尾道(広島)&岡山旅行記2021年3月-55
旅行期間:2021年3月某日(3泊4日旅)
家康の血縁の力の凄さ!
ここは岡山県の中心地にある、備前国の居城だった「岡山城」の天守閣。江戸時代にこの城を治めていた池田家は、徳川家康の外孫となった家系でもあったので、これだけ立派な天守の建物を建造していたようだ。
住所:岡山県岡山市北区丸の内2-3-1
営業時間:9時~17時頃
電話番号:086-225-2096
入館料:大人320円/小中学生130円(訪問時)
※天守閣は2022年11月にリニューアルオープン済
岡山城:天守閣内の見学!
この岡山城天守は戦争時に空襲によって焼失してしまった為に、現在見られるこの天守は戦後に鉄筋コンクリート造りで再建された建物となっている。なので江戸時代風の木造建築物という雰囲気は全くないのが。。
そして天守閣内を登っていくと、こちらの金色の鯱が展示されているのが見えてくる。この岡山城天守閣では1997年に行われた”築城400周年”を記念した改修時に、かつての岡山城で金箔が張られた鯱が存在していたという文献から、そのイメージを復活させる為にこのような金箔が張られたようだ。
発掘調査によると、宇喜多秀家時代に建造された岡山城には、天守以外の主要な建造物の鬼瓦などにも金箔が張られていたという。秀吉時代の晩年には、その贅沢さに心を奪われた人も多かったようで、本来は砦となる城にも関わらず、美観を意識していた所が興味深く思える。
歴史とは後から見てみると面白い物で、その国の支配者が変わると、その世界観が180度変わってしまう事も多い。ちょっと前までは重役だった人も、数年経って新しい国では敵として容赦なく叩き潰されてしまったりと、常に先手を読んだ采配を振るわないと潰されてしまう事が多かったようだ。
秀吉時代には”五大老”の1人にまで出世した宇喜多秀家も、秀吉の死後には関ヶ原の戦いでそれまでの流れで西軍に加担したが、家康の前に敗北して改易とさせられてしまう。昔は新しい藩主が就任すると、それまでの家臣団が粛清されてしまう事もあったようで、いかに出世しても新しいボス次第で生きるか死ぬかという運命だったようだ。
それにしても天守に飾られている鯱がこのように金色をしていると、豪華な城らしく見えてくる。鉄筋コンクリート造りの少々味気ない作りとなっている岡山城天守だけど、それを詫びるかのように金色の鯱がこちらを眺めているようにも見える景色であった。
岡山城は素晴らしい城じゃ!
天守の最上階にて
そして駆け足で天守の最上階に登っていくと、このように展望台となっていた。戦争時に空襲によって焼失してしまった天守だけど、6層もの大きな天守だったので、江戸時代の木造建築物として再建した場合には、かなりの費用や時間が掛かる為に鉄筋コンクリート造りとなったのだろう。
そしてどの展望台でもボクを優しく待ち続けてくれている、「岡山城の双眼鏡クン」を発見する。よく見る双眼鏡クンに比べると、ちょっと顔の形が違っているようにも思える。しかし人間の顔がそれぞれ違うように、双眼鏡クンの顔もそれぞれに違っているのだろう。
メーカーの違いやろ!(笑)
岡山城の直ぐ脇には「旭川」という一級河川が流れていて、その川が岡山城の外堀的な役割を果たしていた。これは偶然ではなく、江戸時代には川の流れを変えてまで外堀に活用したり、その川の水運を使って物資を運んだりと、逆に川が近くにある必要があったのだ。
この岡山城は黒く塗った板を壁に貼っていた事もあって、「烏(カラス)城」とも呼ばれていたそうだ。ただ、長野県にある国宝ともなっている松本城も同様に「烏(カラス)城」と呼ばれている事もあって、区別する為にここ岡山城では「カラス城」ではなく「烏(ウ)城」という呼称となっているという。
岡山城天守内は写真撮影禁止の物が多かったりと、イマイチ何が置かれていたのかを覚えていない。もはや脳で見た展示品を記憶する能力は減退し、スマホで撮影した写真が記憶代わりと成り果てていたのである・・・。
現代人は脳を使わな過ぎるよ・・・
そしてこちらのブースでは、岡山城にゆかりのある武将達の鎧兜が展示されていた。最近になって日本の歴史を勉強し出したボクとしては、名前を聞いた事がある武将も、その後にどういった運命を辿ったのかを知らない事ばかりなので、こういったブースで勉強してみる事にした。
こちらは時代に翻弄されたと言っても過言ではない、「小早川 秀秋(こばやかわ ひであき)」の鎧兜。豊臣秀吉の遠縁として生まれ、子供の恵まれなかった秀吉の養子となって跡継ぎ候補になると、一気に周りにゴマすり大名が集まってきて、7歳頃から接待攻勢で酒を飲まされる環境になったという。
天下人の身近な存在になると、それだけで自分の立場を守りたい、もしくは出世したい欲張りな人間達が押し寄せてくるのは、今も昔も同じようだ。小早川秀秋も自我が芽生える年頃だったらまだマシだったかもしれないが、小学生低学年の年代では、そういった事も理解できずに周りの言われるがままで流されてしまった事だろう。。
こちらは岡山城を大きくした「宇喜多 秀家(うきた ひでいえ)」で、秀吉お気に入りの”五大老”の1人にまで抜擢される程の人物だった。しかし”五大老”に選ばれていた時がピークで、秀吉亡き後は強く天下統一を狙っていた徳川家康の前にひれ伏し、最終的には改易処分となってしまったのである。
喰うか喰われるかの時代じゃなぁ!
ダーウィンの提唱した『進化論』じゃないけど、時代を生き抜くためには”新しい時代に適応する能力”が一番求められた。秀吉の生前は秀吉の臣従していた全国の大名も、秀吉の死後に天下を統一した徳川家康にいち早く降伏した大名は、何とか外様大名として生き残れる道を歩んだ。
そして外様大名ではありながら、江戸時代に最も出世したのが「池田 輝政(いけだ てるまさ)」とその家系であった。池田輝政は秀吉が信頼する家臣であり、秀吉の仲介で徳川家康の娘「督姫(とくひめ)」を継室として迎え入れる。この時点ではまだその大きな影響力は無かったが、秀吉の死後に徳川家康が天下を統一すると、家康の娘と娶っているという事で、三河国約15万石から播磨姫路52万石に鞍替えとなる。
そして督姫が産んだ徳川家康の外孫となる子供達が、それぞれに国を与えられ、明治時代を迎えるまで備前岡山藩約31万と因幡鳥取藩約32万を治める名門家系となっていった。このように昔は特に血筋が重要視されていた時代だったので、政略結婚というのが大きくその後の運命を変えていた。そう思うと、今以上に嫁選びが重要だったが、当時は自分で決める事が出来ずに、親に勝手に決められてしまう事が多かったようだが。
宇喜多秀家ストーリー!
こちらのブースには、岡山城主となっていった時代のある「宇喜多秀家」の人生を説明するブースが用意されていた。宇喜多秀家の父である宇喜多直家は、”下剋上”の時代でもあった戦国時代に主君を裏切って岡山の支配を企み、当時の”3大悪人”や”中国地方の三大謀将”とも称される程の人物だった。
悪人って言われても、喰うたら勝ちじゃ!
そして宇喜多家は三村家や毛利家と領土争いを繰り広げ、織田信長・羽柴秀吉の傘下に入って、毛利家との争いを切り抜ける。宇喜多秀家は父:宇喜多直家が亡くなって11歳で家督を継ぐが、幼かった為に叔父などが執政を行い、また自ら中国地方の覇者になる道ではなく、有力大名に付いて行く道を選ぶ。
そして秀吉に目を掛けられていた事もあって、宇喜多秀家は秀吉の養女となっていた前田利家の娘である「豪姫(ごうひめ)」を娶らされ、名実ともに秀吉ファミリーの一員に仲間入りした。そして文禄/慶長の役で朝鮮出兵をして、1598年に帰国すると秀吉から”五大老”に命ぜられる。
この時は秀家もこれからの行く末に明るい未来しか見えなかっただろうが、その年に秀吉が没してしまうと急に暗雲が垂れこんでしまう事になる。
株だったら、クライマックストップを付けての売り時ですね!
「上げ100日、下げ3日」という株の格言もあるんじゃ!
そして秀吉が死ぬと、再び戦乱の時代が訪れ、天下分け目の”関ヶ原の戦い”では宇喜多秀家は西軍の副大将として参戦する。そして先述の小早川秀秋の寝返りもあって完敗し、宇喜多秀家のその後の人生は右肩下がりとなってしまう。
株価が下がったら思い切って損切しないと、ズルズル落ちていくだけじゃ!
そして敗軍の将となった宇喜多秀家は、家康の追手から逃げる事を選び、伊吹山などに隠れた後に家康に屈する態度を見せなかった薩摩の島津家に匿われる事になる。そこで穏やかに暮らせるのかと安堵していると、遂に島津家も徳川家康の強大な力の前に屈服してしまい、匿われていたハズの島津家から徳川家に引き渡されてしまう。
そして島津家や前田家の嘆願もあって命だけは助けられたが、八丈島に島流しの流罪となった。それが1606年の事となっており、1616年には秀家の刑が解かれて本土に帰る事も出来たが八丈島に留まった。そして宇喜多秀家は八丈島で約50年を過ごして、84歳で亡くなったという。
現代だったら、「ナゼこんな所に住んでいるの?」って取材が殺到しそうじゃ!
こちらには岡山城の歴代城主の肖像画が、壁に並べられていた。宇喜多家が築いた岡山城、その後に収まった小早川秀秋、そして早死にした小早川秀秋の跡を徳川家康の血筋として江戸時代に大出世した池田家が、明治時代を迎えるまで続いている。
池田家というとこの岡山藩と鳥取藩を明治時代まで維持して侯爵に列せられているけど、分家には子供が居なくて断絶してしまった池田家もあるので、家康の血を引いても江戸時代を生き抜くという事が難しい事だったのが理解できる。
こちらは「城主の間」が再現されている部屋だけど、特に豪華な調度品が置かれていたりという訳でもないので、説明パネルが無かったら普通の部屋にしか思えない感じだったが。。
そして下の階にはテレビモニターがあって、そこにはNHKの歴史番組でお馴染みの歴史学者「磯田 道史(いそだ みちふみ)」が出演する、岡山城紹介VTR映像が用意されていた。最近は日本国内を旅する毎に歴史に興味が出てきたのでNHKの歴史番組をよく見ているので、そのNHK歴史番組でよく目にする岡山出身の磯田道史が抜擢されていたVTRを食い入るように見てしまったのである。。
こんな旅はまた次回に続きます!
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