九州縦断旅:熊本編
旅行期間:2020年8月中旬
偉大な藩主は後世まで祀られる
2020年8月中旬~下旬にかけて行った九州縦断旅、6日目は熊本市内の名所を見学中。こちらの日本庭園は「水前寺成趣園」という、肥後細川家として小倉藩から移ってきた藩主であった細川忠利が茶室をこの場所に造ったのが始まりだとされている。茶室から始まり、それから段々と落ち着ける場所として増改築されていき、一般開放されてからは多くの観光客が来るようになった。しかし現代ではこのように敷地から周囲に建つ無機質なマンションなどが見える景観の悪化もあって、客足が年々減少しているそうだ。
熊本市内にて
熊本市内の蛇口を捻ると出てくる水は、全て100%天然の地下水だという。阿蘇地域の広大な山々に降った雨が地中を沈む最中に天然に濾過されて、綺麗な水となって地下に溜まり、それが流れ出てきて川となり、下流に住む人々の生活を昔から潤していたようだ。
熊本の宝は、その綺麗な水ばい! そしてその次が辛子蓮根ばい!
熊本市内の日本庭園「水前寺成趣園」にて
この水前寺成趣園内では、江戸:東海道五十三次の景観をモチーフにした庭園造りがされており、こちらの不自然に尖がった丘などは富士山をイメージしているかのようである。熊本県で山といえばやっぱり阿蘇山だけど、ここは遠い江戸付近の景観に憧れていたのかもしれない。
こちらには赤い鳥居が奥に向けてズラ~~っと並んでいるのが見える。赤の鳥居が沢山並んでいる光景といえば、稲荷神社系列なのであろう。
こちらはやっぱり京都伏見稲荷大社系の水前寺成趣園内に造られている「稲荷神社」だった。元々昔からはあった社殿ではなく、肥後細川家8代熊本藩主の時代(1809年)にここに設置されたようだ。
本家の京都伏見稲荷大社では、数えきれない位の鳥居が設置されている。しかも毎年その鳥居が増えていっているが、逆に昔に設置されて老朽化した鳥居も撤去されていくので、あまり全体的に鳥居が増えているような印象は受けないけど、最近は手狭になってきたのか、今までなかった道を造ってそこにも鳥居を設置するような動きをしていたのを思い出す。
細川家の銅像
この水前寺成趣園を訪れていた時はあまり熊本県の歴史について調べていなかったので、「なんで加藤清正の熊本に、細川家の銅像が設置されているのかな?!」と正直思っていた。しかしこの時の旅行記を作っている現段階では、逆に熊本藩にとっては加藤清正の加藤家よりも、その後に転封されてきた肥後細川家の方が200年を超える熊本の統治をしてきたという歴史を知ったので、この銅像はごく自然なものであったのだ。
辛子蓮根の銅像も誰か、造ってくれないかな?!
ここに2体設置されている銅像のモデルは、右側が肥後細川家の祖とされている細川藤孝(幽斎)。元々は室町幕府13代将軍の足利義輝に仕えていたが、足利義輝が暗殺された後に弟の足利義昭に仕える。そして織田信長に近づき、天下人となる人物と見抜いたのか、信長の配下となるのであった。
信長が殺された本能寺の変の後は出家し、家督を嫡男の忠興に譲り、文化人として生きるのである。和歌・茶道などにも留まらずに武芸も達者であり、千利休などと共に秀吉に文化人としても重宝され、徳川家康にも重宝された、戦国時代きっての文化人としても有名な人物の細川藤孝(幽斎)であった。
こちらの像はそんな祖父:細川幽斎よりも老けて見える、肥後国熊本藩初代藩主となった細川忠利(細川ガラシャの息子)の銅像。1633年に改易となった加藤家の代わりに小倉藩から54万石に加増されて、ここ熊本藩主として約230年続く基礎固めした人物。なお細川幽斎の嫡男であり、細川忠利の父親である細川忠興も引けを取らない位に小倉藩主として活躍し、”利休七哲の一人”とも称されて、父親に負けない位の文化人であったというが、残念ながら細川忠興の銅像は無かった。
う~~ん、予算が無かったのかな?
肥後国熊本藩初代藩主:細川忠利の母親は、明智光秀の娘(玉)でキリシタンとなって洗礼名「ガラシャ」の名前で有名な人物でもある。1600年に徳川家康が行った会津征伐(上杉景勝討伐)に参加した細川忠興の居ない間に、石田三成が大坂玉造にあった細川家屋敷を襲撃し、夫人であるガラシャを人質に取る作戦だったが、細川ガラシャはそれを拒絶し自害したという悲劇的な人物としても有名である。
今なお続く肥後細川家の礎を担った人物の銅像が設置されているので、それに合わせて歴史を学ぶと、より一層熊本に、そして日本に対しての愛着心が出てくると思う。
この細川忠利が病弱だったので、辛子蓮根が生み出されたばい!
海外でも日本でも歴史を調べると、新しい知識が増えるのでとても楽しいのです!
そんな銅像の近くにあった、芝生が綺麗に管理されている「憩いの広場」は自由に立ち入れ出来たけど、観光客が少ないのもあって全然人が居なかった。
そして水前寺成趣園の奥には、このように京都のお寺などでよく見かける石庭が設置されている。こういった景色も日本ならではの景観であり、久々に見る石庭である。
横に設置されていた案内板によると「細川流盆石の石庭」と記載があり、ここの絵にもあるように黒漆の盆の上に、自然石と白い砂で大自然を表した芸術作品との事。このルーツは茶人としても高名であった細川忠興にあるという。
文化人としても一流であった細川家らしい芸術です!
そんな「細川流盆石の石庭」で一番右側に設置されているのが、「出陣の盆」と名前が付けられている。戦場に出陣する前に家臣達の気持ちを高揚する、戦勝祈願的な作法だったという。運命長久石を中央に置き、右手前にはそれよりも小さい見送石を立て、この写真に写っていないけど左側の奥には更に小さい敵払石というのを置き、出陣していく様を表していたようだ。
こちらはその「出陣の盆」を別の角度から眺めてみたもの。この角度からだと、左奥にある敵払石が見えている。これから戦う敵は小さく、見送る人達はそれよりも大きく、そして出陣する自分達はこのように更に大きいというイメージで鼓舞するつもりであったのだろう。
こんな感じで殿様に鼓舞されたら、当時の家臣達は大感激であっただろうな!
こちらは「帰陣の盆」と名前が付けられており、出兵する家臣達が無事に帰ってくる事を祈願したもの。この盆は天下泰平をイメージする大きな主石を左奥に置き、それを迎える迎え石を手前に設置している。「戦いに行っても無事に帰って来いよ!」というお殿様からのメッセージである。
そして一番左側に設置されているのは「移徙(わたまし)の盆」という名前が付けられている。この「移徙」とは、 転居や引っ越しという意味の尊敬語である。「移徙の盆」は移転や新居、国替えの際に飾られるもので、真ん中に長久石の主石を置いて、その左側に要石を置き、右側にはさざれ石を添える。日本国歌にも出てくる”さざれ石”は小さな岩が固まって大きな塊となったもので、団結力を表しているそうな。
そして「細川流盆石の石庭」の奥には、今度は石を使わずに砂で造られている三角錐のようなものが見えてくる。どうも砂を固めて設置されているようだが、これがどのくらいしっかりと固められているかは分からないけど、下を見ると砂が散らばってないので、そこそこにカチカチ状態になっていそうな感じに見える。
ふむふむ・・・こちらの案内板によると「立砂(たてずな)」というものらしく、詳細は不明だが神様が最初に降臨したといわれる山を表したものという。これを設置する事によって、神様がここの立砂に招き寄せられるという。。
神様もそこまで馬鹿じゃないだろうけども・・・
信じる者は救われるばい!
そんな三角錐の立砂の頂点には、よ~~く見ると何かが刺さっているように見える。もしかしたら近所の悪ガキが意地悪をしていったのかもしれない・・・。
案内板によると、この頂点にはわざとこのように松葉が刺されているという。「どこか神秘的で、ここに神が降臨してくるような神々しい姿です。」と書かれているけど、それはちょっとオーバーに表現しすぎのようにも思えてしまう。多分近所の悪ガキのイタズラだったのを見た殿様が、案外気に入っていいように考えただけかもしれないと個人的に思うけど。。
昔はこの水前寺成趣園の周辺にはあまり建物が無かったらしいけど、今は比較的住みやすい水前寺周辺は人口が増えてきていて、このように周りに建っている背の高い建物が水前寺成趣園内からも見えて、古き良き日本庭園の景観を汚している。それもあってか、昔と比べると観光客が減っているという。
この奥にある日本家屋の建物は「能楽殿」で、肥後細川家で代々引き継がれていた伝統の能が披露される場所だったという。ただこの能楽殿自体は1878年に出水神社と共に造られたが、1965年に火災で焼失してしまった。なので今見られる能楽殿は1986年に元あった場所に新しく再建されたもののようだ。
やっぱり日本庭園には池と盆栽を大きくしたような松が似合う。緑と水が豊かな日本らしさが日本人のDNAに刻まれているのかもしれない。
そして日本庭園の池には付き物の鯉も、沢山放流されていた。「鯉は綺麗な水質の所しか住めない」という間違った考えで小さい池などに放流される事が多いらしいが、鯉は雑種であり、他の種に比べても水質の汚れた所に適している類だそうだ。また鯉は水生生物や底生生物や水生植物などを根こそぎ食べてしまうので、小さな池や川では環境汚染を引き起こす原因となっている。
ただ日本では古来より鯉は貴重な動物性タンパク源として重宝されてきた。財政難で苦しんでいた米沢上杉藩の9代藩主上杉鷹山は、飢饉を防ぐ為に各家庭で鯉を飼育する事を奨励し、米沢にある米沢城跡の上杉神社の一角には鯉に敬意を表して「鯉供養之碑」も設置されているのだ。
それに鯉料理は将軍などに出される贅沢品だったり、慶事や祝い事の席にも出されており、昔から日本人に愛されてきた魚である。なので日本のこのような庭園の池には、必ずと言っていい位に鯉が放流されている。
そんな放流されている鯉は野生の鯉ではないので、人が池のほとりに立つと「餌を貰える!」と思って、近くまで寄ってきて水面に顔を出して口をパクパクさせる。人間も自分が意識しないでも習慣化してしまっている事が多いけど、このように同じ地球上に生きる生物も同じように日頃の行動が知らぬ間に習慣になってしまうようだ。
鯉からすると人間は餌をくれる目印となっているのだろう・・・
観光客が多い時に訪れていたらゆっくり見学が出来なかっただろうけど、この真夏&コロナ禍もあって、ほぼ独占的に水前寺成趣園を見学できた。
これだけ人が少なかったら、ソーシャルディスタンスも関係ないのである。。
そして水前寺成趣園を出て、市電の駅に向かう途中に小さな橋を見かける。こちらは「水前寺橋」という橋だったが、遠くから見てもその存在感は少ない、小さめの橋であった。。
「くまモンスクエア」に寄り道
そして水前寺成趣園の見学が終わって、熊本城近くにリュックサックを預けていたのでそれを引き取りに行く途中にある「くまモンスクエア」に立ち寄る。ここは今日の朝に1度やって来たけど、その時は時間が早過ぎてまだ営業していなかったので、リベンジ訪問でもあった。
この「くまモンスクエア」って、てっきり動くくまモンが居るもんとばかり思っていたけど、奥の部屋には”熊本県の営業部長”であるくまモンの専用デスクもあったけど、この時は残念ながら本物のくまモンは不在であった・・・。そしてこの時はどこかのテレビ番組の撮影が行われていて、自由にくまモンスクエアを見回る事も出来なかった。。
くまモンがいる時は、ここのお立ち台で色々取材を受けたり、来た人を楽しませてくれるのだろうけども、この時はこのようにくまモンの看板だけが立っていた。。
そして店内にはくまモンのキャラクターデザインが入った商品が、所狭しと置かれていた。熊本県内企業にはロイヤリティー無料でくまモンのグッズを作れるようにしているので、他のキャラクターとは違ってあまり上乗せ単価にはなってない感じだったけど、そんなに安い商品もなかったように思う。
そんな店内の片隅に置かれた椅子の上に、放心状態で座り込むくまモンの人形。実はこの「くまモンスクエア」を訪れた2日後のニュースで「くまモンの関係者が新型コロナウイルスの感染者と接触した可能性があるとして、活動を急遽中止した」と流れた。ただその関係者がPCR検査を受けた所、陰性だったのでまた活動を再開したという。
くまモン自体がコロナに感染したのかと思ってしまった。。
さてくまモンスクエアにも行けたので、これで予定していた熊本市内の観光は終了。リュックを置いてある熊本城へと再び向かうのであるが、くまモンスクエアが入っているビルの前に市電の乗り場があるのだけど、ビルを出たタイミングで熊本城方面の電車が出てしまった後だったので、仕方なしに熊本城方面へ歩く事にした。
せっかく1日乗車券買ったにも関わらず、ここでも歩くのでした。。
そして熊本城まで歩いている途中の歩道で、このように水道水は地下水100%の熊本市だけあって、綺麗な水が噴き出るオブジェが街中に設置されていた。この光景を見慣れている熊本市民はこのオブジェに注視する事なく通り過ぎていくけど、「これこそ熊本の宝である!」と思って、しばし足を止めて熊本の地下水が湧き出る様子を眺めるのであった。
結局熊本城まで徒歩で向かう途中に、後からやって来た市電の電車に何台か抜かれてしまった。さっきの駅で次の電車を来るのを待っておけば、早くかつ快適にここまで来れたのだけど、自分の性格としては「電車を待っている時間が勿体ない」と思ってしまうので、このように歩いてきたのである。
だからここ熊本城手前を流れる坪井川に架かる行幸橋まで来た時点で、当然の如く汗だくであった。。
歩くのは健康にいいばい!
そして行幸橋を渡った先にある大きなクスノキの下で、ベンチに座ったボランティアのオジサンのような人が、重すぎる瞼に負けて、目を閉じて座っていた。ちょうどこの15時前後には、このように瞼が重たくなる時間なのだろう。
眠っているのではなくて、”瞼を閉じている”という表現にしました!
いや、完全に寝てるばい!
今日の午前中に見学した熊本城の桜の馬場という観光案内所にある無料のロッカーから、預けたリュックを取り出す。これで熊本市内の観光も終わりだと思うと、少しは感慨深くなってくるのである。
実はこの旅行の2ヶ月に、再びここに戻ってくるのですが・・(笑)
またいつでも来るけ、待っとるばい!
街中に設置されている水飲み場。大阪市内にあったら、まずこんな水を飲もうとは思わないけど、熊本市内にあると飲みたくなる水道水。
コロナ禍もあって昼間はガラガラの熊本市内のアーケード。このような大きな通りには全国的なチェーン店ばかりしか出店されていなかったので、なんとも味気のないアーケード街だった。ただこのコロナ禍で飲食店などは閉店する店が続出して、今後は体力のある大手飲食チェーン店しか生き残らないのかもしれない。そうなるとより一層、個性が無くなり味気ない商店街になっていくのかもしれない。。
こんな旅はまた次回に続きます!
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