信州松本旅行記2022年3月-38
旅行期間:2022年3月上旬(2泊3日旅)
アメーラルビンズも旨い!
長野県で第3位の経済規模を誇る、上田藩があった「上田市」。北陸新幹線が開通した事を受けて、関東圏からの観光客が増加した事もあって、上田市の町も知名度の無い仙石家や藤井松平家よりも、全国区の人気を博している真田幸村を全面に押し出して、観光客誘致に励んでいる場所のように感じた。
「みすゞ飴本舗 飯島商店」を訪れる!
上田城跡から上田駅まで見学したので、これでこの上田市の町を離れるつもりだったが、町中を歩いている時に見つけた、こちらの「みすゞ飴本舗 飯島商店」というお店がとても気になったので寄り道してみた。
この「飯島商店」というお菓子屋さんは、100年以上も上田市民に愛されている『みすゞ飴』という、水飴を使ったゼリー菓子を販売している老舗お菓子屋だった。
またこの本店の建物は大正13年(1924年)に建てられた社屋で、約100年が経過した現代でもそのまま店舗として使用されている。
国指定登録有形文化財にもなってるな!
この飯島商店の名物菓子が『みすゞ飴』という、寒天&グラニュー糖&水飴を加えてゼリー状のお菓子に仕上げた物だ。
似たようなお菓子は昔からあるな。。
昔は甘いお菓子が貴重品だった事もあって、このようなお菓子が庶民に人気を博したのだろう。なお、この飯島商店の初代社長となった飯島新三郎氏は、この菓子以外に、旅館事業・ガス事業・鉄道事業・鉱山事業など多角経営を行い、上田城跡の保存活動にも大きく尽力した人物だという。
上田城の櫓が帰ってきたのも、この人のおかげだな!
上田名物でもある『みすゞ飴』は寒天を固めたゼリーなので、気温が高かったり、人が手に持った時の体温が伝わって、ゼリーが溶けだしまう可能性がある。その為にみすゞ飴は「軟質オブラート」に包まれているお菓子でもある。
「オブラート」という可食用包装資材は、よく昔から薬やお菓子などに使われてきたので、ある程度の年齢の人からすればお馴染みの物である。オブラート自体は元々は明治時代にヨーロッパから渡ってきたもの(硬質オブラート)だが、明治時代後半に三重県の医師「小林 政太郎」が開発した”軟質オブラート”が国内に多く普及していった。
しかし、現代ではそのような”オブラートに包まれた昔馴染みのお菓子”が少なくなってきている。今でもこのオブラートを使い続けている有名なお菓子としては、鹿児島名物の「ボンタンアメ」や、北海道の「日本一きびだんご」などがある。
オブラートを造る会社自体が、ひと昔前に比べて大きく減ったんだな・・・
こちらは『三宝柑福居袋』という、和歌山産の三宝柑(さんぽうかん)という柑橘類の果汁を混ぜてゼリーにした商品。こちらの三宝柑の皮を器にした商品は、自分用というよりも、大切な人へ贈る贈答品という雰囲気だった。
そんな上田名物の『みすゞ飴』を購入して、上田城脇の駐車場まで歩いて戻っている最中に、こちらの上田藩主の屋敷がかつてあった場所に出てきた。
上田藩では、本丸や二ノ丸ではなく、三の丸に藩主の御殿が造られていて、そこで藩政が行われていた珍しい藩でもある。三の丸に御殿を造ってそこに藩主が住むという事は、それだけ三の丸の防御機能に自信があったという事の裏返しであろう。
徳川の大軍も三の丸を落とせなかったと言うしな!
そんな上田藩主の屋敷跡は、今では「長野県上田高等学校」という長野県では進学校としても知られる公立高校の敷地となっている。
ちなみにのホームページでは『日本一格式高い校門』という文言が見られるが、上田高等学校の正門となっているこの古そうな門は、1790年頃に再建された藩邸の正門として使われていた門が現存している。
上田市民には『古城の門』と呼ばれてるじゃん!
明治時代を迎えて廃城令が出た後には、藩政が行われていた建物なども払い下げられ、このような学校施設に姿を変える事は多々あった。
昔の古い門がそのまま現代も使われている例でも有名なのは、東京大学の『赤門』だろう。
”国の重要文化財”にも指定されている東京大学の赤門は、”加賀百万石”でもお馴染みの加賀藩前田家の上屋敷表御門だった物である。
今日は松本旅最終日だったので、最終的に松本空港に戻ってから大阪に帰らないといけない日だった。それもあってケツの時間が決まっていた為に、もう少し時間的にゆとりがあれば、上田市内に設置されている”真田十勇士”の像をコンプリートしたかったのであるが。。
そんなエエから、早く次行こうや!
飛行機に乗り遅れたら大変やで!
そして駐車場に停めていたレンタカーに戻って、まずは先程の飯島商店で買った”要冷蔵”となっている「三宝柑のゼリー」を出発前に味わう事にした。
三宝柑のゼリーは老舗お菓子屋の商品という事もあってか、昔を思い出させるお菓子の味のようにも感じた。現代は色んなお菓子が店頭の棚で氾濫している時代だけど、明治~大正時代はそんな贅沢なお菓子など、そう簡単に庶民の子供が味わえる時代でもなかった事だろう。
普段は遠慮気味で、何かを薦めても「エエわ!」しか言わないオカンであるが、このようなお菓子が目の前にあると、からくり人形のように、何も言わずにサッとお菓子を口の中に放り込むのである。。
昔のお菓子って感じやな!
和田宿近くの中山道にて
そして上田市から北国街道を東に行った「海野宿跡」という、江戸時代の景観が保存されている宿場町にも行きたかったのであるが、上田市内でゆっくり散策し過ぎた事もあって、立ち寄る時間が無くなってしまっていた。。
その為に今回の旅の最後の目的地である、諏訪湖脇にある高島城を目指してドライブしていると、「旧中山道」の道を通るようにカーナビに指示されたのであった。
上田市から諏訪湖に向かう道「国道142号」は、江戸時代の”五大街道”の1つとしても有名な「中山道(なかせんどう)」沿いを通る道となっている。ただ、今ではバイパス道路が造られているので早く進めるけど、この旧中山道をわざわざ通行すると、クネクネと蛇行した道で左右に民家が立ち並んでいるので、スピードが出しにくい道でもある。
中山道は江戸と京を北廻りで結ぶ街道だな!
その為に普通に国道142号を上田市から諏訪湖に向かってドライブすると、この旧中山道をわざわざ通る必要がないのである。しかし、何故か今回のレンタカーはこの中山道を頑なに走らせようと、指示をしてきたのである。
今日の朝には、松本市内から上田城までのルートで遠回りを指示されたり、今回はこの通りにくい中山道を走るように指示されたりと、レンタカーのカーナビが何かの意図を持ってボクに指示してきたのかもしれない。
そう考えると、今日の朝に走った遠回りルートで「道の駅あおき」にたまたま寄り道できたし、今回も遠回りルートを指示してくれたおかげで、この歴史ある中山道の街道を走る事が出来たのである。
物は考え様だな!
カーナビのおかげで信州蕎麦も買えたし!
それに「おやき」も買えたじゃん!
そう考えると、『急がば回れ!』などの有名な諺なども思い出し、これも何かしらの運命だと思う事にした。
そしてここでちょっと小休止して、かつて多くの人が通った中山道を眺めながら、「道の駅あおき」で購入した『アメーラルビンズ』という糖度の高いミニトマトを味わう事にした。
このトマト🍅、旨いですよ♪
この辺りはかつて「和田宿」と呼ばれた、宿場町となっていた場所でもある。ここからもう少し南下した諏訪湖側にある、標高1500mを超える「和田峠」が”中山道最大の難所”となっていた事もあって、その長野県寄りのこの長和町に宿場町があって、そこで通行人達が休憩する場所として発展していったという。
なお、そんな中山道の難所だった和田峠は、今では1978年に開通した約15kmに及ぶ『新和田トンネル有料道路』が造られている。今回の旅では時間的な余裕を得る為に、通行料:630円(普通車)を支払って通過したが、この旅の約1ヶ月後の2022年4月1日から、建設費用の償還が完了した為に”無料開放化”されたのである。。
そして国道142号線を車で走っていると、上田市から約1時間ほどで諏訪湖が見えてきた。諏訪湖のある諏訪市は、平均標高が約700mと松本市よりも高いので、空気がより薄い為に呼吸器系に疾患を抱えている人などは要注意の場所でもある。
上田城跡から諏訪湖脇の高島城跡までは、約1時間ちょいのドライブ。
諏訪湖沿いの高島城に到着!
そして諏訪湖の南岸に位置する、今回の旅の最終目的地である「高島城跡」が段々近づいて見えてくる。長野県に来るまでこの諏訪湖の畔に城があった事は知らなかったけど、諏訪神社という古い神社がある場所で交通の要所でもあったので、当然ながらここにも城が築かれていたのである。
高島城跡にある無料駐車場は、このように復興天守が造られている、すぐ脇の下に用意されている。このように駐車場の真ん前に天守の建物がそびえている場所も、あまり見た記憶がない。
この高島城を治めていた高島藩では、明治時代を迎えて例の如く”廃城令”によって、城内の建造物などが払い下げられてしまい、ここに存在した天守も消えてしまう事になった。現在、高島城跡にそびえるこの天守の建物は、1970年に再建された”復興天守”となっていて、内部は鉄筋コンクリート造りの建物となっている。
明治時代に天守などの建造物が取り壊された高島城では、その後本丸に護国神社などが建立され、外側にあった二の丸や三の丸は住宅地へと姿を変えてしまった。
そんな高島城跡の本丸は、今では「高島公園」として整備/管理されており、一般開放されている。城跡が公園として整備されている所は多く、今では一般人が寛ぐ場所に変わっているのである。
そんな本丸にあったこちらの鳥居は、1900年に建立された「諏訪護國神社」の物となっている。明治時代を迎えて、新しく生まれた明治新政府がそれまでの徳川幕府の強大な影響力を排除する為に、徳川家が利用していた仏教を排除して、代わりに神道を国民に浸透させるべく、全国に神社を設置させた。
そして護国神社鳥居のすぐ脇には、こちらの古そうな門が見えた。こちらの門は「三ノ丸御殿(移築)裏門」という、江戸時代に三の丸にあった御殿で使われていた裏門となっている。
この場所にはかつて「御川御戸門」という、諏訪湖に面していた門が存在していたようだ。その御川御戸門は廃城令の後に消えてしまったが、その代わりに今では三ノ丸御殿にあった裏門が、1988年にこの地に移築されてきたという。
かつて江戸時代には、ここにあった門の先は諏訪湖の湖面だったとされている。ここまで船に乗ってやって来た人が、この門から本丸内へ入っていったとされるが、今ではこのようにこの先に湖があるとも思えない、住宅街の景色となっているのである。。
人類は何でここまで地球環境を改造するのかな?!
こんな旅はまた次回に続きます!
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