小倉から肥後国熊本藩主へと転封された細川家が愛した水前寺成趣園

九州縦断旅:熊本編

 旅行期間:2020年8月中旬

 

江戸時代の日本らしさが残る場所

水前寺公園の入口

さて熊本市内で熊本城を見学して、老舗の村上カラシレンコン店で念願の辛子蓮根を缶ビール片手に味わった後は、熊本を加藤家の後に治めた肥後細川氏が築いた保養地の日本庭園である「水前寺成趣園」へとやって来ました。

 

名勝【水前寺成趣園】

 

住所:熊本県熊本市中央区水前寺公園8−1
TEL:096-383-0074
開園時間: 8:30~17:00(入場は16:30まで)

 

 

 

熊本市内の水前寺成趣園にて

水前寺公園内にある、茅葺屋根の建物

まず水前寺成趣園の入口から庭園内に足を踏み入れると、まずはこちらの茅葺屋根の建物が見えてきます。こちらの建物は「古今伝授の間」と呼ばれるもので、今尚続く肥後細川家の祖先にあたり、織田信長の配下として活躍し一流の文化人でもあった細川幽斎(藤孝)が、当時後陽成天皇の弟である八条宮智仁親王に”古今伝授”をした建物だという。

なお、この「古今伝授」というのは古今和歌集の解説の奥儀を伝授する事であり、細川幽斎は公家の三条西実枝から1574年頃に古今伝授を受け、それを引き継いで門下生に伝授していたという。

 

 

 

「古今伝授の間」から見る水前寺成趣園

水前寺成趣園の池

そんな400年以上も前に行われた会合に使われた建物「古今伝授の間」は、細川幽斎から古今伝授された八条宮智仁親王の領土であった長岡天満(京都府)に移築される。その後明治時代まで長岡天満の敷地内にあったが、大正時代に入ってこの場所に移転されて、そして細川幽斎没後400年となる平成22年(2010年)に修復工事が完了して今に至っている。

 

水前寺成趣園の池-1

元々はこの場所には無かったけど、肥後細川家の祖先として重要な細川幽斎に纏わる建物なので、この場所に設置されている「古今伝授の間」であった。そんな建物の庭先からは、水前寺成趣園が一望できる良い場所である。なお中央奥に小さく見える盛り上がった山のように見える丘は、富士山をイメージして造られた丘であるという。

 

水前寺成趣園の「古今伝授の間」の庭

そんな江戸時代より前の時代に使われていた建物の敷地内には、水前寺成趣園の入園料を支払っていれば自由に入る事が出来る。この建物は今では茶屋として営業しており、家屋内に上がって抹茶と菓子付きの休憩も有料ながら出来るようになっている。

 

水前寺成趣園の「古今伝授の間」の建物内

そんな歴史的な建造物でもある「古今伝授の間」の内装は、このような感じとなっていた。詳しい解説が無かったら、普通の古い民家のように見えてしまうが、奥にある立ち入り禁止の間にある襖にはその時代の人が書いたような絵が見えている。

ただそんな古風な建物にも現代的な扇風機が置かれていて、古風なイメージが崩れてしまうけども・・・

 

 

水前寺成趣園の景観 動画

 

 

水前寺成趣園にある松

このような日本庭園は、江戸時代などの日本人が憧れていた景観を造っているので、ここだけではなく全国にある日本庭園でも見られるような景色となっている。しかしそれにしても日本の松というのが、こういった日本庭園にとても調和しているように感じる。

 

水前寺成趣園内を見回した景色

日本庭園といえば日本国内だけではなくて、海外にもある。ボクが海外で行った事があるのは、東欧にあるバルト三国とも呼ばれているエストニアの首都タリンにあった日本庭園である。その日本庭園をデザインしたのは日系の庭デザイナーだったけど日本とは温度などの環境が違うので、日本の植物ばかりではなくヨーロッパの植物が代わりに植えられていたっけ。

 

 

水前寺成趣園にある松-1

このように真ん中に造られている池に降りていく足場も造られているけど、さすがにここで行水は行っていなかったと思う。たぶん池に生息する鯉に餌をやる為に、池に近づく為の足場だったと考えられる。

 

 

水前寺成趣園内を見回した景色-1

熊本という場所を江戸時代に治めていた人物のイメージが、実は熊本市内に来るまで全然思い浮かばなかった。今回は熊本城を訪れて、秀吉のお気に入り配下だった加藤清正が熊本の初代藩主だったのを知った訳であるが、その加藤家も長くは続かなかったようだ。

 

 

水前寺成趣園の池などの景色 動画

 

 

水前寺成趣園内に生息する鯉

江戸時代になって徳川家康が開いた江戸幕府の時代となると、戦乱は起こらなくて平穏な時期が続いた。しかしそんな平時だったら家を継いでいくのも簡単に思うけど、実際にはそう簡単ではなかったようだ。まだ今と違って農業についても効率的な栽培などがそこまで開発されていなかったし、旱魃や冷害などの影響で大不況に陥る年もあったり、特産品が無くて借金まみれの藩が沢山あったという。

 

水前寺成趣園内を歩く

そんな藩での一番の問題は、全世界共通の問題である世継ぎであった。江戸時代にはまだ現代のような医療が進んでいた時代ではなかったので、藩主に何かの問題があって急死した際にはその世継ぎである人物を前もって登録しておくシステムがあった。しかし当時は生まれた子供が成人する可能性が今に比べればとても低かった時代で、下手したら生まれた子供の半数以上が成人できずだったり、側室を抱えていても世子を設ける事が出来なかった家もあった。

 

水前寺成趣園内の石橋を歩く

また世子が居ても藩主が無くなった時点では、幼過ぎて藩主としての役目を果たせない場合などは「改易」「お家取りつぶし」となって、昨日まで何十万石を抱えていた大名であっても決して安定が無い時代だった。実はその裏ではそういう江戸幕府に立ち向かう可能性のある勢力を、定期的に目を摘んでいたのでもあった。

 

水前寺成趣園内の石橋を歩く-1

この肥後国も最初は秀吉時代に佐々成政が送られるも一揆などを抑える事が出来ずに、秀吉の逆鱗に触れてしまって切腹となった。その肥後国を二分割して加藤清正と小西行長に支配させ、秀吉亡き後に政権を握った徳川家康の前に小西行長が関ヶ原の戦いで西軍に加担した為に切腹させられて、その領地も加藤清正の物となる。そして合計52万石という大大名となった加藤清正であるが、初期の江戸幕府ではこれから長く政権を維持させる為に、将来的に反発を起こしそうな大名を手当たり次第にいい訳を付けて改易にしていった。

 

水前寺成趣園内に生息する鯉-1

加藤家も元々は秀吉のお抱えお気に入り武将だったのもあり、かつ家康とはあまり気が合わなかったようで、天下制定の準備を着々と進める家康からは加藤清正ら豊臣恩顧の大名が邪魔な存在になっていたようだ。加藤清正は1611年に満49歳で亡くなるが、一部には毒殺説もあり、同時期に浅野長政や浅野幸長なども亡くなっていて豊臣恩顧の大名を一掃しようとした家康の策略だったのかもしれない。

 

水前寺成趣園内の石橋から庭園を眺める

そして加藤清正が亡くなった1611年に、11歳ながらも世子であった加藤忠広が熊本藩第2代目藩主となる。しかしまだ藩主となるには若輩者であったにも関わらず、江戸幕府からの風当たりは強くて、あれこれと難題を突き付けられる。だがまだ先代加藤清正に仕えていた家臣団を統率する力も無かった加藤忠広の元で反乱などが起こり、年配の家臣団すらコントロールできずに混乱した時代を過ごした。

 

 

水前寺成趣園内の石橋から庭園を眺める-1

そして熊本藩第2代目藩主となって22年が経った1633年に、改易となって領地を取り上げられて加藤家は終焉を迎える。そんな加藤家の後釜になったのが、同じ九州で小倉藩主となっていた細川家である。この細川家は先程話に出てきた細川幽斎の後を継いだ細川忠興が当主の時代に、丹後国から小倉藩に転封されて、更に小倉藩からこの熊本藩に転封される事になる。細川家は小倉藩40万石から肥後国熊本54万石に加増されたので、その実力を認められていたという訳でもある。逆に言えば家康にとっては裏切りの無い信用できる細川家だったのであろう。

将軍に気に入られるのが、家を残す最善の策だったのだろう!

からし蓮君
からし蓮君

この細川家が肥後にやって来たからこそ、辛子蓮根が生まれたので感謝ばい!

 

水前寺成趣園内の石橋から庭園にある夏目漱石の石碑

水前寺成趣園の敷地内には、さっき入口付近に立っていた夏目漱石の句が彫られている石碑が他にも建てられていた。夏目漱石は熊本で英語教師をした後に、イギリスに留学する。ちなみにこの国費でイギリス留学した行きの長い船旅の途中に、夏目漱石はスリランカに立ち寄り現地のカレーを食べている。

 

水前寺成趣園内の石橋から庭園にある夏目漱石の石碑の説明

夏目漱石と俳句の名人であった正岡子規はともに、1867年生まれの同級生。この石碑に彫られていた句は、熊本で英語教師をしていた夏目漱石が、師と崇めた正岡子規宛に自分の作った句を送り続けた。こちらの句は明治30年(1897年)に夏目漱石が送ったもので、この水前寺成趣園に関わる内容となっている。

 

水前寺成趣園内の石橋から庭園にある手水

この水前寺成趣園内の水は阿蘇山周辺を源流とする、綺麗な水が湧き出ているという。基本的にこの熊本の水道は地下水で賄われており、熊本市内の水道は100%地下水が使われているという。

からし蓮君
からし蓮君

熊本市民は水道から出てくるミネラルウォーターを飲めるので幸せばい!

 

水前寺成趣園内の石橋から庭園にある手水の説明

100%地下水で賄われているという事は、それだけ自然が豊富で汚れていないという証拠でもある。勿論大阪では汚染によって地下水を飲む事すら出来なくて、「地下水を飲む」という発想すら出てこない。熊本城は熊本県民にとってのシンボルでもあるけど、阿蘇山は熊本県民にとっての命の源でもあるのだ。

 

 

 

熊本藩細川氏を祀る出水神社

水前寺成趣園内の石橋から庭園にある出水神社

そんな日本庭園である水前寺成趣園の一角には、明治時代になって造られたという出水(いずみ)神社がある。この水前寺成趣園は元々は肥後藩主となった細川忠利が、ここに茶屋を造ったのが起源である。そして小倉藩から熊本藩へと移動になった細川家は、幕末の明治維新が起こるまで約230年この肥後国熊本藩を統治してきたのだ。なお、現代も肥後細川家は存続しており、1993年に連立内閣で内閣総理大臣となった細川護熙氏は、この肥後細川家第18代目当主である。

 

水前寺成趣園内の石橋から庭園にある長寿の水

さっき手水があったけど、こっちにはまた別の手水のような水が出ている場所があった。ただこちらは手水というよりかは、また別の水のような感じである。

 

水前寺成趣園内の石橋から庭園にある長寿の水の案内

横にあった説明板を見てみると、これは神水「長寿の水」と書かれていた。阿蘇の火山系を源流とする天然水で、昔から”長寿の水”と信じられて、この説明板によると毎朝五合(約900ml)を飲むのを健康法としている人達がいるという。個人的には長寿の水なんて物は全くその効用は信じないけど、それを飲むために毎朝早起きしてここまで歩いて綺麗な水を飲むという、健康的な定期習慣を作る行為自体は健康になる可能性を感じれそうである。

 

水前寺成趣園内の石橋から庭園にある長寿の水-1

単なる湧き出る水だけど、大阪市内ではまず見る事の出来ない天然水。熊本市内にはあまり観光で見るものがないと思っていたけど、こんな綺麗な水が地下の奥底に埋まっているだけで充分な宝物である。このような自然の宝は、人類がどう頑張っても自分達で作れるものではないから。

 

水前寺成趣園内の石橋から庭園にある光複-1

そんな出水神社内にはこのような石碑も設置されている。この石碑はまだ新しそうな感じに見えるけど、これらを設置するからには必ず何かしらの理由があるのだ。

 

水前寺成趣園内の石橋から庭園にある光複

その石碑の横にはちゃんとこのように説明板が設置されているので、とても親切である。しかも日本語以外に英語・韓国語・中国語とインバウンド客に対応しているので、水前寺成趣園の丁寧さが分かる。

 

水前寺成趣園内の石橋から庭園にある出水神社の社殿

こちらは出水神社の社殿であるが、さっきの「光復」の石碑にもあったように、この社殿は西南戦争で焼け野原となった翌年の明治11年(1878年)に建てられたものだが、第二次世界大戦の時に空襲によって焼失してしまい、昭和48年(1973年)に再建されたものそうだ。

 

 

水前寺成趣園内の石橋から庭園にある出水神社の社殿-1

この出水神社は肥後細川家ゆかりの水前寺成趣園の敷地内に建てられているだけに、熊本藩細川氏の祖である細川忠利細川幽斎細川忠興といった細川家の流れを形成した名君と共に、”江戸中期の名三君”とも称された肥後国熊本藩6代藩主である細川重賢が主祭として祀られているそうだ。藩祖の人は祀られる事が多いけど、後の方の人が祀られているのはそれだけ、人々から慕われているからであろう。

 

 

水前寺成趣園内の石橋から庭園にある出水神社の社殿-2

このような江戸時代から続く家柄も明治時代から大正~昭和~平成の時代を通じて終わっていたのかと思いきや、ちゃんと現在でもまだ家柄は続いている。この肥後細川家や上杉謙信を祖にする米沢上杉家も第17代当主まで続いている。

 

水前寺成趣園内の石橋から庭園にある出水神社の参拝方法

いつも思うのだけど、このような参拝の作法については誰が決めているのだろうか? このような神社も流派が数多く存在していて、それらの流派を引き継いでいっているだけなのか? それともこのような参拝の仕方に神様への気持ちが通じる科学的根拠でもあるのだろうか?

 

水前寺成趣園内の石橋から庭園にある出水神社の社殿-3

戦後の1973年に再建された社殿なので、あまり古さは感じない造りとなっている。個人的に神様という存在は人間が勝手に創り出した想像上の存在なので、それに対して祈る気持ちというものはボクには湧き出ない。だから賽銭箱があるからといって小銭を入れる訳でもないし、手を合わせる事も無い。。

 

水前寺成趣園内の石橋から庭園にある出水神社の社殿横にあった松

こちらの社殿横には、粋な感じの松が見えている。盆栽に入れていた松が大きくなり過ぎて、こっちの庭に移したかのような感じにも見える。

 

水前寺成趣園内の石橋から庭園にある出水神社の社殿横にあった松の看板

こちらの説明板によると、「五葉の松」と呼ばれているようで小倉藩からこの肥後国熊本藩主になった細川忠利が大事に育てていた盆栽の松のようだ。横にある社殿は第二次世界大戦中に焼失してしまったというから、この松もひょっとしたらこの看板には書かれてないけど、燃えてしまってその後に新芽が出て成長して、このようになっているのかもしれない。

 

水前寺成趣園内の石橋から庭園にある出水神社の社殿横にあった松を眺める

個人的に神社の社殿などには興味は全然惹かれないけど、その神社の境内にある歴史的な物には興味を惹かれてしまう。この松も本当に400年程の樹齢かどうかは分からないけど、それなりに貫禄を感じる松であった。

 

水前寺成趣園内の石橋から庭園にある出水神社の社殿横にあった松を眺める-1

盆栽の松って大体鉢に入っているのであまり大きくないけど、これぐらいの大きさはなかなか見れないレベル。よく盆栽の松で見られるものは、特異な形状は全て人工的に矯正されていて人為的な形になるようにされているのである。だから今では矯正は外れて、松の自由な感じで成長していっているのだろう。

 

 

水前寺成趣園内の石橋から庭園にある出水神社の社殿横にあった松を眺める-2

松の樹齢も山間部や平野部によって、地下水の高さで腐り出す年代が違うらしい。平野部にある水前寺成趣園だと、一般的には約200年前後の樹齢らしいので、この松の木も起源はその細川忠利が大事にしていた盆栽の松だったかもしれないけど、その後の2代目・3代目の松なのかもしれない。

 

水前寺成趣園内の石橋から庭園にある出水神社の社殿横にあった松の枝を眺める

ただこのように伸びた枝が長く重た過ぎて、人間のように介護を必要としている姿を見ると、この松の歴史を感じてしまう。いくら生命力が強い植物も、最終的には人間などの生命体と一緒で枯れて朽ちる時が来る。本来自然に朽ちるタイミングを延命しようという人間の手法は、地球上の自然界を冒涜する行為なのかもしれない。

 

水前寺成趣園内の石橋から庭園にある出水神社の社殿横にあった松の枝を眺める-1

ただ本当の樹齢は不明だけど、このクソ暑い夏でも直射日光に負けずに元気そうに緑色をしていた、この「五葉の松」。この様子だとまだまだこれからも、ここで元気な姿を見られそうである。

 

水前寺成趣園内の石橋から庭園にある出水神社の鳥居は工事中

こちらはそんな出水神社の鳥居で、その周辺は工事作業中で立ち入り禁止となっていた。ただよ~~く見ると、この鳥居は色が塗られていなかったので、新しくここに設置される鳥居だったのかもしれない。それにしても木材のそのままで、無地の鳥居というのはあまり見ないような気がするけども。。

 

水前寺成趣園内の石橋から庭園にある出水神社の鳥居横にある松

そんな出水神社の鳥居脇にはこれまた松が立っていて、その手前に設置されている案内板によると、昭和6年(1931年)に熊本を訪れた昭和天皇が植えた松だという。日本人は松が好きだし、天皇陛下や親王が来て植えた木という案内がそこかしらに立てられてもいるのだ。

 

水前寺成趣園内の石橋から庭園にある出水神社の説明

こちら出水神社の手前には、この出水神社についての案内板も設置されている。このような説明で「商売繁盛・学業成就・縁結び・無病息災などの御利益がある」というけど、どういった科学的根拠に基づいて発表しているのだろうか? 逆に御利益というのは人々が勝手に実感したらそれが御利益で、何もそれら実感がなければまだ御利益がないだけといった理解の事なんだろうか?

 

水前寺成趣園内の石橋から庭園にある出水神社から眺める庭園

という感じで真夏の炎天下の中で、観光客が少ない為に逆に静かにゆっくり見物が出来る水前寺成趣園をウロウロとしながらの散策はまだ続きます。

 

こんな旅はまた次回に続きます!

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