尾道(広島)&岡山旅行記2021年3月-56:完
旅行期間:2021年3月某日(3泊4日旅)
個人的には卵&カツ!
2021年3月に訪れた尾道~岡山県の旅も、ここ岡山城が最終チェックポイントという事で、予定していた場所を全て巡ったので後は帰るだけとなった。観光資源としてはいいのかもしれないけど、やっぱり昔からの木造建築物という天守閣では無かったので、いまいち江戸時代にタイムスリップしたような雰囲気になれなかった岡山城だった。
岡山市内にて
そして「晩御飯は何を食べて帰ろうかな~」と考えながら階段を降りていると、目の前にこのような鎧を身に付けた怪しいオジサンの後ろ姿を発見する。そしてしばらくこのオジサンの後ろをゆっくり付いて行って、何者かを観察してみた。
するとどうも無料のボランティアガイドらしく、話を聞いてみると「前は公認のボランティアガイドだったけど、後に観光協会と喧嘩してからは非公認のボランティアガイドだよ!」との事だった。そして身に着けていた鎧は全てこのオジサンの手作りらしく、家から岡山城への移動の際もこの恰好なので、たまに警官に止められて職務質問される事もあるという。
そしてパチンコが大好きらしく、それなりのお金を注ぎこんで負けているとも言っていた。のんびりした雰囲気で面白そうなオジサンで、帰りしなに「これから馬に乗って帰る!」と自転車を指さしていた。そして「たまに落馬する時もあるよ!」などと、もっとお喋りしたくなるオジサンだった。
岡山城もこのようにちょっと離れた位置から眺めると、鉄筋コンクリート造りというのが分かりにくくて、しかも屋根の上に取り付けられている鯱が金色に装飾されているので、とても綺麗に見える。城の外装に金が使われていたという事は、それだけの繁栄を誇った人が居たという事の証でもある。
だけど繁栄は長く続かないのが、地球上の法則じゃ!
そして岡山城の脇を流れる旭川沿いには、このようなボート乗り場が見える。ここではよく見られるアヒルの形をしたボート以外に、「桃ボート」なる桃のイメージを再現した形の漕ぎボートまで用意されていた。ただ料金は観光地だったので、それなりのお値段となっていたが。。
前に岡山城に来た時には、岡山の歴史などに全く興味を持つ事すら無かった。そう思うとその時の自分が若かったと思ってしまうが、今のボクは逆に帰ってからだけど、その地方の歴史を根掘り葉掘り調べて、そういった知り得た歴史を回想して楽しむ人間となってしまったが。。
そして「すぐに忘れる」・・・やろ?!(笑)
そして大通りの下に造られていた綺麗な地下通路を進んで、岡山駅の方まで戻っていく。これから大阪まで帰るのだが、大坂に到着する時間はそれなりに遅くなるので、先にここ岡山市内で何か食べてから帰る事にする。
「カツ丼:野村」でデミ丼を味わう!
そして岡山市内で口コミの良い料理屋を探していると、こちらの「カツ丼:野村」というボクの好きなカツ丼専門店を見つけた。どうせなら岡山名物っぽい食べ物を食べたい気持ちもあったけど、何よりもカツ丼が好きなボクとしては、最近カツ丼を口にしていなかった事もあって直ぐにこの店に決めてしまったのである。
開店前の17時15分頃に到着すると、台湾系か香港系の集団が既に並んでいるのが見えた。この「カツ丼:野村」は”ミシュランプレート”にも選ばれた事のあるお店のようで、海外からの観光客もわざわざ足を運ぶ人気店のようだ。
お店前の景色を見たら、前に『出川哲朗の充電させてもらえませんか?-行くぞ美しき小豆島から尾道!』の中で出川ちゃんが「ドミグラスソースカツ丼」を食べる為に訪れていたシーンを思い出した。
そして夜の営業時間17時30分キッカリにお店の扉が開き、先に待っていた団体から中に誘導されていく。カツ丼のお店なんて、普段は行列に並んで入る事もないので、知らない土地という事もあって、少し緊張気味ではあった。
そして1人という事もあって、調理場に近いカウンター席に誘導される。ここでデミカツ丼を食べるのが旅の終わりでもあるので、それを祝うように瓶ビールを注文する。旅先で味わうビールは美味しいけど、冷静に考えれば、どこでビールを飲んでも美味しいのだが・・・。
「カツ丼:野村」の店内は無機質な感じではなく、テーブルはこのように1枚の大きな板が置かれていて、なかなかに良い雰囲気が漂っていた。そして開店したてにも関わらず、続々とお客さんが押し寄せてくる。
こちらはメニューだが、何と嬉しい事に「ドミグラスソースカツ丼」と「玉子とじカツ丼」のセットが用意されていた。個人的にはドミグラスソースカツ丼を食べてみたいけど、玉子とじカツ丼も普段食べてはいながらも外せないし・・・と悩んでいた所だったので、迷わずこのセットを注文したのである。
ただ普通はこのような”カツ丼の食べ比べセット”など見かける事がないだけに、「ドミグラスソースカツ丼」を初めて食べる人向けに恐怖心を和らげるようなセットメニューだったのだろう。個人的にはカツ丼は”玉子とじ”と決まっているので、名古屋名物の”味噌カツ丼”があったとしても、”玉子とじカツ丼”を選ぶのだが。
そして料理を運んできてくれたのが、出川ちゃんが訪れた際にも対応していた女将さん。後日にこの番組の再放送を見たけど、相変わらずお元気そうな姿でしたね。
この2つの味が楽しめる「ドミグラスソースカツ丼」と「玉子とじカツ丼」のセットは、2つ合わせて1つの丼で大盛に値する”子膳”と、並の量に値する”孫膳”が用意されている。ちなみに旅の最後のシメという事もあって、ちょっと多いとは思ったものの”子膳”を選んだのである。
こちらが岡山県発祥とされる「ドミグラスソースカツ丼」。「ドミグラスソース」はフランス語の「demi-glace」から来ているが、「デミグラス」と呼ばれる事も多い。フランス語的には「demi-glace(ドゥミグラス)」と発音するようなので、デミかドミかは大差なさそうだが。
野村の「ドミグラスソースカツ丼」 動画
この「ドミグラスソースカツ丼」を食べてみた感想は、「・・・・デミだね!」という感じだった。カツ丼というと玉子とじしか頭に想像できない人間からしたら、ベッチャリしてカツの衣に纏わりつくドミグラスソースが、重たい感じにしか思えなかった。
トンカツでもドミグラスソースが掛かっている料理はあまりお店で見ないけど、逆にカレーとのコンビはよく見かけるのは、その相性が関係しているのかもしれない。それかドミグラスソースよりもカレーのルーの方が、日本人の舌に慣れ親しんでいるだけだったのかもしれないが。。
ドミグラスソースカツ丼を食べてから、本命の「玉子とじカツ丼」を味わう。色んなバリエーションのカツ丼を提供する店だったら、色んなカツ丼の種類があるけど、日常的に「玉子とじカツ丼」ばかりしか見かけないのは、恐らくカツ丼には”玉子とじ”が一番相性が良いからだと感じる。
ドミグラスソースカツ丼を食べた後だけに、余計に「玉子とじカツ丼」が美味しく感じてしまった。「新しい味に抵抗感を感じただけでしょ!」と言われたらそれまでだけど、ただ単純に「玉子とじカツ丼」の美味しさが印象的に残った「カツ丼野村」であった。
そして両方ともこのように綺麗に平らげる。どちらも上に乗っている物は違うけど、カツ丼である事には違いない。カツ丼好きにとっては、並ばずに入れて、しかも美味しいカツ丼を提供してくれるお店がすぐその辺にあれば、とても幸せなのであるが。。
そりゃ、贅沢じゃ!
そしてカツ丼で膨らませたお腹をさすりながら、青春18キップを活用して快速電車で大阪まで帰路に着く。中国地方や岡山も電車を使えば比較的簡単に行ける範囲ではありながら、今まで行こうとしなかった自分を軽く車内で反省したのである。
そして今回の旅で初めて使った”青春18キップ”だが、このキップのおかげで一番の目的地だった尾道だけではなく、福山市・三原市・高梁市・岡山市も巡る事が出来た。旅もこのように移動手段を変えてみるだけで、色んな場所を訪れる機会を与えてくれたのである。
JRに感謝した、今回の旅でした!
<まとめ>
さて今回の”尾道地方&岡山旅”は初めて青春18キップという、旅行の際にメリットの出る特別な乗車券を用いた。最近は飛行機やバスで旅先まで移動する事が多かっただけに、久々の電車旅だった。その為にJR西日本の線路沿いの名所をたっぷり訪れる事が出来た。
日本国内の旅を開始した2020年8月に九州に向けて走る新幹線の車窓から気になっていた城の建物は、福山藩の「福山城後跡」だった。新幹線脇に見える城のような建物の中でも、江戸時代から現存するという伏見櫓がそびえ立っていた。しかし、この訪問時は再建された天守の建物はリニューアル工事中で見学できなかったのが残念だった。
そしてそんな福山藩は、島津斉彬公の歴史を勉強した際によく出てきた「阿部正弘」の出身地でもあった。ペリー来航時に老中という江戸幕府の中枢的な地位にあった人物で、開国派と攘夷派に二分する国内勢力の統率に苦労した。また阿部正弘は自分の考えを貫き通すというタイプではなく、目を掛けていた優れた人物の意見に耳を貸して、優秀な意見を採用するタイプだったとか。
残念ながら天守はリニューアル工事で見学できなかったけど、ちょっと早めの桜がチラホラ咲いてくれていた為に、のんびりと本丸内を散策できた。城跡などは訪問時にこのような補修工事中だとガッカリしてしまうけど、逆に見えないからこそ、想像を膨らます事で楽しむのである。
そして福山駅から尾道を通り越して、三原駅まで移動する。この三原駅もかつての三原城本丸内を貫く形で線路が敷かれており、かつての遺構跡よりも経済発展を優先させた様子が見られた。城跡で天守を再建して観光資源に活用する自治体もあれば、このように経済発展を促す線路と駅という使い方もあるのだ。
そしてこの三原を治めていたのは、毛利家の「小早川隆景」。中国地方で大きな勢力にのしあがった毛利元就の息子であり、小早川家に養子入りして毛利勢の全盛期を築いた。そして後に関ヶ原の戦いで有名になる「小早川秀秋」は、この小早川隆景の養子に迎えられた人物である。
尾道や三原といった瀬戸内海沿いの地は、昔から海運の要所として大いに発展してきた場所でもある。しかし、この21世紀となると、世界の主要な物流はコンテナ物流がその大半を占めてしまったので、昔からの小さな港は荷物の運搬の役目は消えてしまって、少ない旅客をフェリーで運搬するだけの場所と成り果てている。
そして楽しみにしていた、昔の日本っぽい雰囲気が残る尾道の街。近代化が進む日本の中でも昔の街並みが比較的残されていて、取り残されている場所かと思っていたけど、訪れてみると昔のいい所を残しつつ、若者や観光客向けにカスタマイズされつつある街にも思えた。
尾道の街は戦争時に空襲で襲われなかった為に、古くからの寺が多く残っている場所でもある。それは江戸時代に尾道水道と西国街道沿いという立地を活かして、儲けた豪商がこのような寺を援助したから、このように多く寺が造られたようだ。しかし、さすがに近年は寺の数も減りつつあり、21世紀には寺の生き残りがターニングポイントにもなりそうに思えた。
そしてこういった坂道の町には、猫ちゃんがのんびりと地域住民達に愛されて生活している場所が多い。逆にこの尾道では、猫ちゃんを観光資源に活用して”猫の町”をアピールしており、お土産屋に入っても猫ちゃんデザインのお土産物ばかりが並べられていた。
坂道で有名な尾道の街だけど、このようなしっかり整備された坂道も実は昔の豪商が整備した坂道だったりで、お金を持った商人がどこでも強い力を持っていた事が伺える。平穏な時代になった江戸時代は、それまでの米中心の経済ではなく、新たに紙幣が沢山発行された為に、資本主義的な経済に進んで行った。
やっぱり水のあるエリアを訪れると、心が和む。それは母なる海の存在が無意識に認識されているからか、それとも海が織りなす波音や心地よい風などを体が感じるからかもしれない。
そして尾道で楽しみにしていた”広島風お好み焼き”。”広島風お好み焼き”でもその中国地方で更にそれぞれにコダワリが違っていて、尾道だと”尾道焼き”と謳っているお店もある。ただ大阪人からすれば「モダン焼き」と呼ばれる、そばが入ったお好み焼きはとても美味しく感じるのであった。
そして最初はちょっと舐めていた千光寺山の坂道だけど、いざ下から上まで登ってみると、途中で息が切れてしまって、上に辿り着く頃には汗だくの状態となってしまった。この千光寺山の上に宿泊するホテルがあるのだが、汗だくの状態でチェックインするのもちょっとカッコ悪いので、一旦少し休憩してから訪れた。
するとフロントのお姉さんが「全然汗かいてませんね、凄い!」と言ってくれたけど、実は汗をめっちゃ掻いた後だったのである。。
そしてこちらがその千光寺山の上にある、今回の旅で宿泊した「尾道ビュウホテルセイザン」。尾道の宿泊施設の中でも口コミ評価が高かったので予約したけど、口コミ評価がもし見られなかったら、このホテルに泊まっていなかったかもしれない。
今はネットで簡単に口コミ評価が見れるけぇのぉ!
そしてこの「尾道ビュウホテルセイザン」の立地は、このように千光寺山の上に造られている。車であれば千光寺山の上までは、山の反対側を登って来れるが、それ以外の交通手段は千光寺のロープウェイしかない。しかもそのロープウェイは17時ぐらいで営業終了となってしまうので、夜は徒歩で登るしか方法がないのである。
しかしそんな千光寺山の上まで登って宿泊してみると、翌朝に窓から見えた景色だけで、頑張って坂道を登ってきた甲斐がある景色が待ち受けていた。朝日が尾道水道に反射して、気持ちいい朝を演出してくれていた。
そして尾道で一番有名な名所「千光寺」は、実は今回の旅で訪れるまで、その存在自体を知らなかった。信仰心が無い人間だとこのような寺などにはそこまで興味を持たないけど、長い歴史がある寺ほどに多くの人を惹きつける物があるのだろう。
こちらは千光寺近くの広場で見つけた、”男前猫”ちゃん。猫ちゃんの顔もそれぞれに個性があるけど、この猫は目元がキリっと吊り上がっていて、性別がオスだったのかは分からないけど、とりあえず”男前猫”と名付けてみたのであった。
そんな昔の雰囲気が残る坂道エリアも、実は空き家が増えてきていて、尾道市も頭を悩ませている。そんな中でも尾道市では空き家を改装して再活用するプロジェクトが行われていて、ここ「猫の細道」なる狭い路地は、猫ちゃんを観光資源として活用する事によって、新たな観光需要を生み出す場所に変身していた。
そして尾道は映画監督だった大林宣彦の出身地で、彼の代表作品のロケ地として使われた場所でもある。とある有名な映画の代表的なシーンが撮影された寺を訪れると、寺よりもまた1匹の猫ちゃんに心を奪われてしまったのである。
こちらは男前ではなく、”膝に乗りたがる猫ちゃん”という、とにかく人間の膝の上に乗りたくて仕方がないという猫ちゃんだった。猫ちゃんが喜んでいる仕草で「大きく背中を丸めて尻尾を伸ばす姿勢」が見られるが、ボクが近くに腰掛けようとしただけで、この猫ちゃんはその嬉しそうな仕草をしてすぐに膝の上に乗り込んできた。
そして普通の猫ちゃんだったら膝の上に乗っても、ちょっとしたら飽きてどっかに行く事が多いけど、この”膝に乗りたがる猫ちゃん”はいつまで経っても膝の上から微動だにしなかった。肩の上に乗っているのであればそのまま歩けるけど、膝の上に乗られたまま歩く事は出来ないので、次の場所に行きたいけど、膝の上で嬉しそうにしている猫ちゃんを見ていたいというジレンマに陥ってしまった瞬間でもあった。
そして尾道では千光寺が有名だけど、”尾道三山”と呼ばれる千光寺と並んで尾道を代表する2つの寺がある。若者達は千光寺周辺しか出没していなかったけど、このように足を延ばして色んな所を訪れる事で、より多くの事が勉強できるのである。
ここは”尾道三山”の中でも真ん中に位置する「西國寺」。尾道にある寺の中でも最大級の境内を誇る大きな寺だが、広いというよりは縦長になっていて、奥の西國山頂上に向けて切り開かれた場所という雰囲気であった。
そして”尾道三山”の3つ目である「浄土寺」も訪れる。この浄土寺に向かう途中に歩行器を使って歩いていたおばあちゃんがコケていた為に、介助しながら家まで送り届けてあげた結果、そのおばあちゃんの家がこの浄土寺前だったという偶然があった。
これも運命のお導きや!
浄土寺には尾道でも数少ない国宝に指定されている、鎌倉時代からの建物が現存している。そんな昔から仏教が国内に浸透していた事を証明する建物であり、時の権力者が仏教を支援していた事が伺える。
その浄土寺裏の山を登っていくと、頂上付近に展望台が造られていた。ここは浄土寺の”奥の院”がその手前に造られていたけど、このように尾道でも一番見晴らしが良い場所だった。一応車でもこの浄土寺山の展望台に行く事は出来るけど、その登山道を敢えて歩いて登った方がより気持ち良く思えるので、個人的には徒歩で登る事をオススメする。
そして浄土寺山の上から、次のチェックポイントとして眺めていた「尾道大橋」。この尾道大橋が造られるまでは、対岸の向島までは渡し船でしか行けなかったのが、橋が架かった事で陸続きとなった。ちなみに隣にもう一本の橋が見えるが、こちらは「新尾道大橋」で自動車専用道路で有料となっている。
なお「尾道大橋」はこのように歩道部分が狭い事もあって、尾道市側からは観光客にはその利用は”非推奨”とされている。なので尾道に来て”しまなみ海道サイクリング”を行う人は、この橋を渡らずに渡し船を使うように説明される。
尾道と約200mほどの海を隔てた対岸の向島。その僅かな立地の違いで大きく商業地として発展した尾道と、造船業で生き残る向島と全然特色が違っていたのも興味深く思えた。
”わけぎ”がタップリと入った「向島ラーメン(尾道ラーメン)」。普通のネギではなく、全国的に広島県が一番の生産量を誇る分葱が使われていて、地方に来るとその土地ならではの食材が楽しめる。
千光寺山の上に造られている「尾道市立美術館」は、あの安藤忠雄の設計したコンクリートの建物となっている。外観は綺麗だったけど、日本国内に金が余って仕方なかったバブル期に計画された場所のようにも思えた。
そんな千光寺山の上にある千光寺公園内には、この見た目は灯台に見えるサル園が設置されていた。かつては動物園として営業していた千光寺公園も、今ではその動物園も廃業してしまっており、このサル園に残っていた1匹の猿も、ボクが訪れた直ぐ後に衰弱死していた。
高齢化の問題は、人間だけの問題じゃないでぇ!
そして尾道の街は昼間だけではなく、夜もこのようにライトアップされている箇所が多くて、見所満載であった。ただでさえ坂道の路地地帯で空き家も多い事もあって、防犯対策の一環にもなっている明るい照明の設置が、このような町をライトアップしているイメージも創り出していたのかもしれない。
「江戸時代から現存する建物・・・」という文言だけでも驚くのに、鎌倉時代から現存する建物なんて想像にも付かない。そのような昔からこんな建造物を人力だけで作り上げる技術があった訳で、昔の人達の技術力に改めて驚くのである。
今回の旅でこれまた楽しみにしていたのが、尾道側から攻める”しまなみ海道サイクリング”であった。前回は今治市側から出発したサイクリング旅であったが、前回訪れた中間地点の伯方島まで訪れる事を目標として出発した。
しまなみ海道をサイクリングすると、瀬戸内海の島々を巡るというよりも、その島々に架けられた立派な橋を渡っていったイメージの方が強い。人類がつい最近まで船でしか往来出来なかった場所に、ここ数十年だけで何本もの立派な橋が架けられているのだ。
普段はあまり甘い食べ物を食べたいとは思わないけど、この「はっさく大福」だけには心が奪われてしまった。中にはっさくという果物が入っていて、しかもその八朔の発祥の地でもある因島で食べれるとなったら、もう後は”食べる”という選択肢しかないのである。
瀬戸内海というと、昔は「村上海賊」とも呼ばれた水軍が活躍した地域でもある。特にこの瀬戸内海エリアは海運の重要な航路でありながらも、小さな島々が沢山存在していて、その島の間で急な海流が発生していたりで船上案内人が不可欠な場所でもあった。
海賊や山賊などという存在は秀吉が天下統一されると淘汰されてしまったが、その地域に詳しい道先案内人でもあったのだろう。特に昔はレーダーやGPSも無かった時代なので、このような案内人が重宝されていたようだ。
そして「水軍」だった勢力だけあって、このように武士の一番お洒落な部分でもあった兜の前立てには、海産物がデザインされていたのが興味深く思えた。今だったら”ホタテ貝王子!”とかアダ名が付けられそうな兜だが、奇抜なデザイン程に逆に同じデザインと被る事がなかったので好まれていたのかもしれない。
このような前立てを見ていると、「ホンマにこんなの、使われていたの??」と思ってしまう程だった。しかし昔は冗談ではなく本気でこのような兜を被っていただろうけど、どうせなら着脱式にしてその日の気分で付け替える事が出来たら、より楽しかっただろうなと思ってしまう。
瀬戸内海の島々もその温暖な気候を活かして、今ではレモンなどの産地として有名になっている。江戸時代には塩造りをしていた時代もあったが、明治時代以降に塩の専売化や低コストの外国製が好まれていった為に、仕方なしにレモン作りにシフトしていったという過程もある。
そして”しまなみ海道”は広島県と愛媛県の2つの県に跨っていて、今回もちょっと足を延ばして愛媛県側に侵入した。
この多々羅大橋はしまなみ海道に架かる橋の中でも最後の方に完成した橋で、日本の技術力が籠められた傑作となっている橋でもあった。橋の事を気に掛けないと気付かないけど、こういった橋の事を頭に置くだけで色んな事を勉強する事が出来るのだ。
そんな多々羅大橋をバックにして、サイクリストの聖地碑がある場所で、人型サイクルスタンドの記念写真を撮ってあげた。単なる鉄を折り曲げて加工しただけで、このように人間っぽく可愛らしく見えるアイデア商品であった。
そして何とか目的地の「伯方島」まで到達する。「伯方島」と聞くと頭に浮かんでくる”伯方の塩”だが、今はこの伯方島ではなく、隣の大三島に製塩工場がある。しかも原材料の塩はメキシコとオーストラリアから輸入されており、純粋に伯方島で出来上がった塩は今では見られなくなっているのであった。
そんな”伯方の塩”が入った塩アイスを味わって、しまなみ海道サイクリング旅を頑張った自分をねぎらう。前回今治市側からサイクリングした後に、膝横の骨が痛くなって疲労骨折っぽい症状が起きた為に、今回も何かしらの後遺症が出る事を覚悟していたけど、幸いにも体に異常は出なかった。
そして伯方島から瀬戸田港まで必死に自転車を飛ばして、尾道まで帰るフェリー最終便にギリギリセーフで乗り込んだ。そんなフェリーの船上では周囲は若者観光客だらけだったが、オジサンっぽく日本酒を1人グビっと楽しむ。
夕陽も眺める所で全然違ってくる。初日はまだ新しくて綺麗な尾道市役所の最上階から眺めたけど、このように水上を走るフェリーの後ろから眺めてみるのも、また綺麗であった。
そしてそのサイクリング旅の夜も広島風お好み焼きを味わったが、個性的なオジサンがワンマンでやっているお店の方が”独特の味”があって面白かった。やっぱりこういった焼き物の料理は、目の前の熱い鉄板の上を「ジュ~ジュ~~!」と音を立てながら焼かれていく光景を見た方が美味しく思えてしまうのである。
そして何とも幻想的な向島ドックの夜景&ライトアップ。尾道側からだとこのように水面に反射している景色も含めて綺麗に見えているけど、対岸の向島からはそこまで綺麗に見えないのだろうが。。
広島県内でも人気の千光寺公園の桜。この訪問時はこのように桜の開花にはちょっと早かったけど、その代わりに他に全然花見客が居なかったので、1人で独占出来て幸せであった。
そして最終日は帰り道の途中に、岡山県の高梁市に立ち寄る。するとその中心地の備中高梁駅前には、新しい複合ビルの連絡通路と直結した「高梁市図書館」が見えた。この図書館は高梁市が蔦屋の親会社にその運営を委託した”ツタヤ図書館”なる場所で、スタバと蔦屋の店舗が入っていてお洒落に思えた。
しかし実際には、裏で蔦屋の親会社と高梁市の偉いさんの癒着問題が判明し、また民間で図書館を運営する際には、揃える本の種類や個人情報の管理などで地元住民から苦情が多いようだ。個人的にはよく図書館を利用するので、このような利益優先だけを追求する民間会社に運営委託して欲しいとは思わないが。
理想と現実は、全然違うけぇなぁ!
そしてこの高梁市では、江戸時代から現存する天守の「備中松山城」以外の、知っている知識は訪れた時点では皆無であった。そんな何も知らない町を歩いていると見えてきたのがこちらの「山田方谷」の銅像で、高梁市ではこの山田方谷の銅像しか見かけなかったので、この人物を知れば高梁市の歴史が分かる事だろうと直感したのであった。
地方の町では江戸時代からの面影を残す武家屋敷群が残されているけど、それは逆に近代化に乗り遅れた地方都市ならでは光景でもある。またそんな昔からの建物群も、老朽化で壁などが汚くなっている箇所も見受けられ、維持するだけでそれなりの費用が掛かっていくのである。
そして江戸時代から現存する天守の中でも、山城として最も高い位置にある備中松山城。石高5万石(実際には約2万石)という全国的に小さな藩だったけど、城構えはとても立派であった。
この備中松山城が現代まで残ったのは、その山城という人里離れた立地のおかげでもあった。この城が城下町近くの平城だったら、恐らくもっと早い段階で取り壊されていただろうが、人が来にくい場所というのが生きたのである。
ただ江戸時代から現存する天守といっても、近年には数回補修工事が行われていて、天守の建物を支える木材などは新しい物と取り換えられている。”木は長持ちする”とはいいながらも、腐った箇所が出てしまうと朽ちるのも早い。そういった意味では、人間も木材も”腐ったら終わり”である。
2層の小さな天守だった備中松山城。江戸時代は城主が次々と立ち替わって、歴代城主の名前を見ても全くピンとこない人物ばかりであった。しかしその歴代城主の中に「大石内蔵助」という、日本国内では有名な人物が約1年程城を預かる形で城代を務めていた期間もあったお城だった。
そして江戸時代の天守という事で、2階に登る階段がとても傾斜がキツかった。しかし、このような階段こそが江戸時代の天守という建造物を表したもので、再建された天守にはこういった登りにくい階段が採用されていないのが、いつも残念に思う。
天守といってもこのような狭い空間しかない。現代では展望台や観光地として使われている大きな天守閣の建物だけど、元々はその建物を使う人は限られていたので、快適性など皆無の建造物だったのだ。
こちらは備中松山城の天守裏にあった「二重櫓」で、実はこの櫓も天守と同様に江戸時代から現存する建造物なのである。しかし、多くの観光客は天守の中を見学するだけで帰ってしまうので、そういった人達の姿を見ていると勿体なく思えてしまうのである。
江戸時代にはそれまでの時代に地位が優遇されてきた武士が、一転してお荷物となってしまった時代でもあった。というのも江戸時代になると戦いが殆ど起きなくなってしまった為に、戦いを職業としていた武士達の仕事が無くなってしまったからだ。
しかし武士達は戦いが無くなったにも関わらず、農作業や商売を行う事は高いプライドの為にせずに、ひたすら藩から給料を貰うだけの役立たずとなってしまった。そういう時代背景もあって、米沢藩では上杉謙信時代のプライドを持った武士をリストラせずに大勢雇ったままにしていたので、藩は潰れる寸前まで陥ってしまったのである。
しかし米沢藩には上杉鷹山という救世主が表れ、借金だらけの藩に改革を行って財政状態は改善した。江戸時代の改革者として、上杉鷹山と共にその業績が知られているのが、こちら備中松山藩の「山田方谷」である。この山田方谷の成し遂げた業績はとても素晴らしいのだが、意外と知名度が低く、上杉鷹山の名は聞いた事があっても山田方谷の名を知っている人は殆どいないのが現状である。
山田方谷は3歳から漢字を練習しだして、その才能は”神童”としてすぐに知れ渡る程だったという。そして5歳頃に新見藩の儒学者の塾に送り込まれ、当時流行っていた朱子学を勉強した。そして後には朱子学と対を成す「陽明学」も学び、儒学者として知られる存在になっていく。
山田方谷が江戸で学んでいる際に同門だったのが、勝海舟や坂本龍馬も師事した「佐久間象山」で、山田方谷と佐久間象山は毎日のように討論したが、最終的にはいつも山田方谷が論破していたといわれている。
そんな朱子学と陽明学をマスターした”賢人”の山田方谷を自分の右腕に抜擢したのが、備中松山藩主となった「板倉 勝静」。板倉勝静も次期藩主として山田方谷から帝王学の指導を受けていく中で、信頼に足る人物と見抜いた。そして自分が藩主に就任すると、藩政のトップに山田方谷を据えて、全権を与えた。
そしてその山田方谷が行った改革で、備中松山藩は10万両という借金だらけの危機的状況から、約8年後には逆に10万両も貯金ができる程に生まれ変わってしまう。そしてその藩改革の実績が認められ、また板倉勝静は徳川吉宗の血筋という事もあって、江戸幕府最後の老中首座にも就任してしまう程に出世したのである。
山田方谷が行った改革に関しては、今では普通に行われているようなシステムも、その江戸時代にはそういった発想がなかったので、誰も行おうとしなかった事ばかりであった。システム的には、無駄な経費を払ってばかりで儲からない部署は廃止し、直接本部が運営して、中抜きされていた費用をそのまま利益に変えたのだ。
また財政だけではなく、教育と軍備にも力を入れた。改革は1つずつ行うのではなく、問題へ全てアプローチする事によって、1つ改善されていくとその相乗効果が拡がって、より推進力が付いて行ったようだ。
そしてそんな山田方谷の心には『誠意』という2文字が常にあった。
人間という生き物は奢ると、必ず贅沢をして、最終的には身を亡ぼす。
これは古代中国の歴史を見ても、国内の歴史を見ても、ヨーロッパの歴史を見ても、どこでも同じような事例ばかりである。
方谷は贅沢を固く禁止した。
役人の汚職や接待も固く禁止した。
そして自分自身の自己管理を厳しく求めた。
また方谷自身も、自分の台所事情を公開し、藩政を行う身分ながら贅沢をしていない事を公開した。
また奥地への開墾を頼むだけではなく、自分も率先して山奥に開墾しにいき、その姿を見せつけた。
このように過去の偉人を学ぶと、この現代にも通じる事象が多い事に気付く。
ではそんな過去の事例が沢山あって、何で賢人達の教えに学ぼうとしない現代人ばかりなのか?
その答えは『贅沢』だからである。
現代人は生まれながらに色んな物が揃った環境に生まれてしまっているので、生まれた時点で贅沢だという認識がない。
そして物が豊富な時代に暮らすと、他人よりも物が豊富な生活に対して、”幸福感”があるように心理が操作されている。
テレビやネットなどの番組や広告では、「人よりも贅沢を楽しもう!」などという趣旨で、会社の商品を買わせる広告などが嫌になる程に垂れ流されている。
そして働いて稼いだお金を、ただ一時の幸福感が得られるという理由から、”贅沢”を買ってしまうのである。
そして”労働して贅沢する”のが、知らずのうちに”贅沢する為に働く”と成り果てている。
しかし、そこに本質は無くて、”贅沢”はその人間にとって将来性に繋がらない。
だが多くの現代人は”贅沢”をする事が唯一の楽しみと認識させられてしまっているので、もう贅沢は止めれない状態となっている。
更に資本主義は、そのような”贅沢”による出費に支えられて成長する社会なので、”贅沢”が”贅沢”を更に呼び込む。
そして”贅沢”が止まると経済が止まってしまうので、”贅沢”を助長する政策ばかり行う。
ただ最終的には過去の歴史を見れば分かるように、行き過ぎた”贅沢”は身を滅ぼし、その国も亡ぼす。
「日本は潰れないよ!」って平気で言う人間がいるけど、江戸幕府も鎌倉幕府も室町幕府も全て潰れている。
今の日本という国が、滅びないという事はない。
冷静に今の日本を分析すると、少子高齢化で国の収入が減って、更に国債を大量に発行して借金しまくりの現状を悲観的に捉えられない人間は、自分の置かれている足元が見えない盲目状態と言っても過言ではないと思う。
これからの日本、そして世界、更には地球を救う為には、ここ高梁市で学んだ偉人の教えに従う必要があるのではなかろうか。
この世には偶然はなく、全て必然と思うようにしている。
という事はこの高梁市をたまたま訪れながらも、この山田方谷という人物の事を知ったのも必然である。
その出会いは、「贅沢を控えて、目の前の問題と対峙しなさい!」という事を教えてくれたのである。
くしくも方谷は『誠意』をよく口にしていたという。
またボクの尊敬する、とある社長も『誠心誠意』を信条としていた。
過去の歴史の通りに出来事が再現される訳ではないけど、少なくとも過去の事例を見ていると、所詮同じ欲望にまみれた人間なので、似たような行動をする可能性が高いだけである。
なので滅ぶ世界に向かうか、滅ばぬ世界に向かうかは、自分の行為次第である。
たまには自分自身を見直し、自分の中で革命を起こす必要性を考えてもいいのではなかろうか?!
そう感じた、今回の旅であった。
まずは贅肉から取り組みましょう!(笑)
以上 2022.8.31
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