尾道(広島)&岡山旅行記2021年3月-㊻
旅行期間:2021年3月某日(3泊4日旅)
山城は疲れる?!
ここは岡山県高梁市にある、国内で江戸時代から現存する12の天守閣の1つが残される「備中松山城」へと続く登山道。この山城へと向かう登山道(遊歩道とも)は、このように見る限りはそこまで手入れされていないように見えるけど、特に歩きにくかったりは感じなかった道でもあった。
「備中松山城」の登山道を進む!
この備中松山城へと向かう登山道の長さは約1500mで、 臥牛山の標高430mの地点に造られている天守閣へは、徒歩で約30分程は掛かる。ここにはロープウェイなどの施設はなく、車だと山の8合目まで行けるが、バスだとこの山の下の「登山道入り口」までしか辿り着けない。
この臥牛山ではかつてニホンザルを餌付けして自然動物園を運営していた事もあって、この登山道にもニホンザルが出没する可能性があるという看板も見られた。特に1人でこの登山道を歩いていたので、余計にサルの出没に警戒していたけど、結局この時はニホンザルとは遭遇しなかった。
サルはボクの大事な仲間じゃ!
そしてこちらに見えた岩は、播州赤穂藩の家老だった「大石 良雄」が腰掛けた岩だという。この大石良雄という人物は、日本人なら誰でも知っている”忠臣蔵”のストーリーに登場する、主君の仇討ちを先導した「大石 内蔵助(くらのすけ)」である。
この備中松山城は江戸時代に入ってから、「小堀家」⇒「池田家」⇒「水野家」⇒「水谷家」と城主が次々と変わっていき、1642年から入城していた水谷家も3代で後継ぎ息子が生まれずに改易となってしまった。その城主不在の間に、広島藩の分家筋である赤穂藩浅野家が備中松山城を預かる事になった。その際に派遣されたのが「大石 良雄(内蔵助)」で、ここで約1年7か月程滞在していたとされる。
そして1人寂しく登山道を歩いていると、だんだんと上の方から人の声が聞こえてくるようになる。約10分程で「ふいご峠」という場所に辿り着き、ここに駐車場が造られていて、車でやって来た人はこの地点まで労力を使わず登ってこれるようだ。
しかし備中松山城は山城なので、車でやって来た人もここから先はみんな徒歩で進まなければならない。この駐車場のある「ふいご峠」からお城までは、まだ700m近く歩かないといけないようだ。
ただこの駐車場のあった「ふいご峠」から先の道は、先程通ってきた登山道とも比べて、人通りが多いのもあってか、このように道がそれなりに整備されていた。ここまでやって来ると、「周囲に誰もいないけど、本当にこの道でいいのか??」という不安が消えたけど、それはそれで逆に緊張感が消えてしまったので、面白みが減ってしまったという事でもある。
このようにしっかりと階段も設置されていて、先程まで歩いてきた土が剥き出しの道とは全然違う雰囲気になっている。しかし、昔江戸時代の城の雰囲気を楽しみたい人にとっては、舗装されていない土の道を歩いている方が楽しめるのだろうが。
この備中松山城へと続く道には、このような”登城心得”という札が立てられていて、『あわてず ゆっくり歩むべし 城主』と文字が書かれているのが見える。山城はひたすらに登らないといけないので、普段はあまり階段を歩かずにしんどいと思う人は、途中に何回も休憩を挟みながら登ればいい。
そんな階段を登っていくと、城っぽい石垣がやっと見えてきます。こちらは物見櫓の建物が載っていたような石垣ですが、こんな標高400mを超える山城にこのような石垣に使う大きな岩を運んだという事が、にわかに信じられない光景でもあった。
この場所は「中太鼓の丸跡」という、山の下と太鼓の音で連絡をし合っていた場所のようだ。今の時代みたいに電信や無線機・電話が無かった時代なので、遠くに連絡するには旗を振ったり、太鼓を鳴らしたりで意思疎通を取っていたようだ。
高い場所に造られた山城だけあって、この場所に来ただけで高梁市の景色が一望できる。特にこの備中松山城周辺や色んな山の間にある平地部分に町が広がっており、敵が攻め込んできたとしてもルートが限られているので、ここからだと容易く発見できた事だろう。
しかし江戸時代には大きな内戦は殆ど起きずに、平穏だった為に全国の城はほぼその堅固な造りが活かされる事はなかった。ただ明治時代になって明治維新が起きて、新政府軍と旧幕府軍が戦う内戦が勃発した。この備中松山藩はその時代に当主だった「板倉 勝静(いたくら かつきよ)」が江戸幕府の老中首座にあり、また徳川吉宗の血筋でもあったので、旧幕府軍側に属した。
その為に新政府軍から派遣された岡山藩がこの備中松山藩に攻め込んできたが、その際には当主だった板倉勝静が姿を暗ましていた事から、代わりに城を守っていた山田方谷らが無血開城を決意し、この備中松山城で戦いが起きるのは回避された。
岡山藩と対峙して無血開城を決めた山田方谷や三島中洲だったが、岡山藩から交換条件として提示された謝罪文の中に”大逆無道”の文字を発見して激怒した。それに対して山田方谷らは、その”大逆無道”を”軽挙暴動”に改めるのであれば受け入れるが、それが通らなければ「自害して果てる!」と岡山藩に付き返したという。
岡山藩も山田方谷の存在を強く見ていた事もあって、結局”軽挙暴動”の謝罪文に変更になったという。
ここで山田方谷先生が亡くなりゃあ、日本の損失がもっと増えていたじゃろう・・・
山城からの景観! 動画
そしてこちらには「山火事注意!」という、横断幕も掲げられている。江戸時代から現存する天守閣という事は勿論木造建築物なので、万が一火が点けば取り返しのつかない事態になる。なお、日本という国は湿度が高い国なのでそこまで山火事が発生しないけど、乾燥地帯の国ではひとたび山火事が起これば、簡単に燃え広がるという。
湿度が高え国ならではのメリットじゃなぁ!
このように山城だけあって、まだ上に続く階段が見えている。簡単に敵が攻めて来れないような立地を選んで山城を建造した場所だけあって、簡単には辿り着けないようになっている。足腰の弱い人にとってはシンドイ思いしか残らないかもしれないが、歩けなくなれば人間終わったようなものなので、ここは頑張って歩いて登っていくしかない。
このような歩きでしか進めない場所は、車椅子の人などが通れないので、そういうハンディキャップを生まれ持って育った人からすれば残念な場所だろう。昭和時代に再建された城には、建物内にエレベーターが設置されている所もあるけど、この備中松山城のように昔のまんまの城では、そういったバリアフリー化は難しい事だろう。
こういった登り道でホッする瞬間は、最初に戻ってくる人の姿を発見した時である。山登りをしている際にも、上から帰ってくる人を見かけると、「あともう少し!」という気持ちが何故か湧いてくるのと似ている。
備中松山城の大手門跡にて
そして、昔は真ん中に大きな門構えがあったと思われる「大手門跡」に到着する。そして周辺の石垣には苔が生えている箇所も見られて、標高430mの場所にある城だけに、少しだけ『天空の城ラピュタ』の取り残された城を彷彿とさせてくれる。
『天空の城ラピュタ』じゃないけど、他の平地近くに造られている城に比べると、標高400m近くの山の上に造られている城というだけで、神秘的な雰囲気が漂っているようにも感じれる。
あたぁロボット兵がおりゃ、完全にラピュタじゃなぁ!
この備中松山城では天守閣に入る際には入場料が必要だけど、その敷地内に入るだけでは入場料は発生しない。このような400年前近くに造られた城跡に無料で入れるという事だけでも、とても幸せだと感じる今日この頃。
そしてこちらには、2016年に放送されたNHK大河ドラマ『真田丸』のオープニング内で、この備中松山城の景観が一部使われているという表記があった。
こちらはこの備中松山城の大手門跡が使われているシーンだけど、そのままの景色ではなく、合成CGがふんだんに使われているので、その備中松山城らしい雰囲気は消えてしまっているが・・・・。しかも下に水が流れていて、備中松山城の特徴が出ているというよりは、単なる背景として使われていただけのようだが。。
「大手門」という石碑が見られるが、ここにはかつて大きな門があって、ここから先に入るには入口で待ち受ける警備兵に尋問を受ける場所となっていた。今ではそんな門も警備兵も見られず、簡単に中に入れるので、その大手門という存在すら感じないのであるが。。
そして戦乱の時代に造られた城には、大手門を通過してもそのまま直進できずに、左右に曲がらないといけない。直進させると相手に勢いが付いてしまうので、天守までの道のりは左に折れたり、右に曲がったりと、攻め込んでくる敵が嫌になるような設計が施されている。
このように石垣は大手門だけではなく、その上に向かってそびえているのが見える。このような山の上で石垣が上に続いている光景は、ペルーの有名な世界遺産のマチュピチュ遺跡でも見られたけど、標高の違いはあれども、マチュピチュ遺跡と備中松山城に少し似ている雰囲気を感じるのであった。
そして備中松山城はこの大手門だけではなく、目玉は一番上に造られている、江戸時代から現存する天守閣である。という事で、天守閣を目指して、再び坂道を登っていくのであった。
こんな旅はまた次回に続きます!
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