歴史民俗資料館で昔の島民達の生活様式を勉強【奄美大島旅行記④】

奄美大島旅行記2020年-④

 旅行期間:2020年10月1日~5日

(Learning about the lifestyle of the islanders in the past at the History and Folklore Museum [Amami Oshima travelogue 4].)

太古の人類は貝に救われていた

さて周辺も散策し終わって、これから満を持して「奄美市立歴史民俗資料館」の建物内へと進んで行きます。

 

 

さて一旦資料館へと入る前に念のために、もう一度今の時間を確認します。13時20分と昼の休憩時間が終わっていたので、恐らく資料館はオープンしているはず。しかしこういった島や地方に行くと、それでも気まぐれで閉まっていたりする施設もあるので、そういった場合は潔く諦めるのが最善の方法である。

 

そんな資料館の入口横に置かれていたこちらの石は「ノジュウル」というもので、これだけ大きな物は珍しいという。しかし肝心の説明パネルもだいぶ劣化して、肝心の文字が読めなくなっているのが残念だったが。。

 

 

民俗資料館にてお勉強!

世間ではこの島を奄美大島というけど、この地方の人からすると「大島」とも呼ぶ。この辺りは奄美列島の一部にある大島なので、それが合体して奄美大島と今では一般的に呼ばれるようになったようだ。

 

施設の入口で入場料200円を支払って、静かな館内へと進んで行きます。この時もボク以外には見学客が居なくて、ひっそりとした館内。

自然にソーシャルディスタンスが確保できます!

 

そして館内でまず目に飛び込んできたのが、こちらの大きなアラの魚拓。奄美大島などこの地域は周りが海で囲まれているだけに、このような魚が豊富に採れる場所。このアラも鍋などにすると美味しいらしいので、是非食べてみたい魚である。

 

この奄美大島などではそんな海に囲まれた環境を生かして、昔から漁業が盛んであった。そしてその漁業に使われた船は、このような大木をくり抜いて造った木船(スブネ)である。

 

このくり抜かれた木船は「スブネ」という名前で呼ばれており、主にリュウキュウ松を材料としている。このリュウキュウ松は奄美大島や沖縄などで昔からシンボル的な木として存在しており、長く人々に愛されてきた木である。

 

このように資料館内には昔の人々が使っていた漁業に関する品や、生活に使っていたものなどが所狭しと展示されている光景が広がる。

 

こちらは「サデ網」という、浅瀬で魚を採る為の網である。これは単独で漁を行うのではなくて、反対側から魚を追い立ててこの網側へ魚がやって来た時にすくい上げて捕獲する方法が採られていたようだ。

 

この奄美大島は琉球王国に属していたので、このように「サワラトゥギャ」というあまり聞き慣れない名前が使われている。

 

こちらは船底に溜まった海水を掻き出す為の道具で、「ユトリ」「アカトリ」という名前で呼ばれたもの。標準語では違う意味に思える道具も、この琉球王国エリアでは独特な呼び方をしていたようだ。

 

こちらの服は「バシャギン(芭蕉布の着物)」で、食用に適していない山バナナの糸芭蕉の繊維から紡いで織られた着物。昔は木綿の着物に相当する、この島では宝のように扱われていた品である。

 

こちらはそんな糸芭蕉の繊維から紡がれた「芭蕉の糸」。一反の服を織る為には糸芭蕉が200本必要だったとされている。なおこの地方では昔から婚期を迎えた、あまり美人ではない娘を「バシャヤマ」と呼んでいた。というのもあまり美人ではない娘を貰ってもらうためには、持参金代わりに糸芭蕉が生える山を付けないといけなかった事に由来しているという。

 

沖縄でもこの糸芭蕉が盛んに使われていたが、第二次世界大戦後に支配したアメリカ軍が蚊の繁殖を防止する為に糸芭蕉を焼き払ったので、今ではその姿が殆ど見れなくなっているという。

 

こちらは昔の人々が勿論手作りで造っていたノコギリなどの道具が見える。元々奄美大島では中国大陸から伝達してきた稲作や芋などを栽培していたが、江戸時代になると琉球王国を支配した薩摩藩によって厳しいサトウキビ栽培の方針を押し付けられる事になる。

 

こちらは明治~大正時代に奄美大島の庶民の家を再現した場所となっている。ただ奄美大島といえども、このように畳がある家を見るとそんなに違う文化に見えなくない。

 

こちらには奄美の民家の構造が説明されているけど、さすがにそれぞれに使われていた名前が独特な名前となっているのが分かる。

 

こちらは「トーグラ」という母屋の西側に造られていた部屋。ただこれを見ると琉球王国というよりは、まだ日本本土側の文化の影響を強く受けているのが分かる。これだけ見ていると、全然奄美大島の家とは思えないように感じる。

 

昔から稲作が中心だった奄美大島だけど薩摩藩の支配下になって、温暖な気候を活かして栽培される貴重なサトウキビをほぼ強制的に強いられる事になる。というのも常に財政難を抱えていた薩摩藩では、日本国内では貴重な砂糖の原料となるサトウキビを収入源として期待した為である。

 

そんなサトウキビは元々稲作の田んぼだった場所や開墾できる山の上まで、至る所にまで植えられた。その代わりに稲作は極端に減り、サトウキビだけでは食糧とならないので米などは鹿児島から持ち込まれた。しかしこの米は薩摩藩の言いなりの高い値段で販売され、更にサトウキビも薩摩藩の言い値で強制的に買い取りされて、勝手に自分達で販売すると下手したら処刑される罰則もあり、当時の庶民たちは貧困に喘ぐ事になる。

 

そんな苦しい時代は「サトウキビ地獄」とも呼ばれて、嵐や不作が続くと米を入手できないので餓死者が相次いだ。その対策として本来は毒を持つ蘇鉄の実を毒抜きして、それを食べる事によって命を繋いでいた。そんな負の歴史があって、今でも奄美大島では多くの場所で蘇鉄が見られる訳である。

東郷どん
東郷どん

おいどんも2年間大島で暮らしたけんど、人々の生活はあまりにも貧しくて悲惨だったバイ!

 

こちらにあった木の道具のような物は「モーシャ」と呼ばれていて、言うなれば”奄美大島版アイスホッケー”という感じのもの。下に置かれているコマのようなものを、相手の陣地に入れるゲームだったようだ。

 

そして次のブースにはもう少し古い時代の物が展示されている。大昔は稲作をする技術や知恵がなかった人類は、主に貝を食べて命を繋いでいたので、それらの貝が多く発掘された場所が貝塚となっている。

 

 

こちらには珊瑚を削って造られた仏堂が見える。今では手首や顔の部分が破損して削れてしまっているけど、ちゃんと仏教もこの島に伝来していたのが見て取れる。

 

こちらには石を削って作られている仏像も見える。ただ顔を部分はのっぺりした所に、子供が落書きしたような目と鼻と口が彫られているように見える。。

 

こちらは琉球王国で使われていた、偉いさんの遺骨が埋葬される骨壺である。なおこちらの風習ではこの骨壺に入れられた骨は、3~5年後に開封されて海水で洗われてから、再び骨壺に収められるという。

 

こちらには「マツノト遺跡」という場所で見つかった、貝関係が展示されている。昔はまだ道具を作るという知恵がなかった人類だが、貝塚で暮らす内に普段食べる貝の貝殻を削ったり摩耗したりして、道具として使うように進化していく。

 

そしてこちらに保管されていたのは、この辺りで発掘された大昔の人類の実際の骨だという。ただボクは自分の歯が綺麗ではないので、それもあって自然とこの歯の部分が綺麗に残されているのに目が行ってしまう。。

 

こちらにも「マツノト遺跡」から大量に出土したという夜光貝が沢山陳列されているのが見える。この夜光貝は字のようにこの貝自体が発光する訳ではないけど、内側の真珠層が光に反射して綺麗に光っているように見えるので、昔から人類の装飾品としても使われてきたのである。

 

このような貝はただ単に中身を食べるだけではなくて、その貝殻を活かして人類の生活を向上していった。人類が他の生物と比べても大きく発達したのは、それだけ身の回りの物を上手く活用して生活の質を向上させたからである。

 

そして初めは貝を割って削ったりして道具を造っていた人類は、その内にこういった土器などを作るまでになる。そして現代ではその発展スピードに体の進化が追い付けない位になってしまっているが、これからもドンドンと付いていけない程に人類の社会は変貌していく事だろう。

 

こんな旅はまた次回に続きます!

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