが、その宇喜多直家と支援してくれていた毛利家が何と和睦を結んだ為に、毛利家と離反して織田信長勢に寝返った。その離反を一大事と捉えた毛利家から小早川隆景が送り込まれ、その猛攻を前に三村家は撃退されて三村元親は自害に追い込まれてしまい、三村家は滅びてしまった。

 

備中松山城 天守閣 2階 床

こちらは天守2階の床板に空いていた穴。もしかしたら、天守内に侵入してきた敵を眺める為に空けられた穴だったのか?それとも天然の木材がたまたまこのように年輪部分に穴が空いてしまったのか?

桃四郎
桃四郎

覗き穴?!

 

備中松山城 天守閣 2階 階段

天守内の階段は、小さな子供からすれば「なんでこんな急な階段、作ったの??」とママに聞いてしまう程に危険な物に思えたようだ。しかし、この子供も大人になれば、「何故このような人が通りにくい階段を作ったのか?」という理由が恐らく分かる事だろう。

 

備中松山城 天守閣 内観

こちらは天守の隅にあった小さな部屋で「装束の間」という、城主一家の居室でもあった場所。忍者などが侵入できないように床下には石が詰められているそうで、落城を悟った城主一家の最終的な死に場所でもあったようだ。

 

戦国時代などの籠城戦では、最終的に敗北を悟った将は敵が攻め込んでくるまで抵抗するのではなく、その前に自ら命を絶つ事が多かった。なので最後に天守に籠城した者達も、当主が辿る道を共にいったそうだ。

 

備中松山城 天守閣 内観2

このように実戦が行われる事が無かった天守の建物だけど、その建物には戦国時代からの動乱を生き抜いてきた武士達のノウハウ全てが詰め込まれている。だから現代建築物には無かった構造などが多々見られて、最終的に命を絶つべき場所でもあった事から、まさに命懸けの場所でもあった事だろう。

 

 

備中松山城 天守閣 外

狭いながらも江戸時代の雰囲気がたっぷり漂っていた備中松山城の天守閣を出ると、小雨が降ってきていて周辺に居る人達が傘を広げている姿が見られる。標高が430mという高い場所にある山城だけあって、天気も変わり易いのだろう。

 


 

備中松山城の雲海の様子--ライブカメラより

備中松山城の雲海の様子–ライブカメラより

なお標高の高い山に囲まれている立地の備中松山城では、このように雲海に囲まれる景色も見られる場所として人気なんだとか。

 

>備中松山城雲海展望台からの眺望ライブ配信–備中松山城展望台ライブカメラより(Youtube)

桃四郎
桃四郎

近くの雲海展望台に設置されとるライブカメラの映像も見れるよ!


 

備中松山城 天守閣 階段脇道

天守の東側には固く閉ざされている「東御門」があり、その脇には塀に沿って登り階段が設置されている。これで備中松山城は終わりではなく、まだ奥の方に何かありそうな雰囲気を感じる。

 

備中松山城 天守閣 塀

そして階段を登っていくと、天守の脇に「天守曲輪」という小さな広場のような場所があって、この天守曲輪部分が標高約430mの地点で、三角点も設置されているのが見える。敵がもし城に攻め込んできた際には、この場所から迎撃する兵士の姿が見られた事だろう。

 

備中松山城 天守閣 外観 正面

そして備中松山城のこちらは裏側の顔に当たる部分で、あまり写真では見かけない顔でもある。よく見られる備中松山城の天守の写真は基本的に南側となっているが、こちら北側の部分は先程見学した「装束の間」が造られている場所でもある。

 

備中松山城 天守閣 外観 正面2

このように天守が滞在する場所も、なるべく敵が攻め込んでくるであろう入口に面している南側ではなく、反対の裏側に造られているのだ。城の構造はこのように、常に城が攻められた時の事を想定した造りとなっていて、我々観光客の居心地を快適にさせる造りなど皆無なのである。

 

備中松山城 二重櫓 建物

そして更に奥に行くと、簡易的な門の先に天守っぽくも見える小さな櫓が立っているのが見える。こちらに見える建造物は「二重櫓」という名前が付けられているが、この二重櫓も天守と同様に江戸時代から現存する建造物なのである。

 

備中松山城 二重櫓

この備中松山城に残っていた建造物は、天守とこの二重櫓のみだった。それ以外の櫓や土塀は朽ち果てて倒壊したり、破却されていて、昭和時代まではこの2つの建造物しかなかった。その後、平成時代に五&六の櫓南&東の門土塀などが復元されて、今日の姿となっているようだ。

 

備中松山城 天守 猫城主 さんじゅーろー 居ない

このように楽しみにしていた”猫城主”としても人気の「さんじゅーろー」は、コロナ禍という事で隔離されていて会えずじまいだった。この「さんじゅーろー」という猫は、この備中松山城に迷い込んできたという話だが、民家で飼われていた猫がこんな城の中までやって来るのかと思ってしまうが。。

 

 

「六の櫓」の見学!

備中松山城 六の平櫓 内観

そして連立天守の入口脇に建っていた、平成時代に復元されたという「六の櫓」の建物も見学してみる。建物内には天守内には置けなかった資料などが展示されている部屋となっている。

 

備中松山城 六の平櫓 内観 展示品

このような城跡周辺の発掘調査すると、その場所で使われていた土器や陶磁器などが発見されて、どのような文化をしていたのかも分かるようになっている。実際には天守内には藩主が住んでは居なかったけど、この城の番人などが滞在していた為に、生活感のある物が出土してくるようだ。

 

備中松山城 六の平櫓 内観 展示品1

こちらは発掘調査の際に発見された、江戸時代に造られたとされる「鬼瓦」である。鬼瓦っていう言葉を聞くと、「鬼の怖い顔が模られている瓦」のイメージがあるけど、このように必ずしも鬼の顔が模られている訳ではないようだ。

 

備中松山城 六の平櫓 内観 展示品2

江戸時代に造られた木造建築物では、全ての柱などの木材は全てこのような手斧を使って、手作りで造られている。しかも釘や接着剤などの類は使わずに、凸凹を付けて木材同士が噛み合う技術だけを用いて建築したのである。

 

備中松山城 六の平櫓 内観 展示品4

こちらには出土した瓦と、それを参考にして復元された新しい瓦が置かれている。このように基本的には昔あった姿をなるべく忠実に復元して備中松山城の姿となっているけど、今見られるパーツは江戸時代の物ではなく、近代に取り替えられたパーツが多いようだ。

 

備中松山城 六の平櫓 内観 展示品 猫城主:さんじゅーろー 椅子

そしてこちらは、「猫城主:さんじゅーろー」が城に滞在時に座っている事の多い座布団付きの台。全国の城で唯一の”猫城主”としてPRした所、すっかり人気となってしまって、わざわざこの猫城主に会いたいが為に遠方から駆けつける人もいる位とか。

 

備中松山城 六の平櫓 内観 展示品 猫城主:さんじゅーろー パネル

この「猫城主:さんじゅーろー」は、2018年にこの備中松山城に迷い込んできて、その年末に猫城主に就任している。性別はオスだけど、このように耳は桜耳としてカットされた跡が見られないので、恐らく去勢手術はまだのようだ。

 

備中松山城 六の平櫓 内観 展示品 猫城主:さんじゅーろー パネル1

尾道の坂道付近では、猫の耳が桜のマークにカットされた”桜耳ネコ”を沢山見かけたけど、最近は地域猫として見守られている猫ちゃんは去勢されているのが多い。去勢手術には多少費用が掛かるけど、それによって猫が沢山子供を産む事が防げて、また気性も穏やかになるので夜中に大きな声を挙げて縄張り争いする事も少なくなる。

 

備中松山城 六の平櫓 内観 展示品 猫城主:さんじゅーろー パネル2

この備中松山城訪問時にはコロナ禍の為に城に居なかった猫城主だけど、今は城に出勤していて、上手くタイミングが合えば会えるそうだ。「猫城主」とは言いながら人間が勝手に服など着せているだけだが、犬ではなく猫ちゃんが服を着せられているのはあまり見る機会がないだけに、ちょっと貴重かもしれない。

 

備中松山城 六の平櫓 山田方谷記念館ポスター 

そしてこちらには「山田方谷記念館」のポスターも貼られていた。個人的には最初は「猫城主:さんじゅーろー」を目当てにやって来た備中松山城だけど、この高梁市の地を去る時にはすっかり「山田方谷」に夢中になってしまったのだが。。

 

備中松山城 天守閣 景色

”江戸時代からの生き残りの城”という表現が、シックリくるように思えた備中松山城。城が全国に無数に存在していた江戸時代には希少性はあまり無かった事だろうが、令和の現代となっては大変貴重な山城となっている。

 

備中松山城 天守閣 景色 外側

天守内も見学したのでこれで城を後にする人が多かったけど、奥の方にも続く道があるので、その先も何があるのかを見てみる事にした。なお、この臥牛山の奥には、この備中松山城以前に建てられていた”大松山城跡”などもあって、城マニアにとっては楽しめる場所となっているが、一般の観光客レベルではこの備中松山城の天守閣を見ただけで満足するのだが。。

 

こんな旅はまた次回に続きます!

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