備中松山城時代の城下町を抜けて、山城への登山道へ向かう【尾道&岡山旅行記㊺】

尾道(広島)&岡山旅行記2021年3月-㊺

旅行期間:2021年3月某日(3泊4日旅)

静かな佇まい!

高梁市 街並み 城下町 

ここは岡山県でも内陸部の「高梁市」。江戸時代には備中松山藩という小さな藩が治めていた土地だが、江戸時代には7つもの家柄が入れ替わったので、この備中松山藩という名前は全国的にも知名度が低い存在となっているようだ。

 

 

岡山県高梁市にて

高梁市 街並み 城下町 頼久寺

しかし5万石という全国的には小さな藩であった備中松山藩だが、それでもそれなりに城下町も形成されている。そしてその一角に立派な城郭のような石垣や塀が見えてきたが、こちらは「頼久寺(らいきゅうじ)という臨済宗永源寺派の寺。

 

【天柱山 頼久寺】

住所:岡山県高梁市頼久寺町18
営業時間:9時~17時頃
電話番号:0866-22-3516
拝観料:大人400円/中高生200円

 

 

高梁市 街並み 城下町 頼久寺 門

この「頼久寺」の創建年代は不明だが、1300年代に足利尊氏によって”備中国安国寺”として再興された。そして1500年代初頭に備中松山城の城主となった上野頼久が、荒れ果てていた備中国安国寺を再び再興し、今の「頼久寺」という名前に改められたようだ。

 

高梁市 街並み 城下町 頼久寺 境内

そして関ヶ原の戦いが終わって、この備中高梁に覇者となった徳川家康の派遣した代官:小堀正次が就任する。しかし小堀正次は就任して約4年後に死去してしまい、代わりにその子供の小堀政一(遠州)がその役目を継ぐ。なお、その時代には備中松山城は荒廃していたので、小堀政一はこの頼久寺に拠点を置いて藩政を行っていたという。

 

高梁市 街並み 城下町 頼久寺 看板

そしてこの頼久寺には、”名勝”の頼久寺庭園が境内に造成されている。その頼久寺庭園は上記の小堀政一がこの場所で藩政を行っていた際に、造成した場所だとされている。蓬莱式枯山水庭園となっているようだが、その拝観には別途料金が発生する。

 

高梁市 街並み 城下町 頼久寺 社殿内

ただ日本庭園にはそこまで興味が無いので、これ以上中に入るのは諦める事に。ちなみにこの頼久寺庭園の拝観料は大人400円となっていて、ごく一般的な値段だったが。

 



 

【頼久寺】高梁市公式チャンネル 動画

桃四郎
桃四郎

頼久寺庭園が気になる人は、上の動画をチェックしてね!



 

 

高梁市 街並み 城下町 ふるさと村

そして目指す山城の備中松山城は、右奥の小高い山の上に造られている。そしてその手前には、「石火矢(いしびや)町」という武家屋敷群が広がっていて、江戸時代の街並みを思わせる景色が広がっている。

 

高梁市 街並み 城下町 ふるさと村 景色

ただ武家屋敷群とはいいながらも、現代風に車が見えていたりなどの景色は致し方ない事。それよりも屋敷の塀が汚れていたり、剥がれ落ちていたりしている箇所も見受けられた方がちょっと残念ではあったが。このような武家屋敷群を保存するにしても、常に補修を行わないとその景観がどんどん汚れていくようだ。

 

高梁市 街並み 城下町 ふるさと村 寅さん ポスター 渥美清

こちらには懐かしの俳優:渥美清が演じた”寅さん”でも有名な、映画『男はつらいよ』のポスターなどが張られていた。なおこの備中高梁が『男はつらいよ』のロケ地として使われたのは、第8作「男はつらいよ 寅次郎恋歌」(1971年)と第32作「男はつらいよ 口笛を吹く寅次郎」(1983年)となっているようだ。

 

『男はつらいよ』で高梁市がロケ地に使われた作品↓

第8作 『男はつらいよ :寅次郎恋歌』 予告篇

 

第32作 『男はつらいよ :口笛を吹く寅次郎』 予告篇

 



 

高梁市 城下町 ふるさと村 武家屋敷

この城下町跡には、見学できる武家屋敷もあって、その屋敷は保存されている事もあってか、外壁などは綺麗に塗装されているのが分かる。しかし、この通りの建物全てを税金で補修するとなると大変なので、全ての壁が綺麗に管理されている訳でもないのだろう。

 

 

高梁市 城下町 ふるさと村 武家屋敷 入口

「武家屋敷」という名前からも分かるように、この家には武士が住んでいた。藩士として備中松山藩から俸禄(給料)を貰い、城の近くに居を構えていた。このような武家屋敷は万が一敵が襲ってきた時には、その防御拠点にもなる役割があった。

 

高梁市 城下町 ふるさと村 武家屋敷 外観

このような家の中にも実際に人が住んでいる建物のあるようで、観光地といいながら勝手に人の家の中に入る行為は勿論NGである。また、観光客だからといって大きな声で騒ぎ続けるという行為もタブーである。

 

高梁市 城下町 ふるさと村 地図

日本イチの標高の高さに造られていた山城の「備中松山城」は、このように山の麓に城下町が形成されていた。ただ江戸時代には平穏な時代だった事もあって、その天守閣で藩主は実務を行っていた訳ではなく、その麓に御殿を造って山の下で藩政を行っていたようだ。

 

高梁市 城下町 牛麓舎跡 記念碑

そして備中松山城の登山道へと向かって進んで行くと、こちらの「山田方谷先生家塾:牛麓舎跡」という石碑が見えてくる。備中松山藩の中心的な人物として未だに崇められる山田方谷が、藩に認められて「有終館」の学長に任命され、この地に家塾を開いた場所だという。

 

高梁市 城下町 牛麓舎跡 記念碑 バス停

なお、この「牛麓舎跡」前には、こちらの「備北バス:松山城登山道停留所」の看板が置かれていた。備中松山城に最寄り駅の備中高梁駅からアクセスする場合には、高梁市を循環する備北バスに乗ってここまでやって来る手段もある。

 

高梁市の案内によると、

備中高梁駅から備中松山城登山口までのアクセス
①徒歩だと約40分
②路線バスだと約10分

となっている。

 

ただ、高梁市を循環する備北バスもそこまで本数が充実していないので、バスで登山道まで向かいたい人は前もって備北バスの時刻表を確認しておいた方が良さそうだ。

 

ボクは歩き一択ですが!

 

高梁市 備中松山城 麓 道

そして備中松山城が造られている臥牛山が、段々近く見えてきた。そしてこの辺りからは傾斜がきつくなってきて、これから先は坂道が続いていくようだ。なお、車で来城する場合は左の道を進んだ先に駐車場が用意されているので、登山道はあまり登らずに城まで辿り着けるようだ。

 

高梁市 備中松山城 麓 道 牛麓舎橋

そしてその脇には、「牛麓舎橋」という橋も架けられていた。そして写真には写ってはいないけど、この短い牛麓舎橋を渡った左手に、「岡山県立高梁高等学校」という学校が造られている。ちなみにこの岡山県立高梁高等学校出身者の中には、映画評論家としても有名だった水野晴郎もいるのだ。



 

 

水野晴郎・映画解説 「カリオストロの城」

昔民放のゴールデンタイムで映画が放送されていた時代は、この水野晴郎氏や淀川長治氏のように、前説的な映画の解説シーンが必ず見られたのだ。

桃四郎
桃四郎

金曜ロードショーの顔じゃった水野晴郎さん、懐かしいなぁ!



 

高梁市 備中松山城 麓 橋 欄干

そしてその牛麓舎橋の欄干は、このように木々に囲まれた備中松山城天守閣の姿がイメージされたデザインとなっている。なお、明治時代の廃城令以後は高い場所にあった事もあって、備中松山城は放置され続けて廃墟となり、周囲の木々が生い茂って周りからは見えない程に廃れてしまったという。しかし、その周囲に生えた木々にカモフラージュされ、戦争時には敵に城を発見されなかったとか。

 

高梁市 備中松山城 麓 登山道

そして民家が立ち並ぶ坂道を進んで行くと、もう100mほど進むと備中松山城へ繋がる道が出てくるようだ。ただ周囲には同じように備中松山城に向かう人の姿が全く見られなかったので少々不安になったけど、このように案内看板も出ていたのでそれを頼りに進む事にした。

 

高梁市 備中松山城 麓 登山道 川

この登山道に進む道の脇にも、このような小川が流れているのが見える。恐らくこの川も、近くの山の上に造られた備中松山城の内堀的な川として整備されていたのだろう。

 

高梁市 備中松山城 麓 登山道入り口

そしてこの川沿いには、このように石垣が積み重ねられた場所も見えてくる。この辺りはかつて存在していた山城のちょうど下辺りに位置するので、それなりに重要な建物が造られていた場所だった可能性が高い。

 

 

備中松山城の登山道にて

高梁市 備中松山城 麓 登山道入り口 看板

そしてその立派な石垣が見えた場所に向かって架る橋の先が、備中松山城の登山道の入口になっているようだ。なお、徒歩で備中松山城を訪れる場合には、無理してこの登山道を通らなくても、車道を進んで行けば城まで辿り着けるようになっている。

 

高梁市 備中松山城 麓 登山道入り口 三島中州宅跡

さっきの石垣の上には、こちらの「虎口渓舎(ここうけいしゃ)跡」という「三島 中洲(みしま ちゅうしゅう)が開いていた塾跡の記念碑が見られた。三島中洲という人物は倉敷市出身で、後にこの高梁市で山田方谷に学んだ後にその有終館の学長を引き継ぎ、この場所で門下生を教育した。そして後に司法省に出仕し、その後は東京大学教授となって更に多くの学生を教育していった。

 

高梁市 備中松山城 麓 登山道入り口 

そして進んで行くと、備中松山城の登山道が見えてきた。特にそれっぽい記念碑とか設置されている訳ではなく、ちょっと地味な感じの登山道だった。ただ通行止めとはなっていなかったので、ちょっと一安心である。

 

高梁市 備中松山城 麓 登山道入り口 石碑

この登山道(登城道)は天守閣まで約1500mとなっているが、途中に「ふいご峠」という8合目にある場所に駐車場が造られており、そこにも連絡している道。だからちょっとこの登山道が怖そうだと思う人だったら、無理してこの登山道を登らなくても、車道を登っていくと8合目でこの道と合流できる。

 

高梁市 備中松山城 麓 登山道入り口 説明

この備中松山城がある山は「臥牛山(がぎゅうざん)と呼ばれており、この周囲にある4つの山を総称した名前となっている。なお、この臥牛山で最も標高が高いのは”天神丸山”で高さ約487mとなっていて、備中松山城のある”小松山”は高さ約420mとなっている。

 

高梁市 備中松山城 麓 登山道入り口 臥牛山

なお、「備中松山城」という城の名前は、この山がかつて”松山”と呼ばれていた事もあって、その名前が付けられている。ただ「松山城」というと、今の愛媛県に同じ名前の「(伊予)松山城」が存在していて、間違える可能性がある為に「備中松山城」という名前になっている。

 

明治時代には敵対した新政府軍から、伊予松山藩と名前が似ていて紛らわしいので「高梁藩」と名前を変更させられたという。確かに愛媛県の「松山城」といい、ここ高梁市では「備中松山城」と混同しやすい名前になっている。

 

高梁市 備中松山城 麓 登山道入り口 臥牛山 看板

この備中松山城の天守がある小松山の上まで続く遊歩道を、これから進んで行く事にする。勿論このような自然の道はゴミなどを捨てる場所ではなく、この道を今まで通ってきた多くの先人達に敬意を払いながら進む必要がある。

 

高梁市 備中松山城 麓 登山道入り口 臥牛山 サルの看板

この臥牛山には、200匹近くのニホンザルが生息しているという内容の看板も見られる。昭和30年代にこのニホンザルへの餌付けが成功して、この辺りは自然動物園として管理されていたようだ。

 

しかし1991年をもって、その自然動物園は閉鎖され、ニホンザルは自然に戻された。この自然動物園が廃止されたのは、人工的な餌付けを行った事による弊害が起きたからともされているようだ。餌付けによって猿の個体数が激増し、猿の生息域が広まった為に人に危害が起きるようになった。それと人工的に餌を与える事によって、奇形の子が生まれるようになったらしく、自然界に生きていた動物は人の手が加えられない方がいいようだ。

 

高梁市 備中松山城 登山道 臥牛山 進む

この登山道に足を踏み入れるけど、この時は誰の姿も見かけなかったので、少し心細くなる。しかし2020年から国内を巡り出して、何度も誰も居ないような道を進んできた経験があるので、特に心配する事もなく、足を踏み出していく。

 

高梁市 備中松山城 登山道 臥牛山 進む 山道

そしてこの登山道は綺麗には整備されていないけど、所々に石段跡みたいな石が転がっており、かつての城へ登城する為に多くの人達が通った道でもある。そんな歴史的な道を、1人進んで行くのであった。

 

こんな旅はまた次回に続きます!

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