尾道(広島)&岡山旅行記2021年3月-⑤
旅行期間:2021年3月某日(3泊4日旅)
天守台跡のみ!
ここは広島県三原市の中心部にある「JR三原駅」の構内。そこにわざわざ尾道を通り越してまで立ち寄ったのは、この三原駅の線路脇に三原城の城跡が残されているからだった。
三原城跡の見学!
そして駅の外に出るような形で階段を登って進んで行くと、このように公園のような場所に出てくる。このちょっとした高台が三原城の天守閣があったとされる天守台跡で、本当に駅から徒歩数秒で辿り着ける場所となっていた。
かつては櫓が32棟・城門が14門も存在していたという、立派な三原城だったようだ。というのもこの三原城を築城したのは、五大老の1人でもあった「小早川 隆景(たかかげ)」だからである。豊臣秀吉から信頼された小早川隆景の居城だけあって、立派な城だった事だろう。
ただこの場所は「天守台跡」という名前になっていて、ご覧の通り天守閣のような城っぽい建物は現存していなくて、単に天守台跡だけしか残されていない。「城跡」と聞くと立派な天守閣があるイメージを思い浮かべてしまうけど、三原城は明治時代以降に櫓や門などは全て取り壊されてしまって、その跡しか残っていないのである。。
そしてこの三原城跡の中でもインパクトがあるのが、このように山陽新幹線が通る山陽本線のJR路線が真横を通過している事である。この三原駅は山陽鉄道(現在の山陽本線)が岡山から広島に延伸された時に新設された駅で、1975年には山陽新幹線が岡山駅~~博多駅間延伸の為に乗り入れ駅となった。
この天守台の周囲三方向はこのように堀で囲まれている。かつての三原城の遺構はこの天守台やその周りの堀などしか残されていないが、その数少ない三原城の遺構を守っていこうという三原市民の気持ちを感じる光景でもある。
三原城天守台の堀 【動画】
どうやら当初の三原駅は現在の駅舎よりも南側にあり、その当時はもう少し大きな形で天守台が残っていたようだ。しかし1970年頃に延伸される山陽新幹線の乗り入れ駅として隣の尾道駅と競争になり、ここ三原市では新幹線駅誘致の為に三原城の天守台跡スレスレの用地を差し出し、見事に競争に勝ったようだ。
特に大きな櫓なども残されていない三原城跡をそのまま守り続けるか、未来に向けた発展に焦点を当てて、本丸内の敷地を差し出すかは大きな悩み所だったと思う。新幹線駅誘致は経済発展には欠かせない要素で、交通の便がアップした事により、三原市も発展していく事になった。
ただ尾道側も後の1988年に、山陽新幹線の駅として「新尾道駅」を開業した。ただ、この新尾道駅は三原駅から約11キロしか離れておらず、また尾道市内から大きく離れていて在来線が繋がっていない事で、利用者が少なくて問題になっている。というのも、新尾道駅は”請願駅(せいがんえき)”という自治体などの要望で開設された鉄道駅で、その運営資金の大半が尾道市の税金で賄われているのである。
”請願駅の失敗例”として、新尾道駅が挙げられる事が多いのです・・・
三原城天守台脇の散策!
天守台の上からの景色を堪能した後は、一旦JR構内に戻ってから違う出口を出て、天守台周辺を散策する事にした。この三原駅は三原城の石垣の上に造られており、過去と未来が融合したような場所にも感じた。
この天守台脇の堀には、「阪井養魚場」という世界的にも有名な錦鯉を生産している所で育てられた、ブランド錦鯉が200匹以上放流されているそうだ。
【三原城:築城450年事業】の一環として、天守台周辺の堀の水を抜いて地域住民が清掃を行い、今後”100年続く風景”を作ろうという趣旨の元に行われている。ただしこの錦鯉は特別なエサが与えられているので、勝手にエサを与える行為は禁じられているので注意。
三原市の象徴でもあった三原城の本丸部分まで、経済発展の為に犠牲にしたけど、その代わりに今残されている城跡をキチンと守り通していこうという趣旨のようだ。三原に生きる人々にとって、この400年近くは三原城ありきで生活していたので、その象徴は守り続けるべきだと思う。
しかし今の日本は経済発展が終わって、経済後退期に差し掛かっているので、新幹線の駅があるからと言って、これから三原市が大きく発展する訳でもない。となると次は観光資源を育てていく必要があり、この三原市の象徴である三原城の天守閣を再建する動きも出てくるかもしれない。しかし現実的には四方を堀と線路に囲まれた場所での建設工事はほぼ不可能な為に、天守閣が再建される可能性はほぼ無いのだろう。
天守台を見つめる、小早川隆景の銅像
三原駅の北西の方にちょっとした広場があって、その奥に1体の銅像が鎮座して佇んでいる光景が見えてくる。こちらはこの三原城を築城したとされる「小早川隆景」の銅像で、「矢形 勇(やかた いさむ)」という尾道市出身の彫刻家の作品のようだ。
この小早川隆景は中国地方の雄であった毛利元就の三男として生を受ける。のちに竹原小早川家の当主が討ち死にし、後継ぎがいなかった為に養子入りして当主となる。ちなみに毛利元就というと『三本の矢』の逸話が有名な人物でもある。
竹原小早川家の当主となった小早川隆景が率いた小早川水軍は、毛利氏の中でも精鋭部隊で厳島の戦いでも大いに活躍したという。その後は台頭してきた織田信長の軍が侵攻してきて、一進一退の戦いを繰り広げる。しかし、本能寺の変で織田信長が急死した後に西国攻めを担当していた羽柴秀吉と和睦し、賤ヶ岳の戦いで羽柴秀吉が勝利したのを見届けて秀吉に従属する方針を選んだ。
秀吉に従属後は伊予一国を与えられて、毛利家としてではなく小早川家として九州討伐に参加する。小早川隆景としては毛利家を補佐して支えていきたい気持ちがあったが、羽柴秀吉としては優秀な武将だった小早川隆景を毛利家から切り離したかった気持ちがあったという。
この三原城天守台周辺は、このように「隆景広場」という名前が付けられていた。小早川隆景は伊予一国(今の道後温泉付近)を与えられ、九州討伐後には更に福岡周辺の約37万石も与えられた。秀吉の命で筑前(福岡)に一時は移り住んだものの、家督を譲って最終的には三原城に戻ってきて隠居したのであった。
そしてその脇には「原爆死没者慰霊碑」が設置されていた。広島というと原爆が最後に落とされた都市としても有名だが、広島市内から約57kmほど三原市は離れているので、直接的な原爆の被害はなかったようだ。しかし、広島市内で働いていた三原市民なども犠牲になっており、原爆の恐ろしさを思い浮かべてしまう。。
この天守台周辺は2010年代に発掘作業が行われ、その後は「三原城跡:歴史公園」として保存されている。しかしその外側の道路を挟んだ反対側はこのように市街地が形成されており、昔の城下町といった雰囲気は完全に消え去っていたが・・・。
城の周辺は大きく景色が変わっても、昔のままの石垣はそのまま鎮座している。新幹線の駅が新設された事もあって、近くには大きなマンションなどが乱立する事になり、昔ながらの景観を壊す声も挙がったが、経済発展を求めると昔の景観が犠牲になってしまうのである。
この今見られる天守台はもっと広かったとされており、また2段構造になっていたという。手前に今見られる天守台の石垣は小早川隆景時代に造られたもので、その裏の新幹線の路線がある奥の石垣は後に広島藩主となった福島正則の時代に造られたと考えられている。
天守台を眺める! 動画
そして天守台を取り囲む堀の北側部分には、こちらの「後藤門跡」の石垣が復元されていた。この堀の北側の道は西国街道となっていて、多くの人が行き交う場所だったようだ。
ただこの後藤門の石垣は登る事が出来ずに、下から眺めるだけとなっていた。なお、この後藤門も”三原城築城450年記念事業”の一環で復元された物だが、天守台と駅を背景に写真を撮れる好立地にありながら、立ち入れないというのはとても残念だった。。
かつての三原城は瀬戸内海から海路で本丸までと繋がっており、また天守台は三方向を水堀で囲まれていた事から『浮島』とも呼ばれていたという。江戸時代までは船で荷物を運ぶ海運が一般的な運搬方法だったので、海近くにあった城はその恩恵を大いに受けていたようだ。
この三原城も近くに三原港があり、また3つの河が流れ込む河口付近という好立地にあった為に、大いに海運で栄えた場所だった。最初は海賊だった船団も、経済が発展していく毎にその船の護衛役になり、日本の海運の重要な場所だった瀬戸内海を守る立場へと移り変わっていくのであった。
この三原城の堀ではブランド錦鯉が放流されていたが、特別にエサが与えられている為か、普通の池のように人影を見ただけで集まってくる鯉とは違って、優雅に水中で佇んでいる光景が見られた。なお、高級ブランド錦鯉は1匹数千万もする価値もあるというけど、そこまでの価値はなくともこの錦鯉を盗んで行く悪い人も居そうに思えた三原城であった。
三原城の堀で泳ぐブランド錦鯉! 動画
こんな旅はまた次回に続きます!
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