信州松本旅行記2022年3月-23
旅行期間:2022年3月上旬(2泊3日旅)
真田12万石の城!
長野市松代町の中心地にある、かつて松代藩の居城となっていた「松代城跡」に到着する。
松代城は元々は1560年頃の戦国時代に、甲斐の武田信玄によって築かれた「海津城(かいづじょう)」としても知られている。
松代城跡の見学!
松代藩の居城となっていた松代城跡は、明治時代に払い下げなどでその城郭殆どが解体されてしまっており、一部の石垣しか残らない状態だったという。しかし、平成の時代に入ってから大規模な復元工事が行われて、今見られるような櫓門などの立派な建物が再び見られるようになっている。
松代城という名前は聞いた事が無かったけど、その前身で戦国時代に築かれた「海津城」という名前は聞き覚えがある。
それと入口脇にあった江戸時代の松代城を再現した絵では、周辺に大きく堀が掘られていた景色が見られるが、今ではその大半が埋め立てられている。
明治時代を迎えて払い下げとなった松代城では、その敷地が畑や住宅地に変えられていった。その後、明治37年(1904年)にそれらの払下げられた土地を真田家:第13代当主の真田幸正が買い取り、本丸跡地を遊園地にして一般開放していたという。
その後は公園として整備され、戦後に真田家から長野市に寄贈されている。そして平成7年から始まった”松代城跡の整備工事”で、大手門となっていた目の前に見えている「太鼓門」や、裏側にある「北不明門」などが復元されている。
まず橋を渡って本丸内へと向かおうとすると、太鼓門の”一の門”となっている「高麗門(橋詰門)」が立ちはだかる。この入口にある太鼓門は、”桝形門”となっていて、まず敵の侵入を防ぐ”一の門”が設けられていた。
そしてその高麗門を進むと、奥に大きな「太鼓門」が見えてくる。松代藩を治めていた真田家は13万石の大名だったので、それなりにしっかりとした大手門が造られていたようだ。
こちらがその「太鼓門」であるが、松代城は江戸時代中期の1717年頃に大火が発生して、本丸とその周辺が大きく焼失してしまった。そして江戸幕府から借金して本丸周辺の建物を再建したが、この復元された門の形状は、その再建された資料などを参考にしているという。
廃城になって払い下げられた城跡でも、このような石垣はそのまま残されている場合が多い。櫓や門などに使われていた木材などは全て流用されてしまったけど、意外とこのような石垣に使われた大きな石は不人気だった為に、残されたのだろう。
そして廃城と共に、城周辺も広大な堀が埋め立てられてしまって、大きく姿が変わっている。松本城もそうだったけど、江戸時代のままの堀全体の姿が残っている場所はほぼ皆無になっているので、もし江戸時代にタイムスリップできたとしたら、当時の堀の全景を見てみたい。
こちらが大手門代わりとなっていた「太鼓門」で、2階部分に櫓が造られており、そこから侵入してきた敵を迎撃できるようになっていた。ただ、他の城ではこのような門の脇にも塀が造られていた場所が多いけど、その塀まで復元する資金と余裕が無かったのかもしれない。
松代城内の復元では、このように木造建築物として再建されている。戦後には鉄筋コンクリート造りでの城再建ラッシュが起きたけど、近年には江戸時代当時の姿を精密に再現する為に、全国的に木造建築物での復元が多くなってきている。
古い立派な木材を探すのが大変だけどな。。
松代城の本丸跡にて
そしてその太鼓門をくぐって、松代城の本丸跡に到達する。すると、本丸内はこのように桜の木ぐらいしか植わっておらず、ガラ~~ンとした広場になっていた。そして公園として整備された事から、明治時代以降にここに遊園地が設置されていた場所にも思えない光景だった。
本丸内の景観! 動画
そして本丸跡には、こちらの『海津城址之碑』という記念碑も設置されている。戦国時代好きにとっては、松代城よりも、この「海津城」という名前の方が聞き馴染みがある事だろう。
そしてこちらには、石垣の上に登る立派な階段が設置されていた。階段の様子からして、如何にも「この階段を登った高台から、周囲の景色を眺めなさい!」というメッセージを感じるのである。
この立派な石垣は、かつてここに「戍亥櫓」が建っていた天守台跡である。戦国時代頃にこの天守台跡に天守閣のような建物が造られていた可能性があるようだが、江戸時代には天守閣は見られず、代わりに戍亥櫓が造られていたようだ。
この松代城を治めていた信濃松代藩の初代藩主である「真田 信之(さなだ のぶゆき)」は、実の弟:真田信繫(幸村)と父:真田昌幸が関ヶ原の戦いで西軍に加担した為に、江戸時代には領土を安泰となったものの、常に江戸幕府に気を遣って過ごしていたとも言われている。
天守台跡からの景観! 動画
その為に真田信之は江戸幕府から睨まれるような天守閣という建物を造らずに、その代わりにここにあった戍亥櫓を天守代わりにしていた可能性が考えられる。
そして本丸の北側にも、復元された2段構えの門が見えている。こちらは「北不明門(きたあかずもん)」の”一の門”である高麗門となっていて、こちらも枡形の門構えとなっている。
こちらの北不明門も平成時代に入ってからの復元工事によって、再建された門になっている。全国各地ではこのような城跡を観光資源として活用しようと、自治体などによって城跡の復元工事がされている所が多くなってきている。
発掘調査で見つかった礎石の上に柱を立てて、江戸時代当時の技法などを使って再建された北不明門。ただ、石垣だけしかない城跡よりも、このような具体的な建物が復元されているだけで、”城跡”というイメージを増幅しやすくて観光客には嬉しい。
このように江戸時代さながらの昔の技法で復元されている建物が見られる松代城跡も、松本城と比べると流石に観光客の姿が殆ど見られない。
なお、大正時代に開通した長野電鉄:屋代線は、この松代城跡近くを通る路線だったが、約90年間に渡る稼働を終えて2012年に廃線となってしまっている。
どんどんひと気が無くなっていくじゃん・・・
そして本丸の北東側にも石垣を登れそうな場所があったけど、残念ながら立ち入り禁止となっていた。この石垣の上にもかつて櫓が建てられていた雰囲気があるけど、幕末頃まで本丸の四隅にそれぞれ櫓が建っていたという。
本丸はそんなに広くなく簡単に見学出来たので、東側の二ノ丸と繋がる「東不明門前橋」を渡る事にする。この橋の名前からも分かるように、本丸の東側にはかつて「東不明門」が造られており、二ノ丸御殿とを繋ぐ橋となっていたようだ。
そして平成の復元工事の際に、この空堀となっていた場所に水が入れられた事によって、このような水堀に姿を変えたという。このような堀も水が入っていないと、イマイチ風格がないように見えてしまう気がする。
この松代城を居城としていたのは、当初は松代藩ではなく、「川中島藩」という名前で織田信長の家臣だった森可成の六男「森 忠政(もり ただまさ)」が立藩したのが起源である。森忠政は豊臣秀吉の家臣として九州に造られた名護屋城の普請奉行なども任されたり、豊臣姓を下賜される程に信頼されていた人物でもあった。
しかし、豊臣秀吉が亡くなると徳川家康に接近し、森忠政は川中島藩約13万石へと移封される事になる。そして関ヶ原の戦いで東軍に加担し、1603年に”関ヶ原の戦いのキーパーソン”でもある備前岡山藩主:小早川秀秋の早死によって小早川家が改易となってしまったので、美作一国約19万石へと加増転封となり、後の津山藩を立藩したのである。
その森忠政が去った川中島藩に転封されてきたのが、徳川家康の六男「松平 忠輝(まつだいら ただてる)」である。庶子であった為に幼くして長沢松平氏の養子となり、家督を相続する。
そんな松平忠輝は1603年に”下総国佐倉”(現在の千葉県佐倉市)から移封されてきて、正室には伊達政宗の長女:五郎八姫(いろはひめ)を迎え入れた。そして大阪の陣に参戦するも目立った功績を挙げれずに、家康から対面の禁止を命ぜられてしまう。
そして家康が亡くなった1616年には、将軍となっていた兄:秀忠から改易処分とされ、流罪として伊勢国に流されてしまう。後には信濃国諏訪に預け替えとなり、晩年は諏訪湖の畔にあった高島城に幽閉されたが、何と92歳という長寿を全うしたという。
そして1616年に松平忠輝が改易となった後に移封されてきたのが、徳川家康の次男:結城秀康の次男として生まれた「松平 忠昌(まつだいら ただまさ)」である。
松平忠昌は若くして参戦した大阪の陣で目立った戦功を挙げた事が評価され、下妻藩3万石から川中島藩12万石へと加増移封されてきた。
そして松平忠昌が居城を「松代城」と定めた事により、川中島藩から『松代藩』へと呼び名が変わったとされている。なお、松平忠昌は1619年に越後国高田藩25万石へと加増移封され、約50万石という大大名にもなっている。
この時代にやっと『松代藩』となるんだな!
その松平忠昌が1619年に越後国高田藩へと加増移封された際に、入れ替わりでこの地にやって来たのが”徳川四天王”の1人としても有名な酒井忠次の孫にあたる「酒井 忠勝(さかい ただかつ)」である。
ただ、酒井忠勝は松代藩に来てから約3年後の1622年に、出羽山形藩の第3代藩主:最上義俊が改易された為に、出羽庄内藩へ約14万石にて加増移封された。
そしてその後釜として上田藩から送り込まれたのが真田信之で、その後の江戸時代の松代藩を真田家が治め続ける事になるのである。
松代藩に真田家が辿り着くまでの歴史って、長いじゃん!
こんな旅はまた次回に続きます!
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