宮崎県旅行記2020年-㉞
旅行期間:2020年10月18日~22日
(A view of Aya Town with beautiful rice fields from the Aya Castle tower.)
素晴らしい景色!
宮崎県でも中西部に位置する綾町。田んぼや農作物が中心の綾町には中世時代にこの場所にあったという「綾城」が、今では再建されています。江戸時代頃の城とは違い、中世時代の城の造りを再現した為に、こじんまりとしたお城となっています。
綾城2階部分を見学!
こちらには刀が展示されている。日本人からすると刀という物は侍なら誰もが持っていた物だけど、ここ綾城には田中國廣という、戦国時代きっての名刀鍛冶と称された人物がいたのである。
こちらはその名刀鍛冶だった田中國廣の父である「旅泊庵国昌」が作ったとされる刀も置かれている。この家系は代々刀鍛冶としてその熟練工芸が受け継がれていたようだ。
田中國廣が作った刀はそれを使っていた軍の敵に注目されるようになる。島津軍がその刀を使っていた事もあって、敵対した秀吉方が注目して京に田中國廣を呼び寄せて、刀を造らせたという。
田中國廣は綾城から”豊後落ち”する伊東氏と共に豊後に移り住むが、後に京へ出てそこで刀鍛冶として鍛錬を積む。そして次第にその技術が評判を呼び、この当時は当代きっての刀鍛冶として名を馳せる事になる。
刀鍛冶の方法としては、昔から同じような仕上げ方が今でも見られる。熱く熱したたたら製鉄をひたすらに金づちで叩いて、それで強度を増して、更には見栄えも良くなるように仕上げていく。
この当時は色んな職人がいたけど、侍の命とも呼べる刀を作る刀鍛冶はそんな職人の中でも特に高い地位にあったようだ。刀鍛冶はひたすらに黙々と命を鋼に籠めるように、一心不乱に作業を進めて、終いに刀は芸術品の域に達する事になる。
刀も戦国時代には戦乱時だったので必需品だったけど、平穏な江戸時代になるとどちらかというと侍を象徴する道具のようになっていき、細かい仕上げなどの技法がどんどん精密化していく事になる。
こちらの石のような物は田中國廣が刀鍛冶をしていた鍜治場跡から発見された「金糞(カナクソ)」と呼ばれる、タタラ製鉄の際に出てくる不純物が固まったもの。一説にはこの金糞は”安産のお守り”として、刀鍛冶の間では重宝されていたとか。
このように刀鍛冶の方法は昔から同じで、ひたすらに叩いて刀身を鍛えていたようだ。気の遠くなる作業に思えるけど、芸術というのはそういった果てしない道を進み切った時に生まれるのだろう。
当時日本一とも称された田中國廣が作った刀は、国の重要文化財にも指定されているという。なお彼はその後京の一条堀川に移り住んだ為に、堀川国広と呼ばれるようになったという。
当時は色んな呼び名があって、また号など自称する名前も沢山あったコ~!
なので刀というとこのような刀身よりも持ち手や鞘が付いた状態を頭に思い浮かべるけど、それはあくまでも付属品であって、刀にとって一番重要なのはこの刀身なのである。だからお城や博物館で展示されている刀は、このような刀身が剥き出しな状態で展示されている事が多い。
さて2階部分も一応見終わったので、上に向かう階段へと進みます。なおこの綾城は基本的には2階建構造となっていて、その上に物見櫓が取り付けられているという認識のお城。
この綾城は1300年代という中世時代に造られた城だったので、当時はまだ立派な天守閣がある城が無かった時代。基本的は天守閣ではなくて、守りの要所である城の上に周囲をよく見渡せる物見櫓を造り、そこで絶えず周囲を警戒していた。
天守閣という認識が出来たのが1500年代で、有名なとこでは織田信長が安土城に豪華な五層にもなる大天守閣を造ったとされている。そしてそんな織田信長公にあこがれを抱き続けた豊臣秀吉も、それに負けず劣らずの天守閣を造らせたという。しかし江戸時代になると大きな天守閣は江戸幕府から睨まれる原因となった為に、五層だった天守閣を三層に減らした城もあるし、天守閣が消失した時に再建しなかった城などもある。
綾城の天守閣(物見櫓)にて
という事で2階部分から中二階を経て、3階部分に相当する物見櫓まで上がって来ました。さすがに高い場所にある物見櫓だけに、下から見た時よりも多くを見晴らせる光景が待ち受けているようで、ワクワクしてきます。
ただお城があまり大きくなく、天守閣ではなくてあくまでも周囲を観察する物見櫓なので、3階部分の内部はこのように質素な造りとなっている。なのでてっきりここが天守閣だと思って豪華な内装を期待して登ると、少しガッカリするかもしれない。。
ここは扉から外に出る事が出来るけど、雨の日は滑りやすくなるので注意が必要との事。
ただし今日は快晴に恵まれているので、そんな雨が降った時の事なんて全然想像が出来ない。
そして物見櫓から外に出る扉を開けると、眩しい光と共に綾町の景色が目に飛び込んで来る。人間って不思議な生き物で、鳥のようには飛べないからか、このような高い場所から下を見下ろす景色が大好きな生き物なのである。
このように目の前には綾町の景色が広がっており、田舎っぽい割には町の中央部分には体育館のような大きな建物なども見られる。しかし基本的には農作物が中心の町なので、周囲には綺麗な色をした田んぼが広がっているのが見える。
綾城の物見櫓から見える景色 動画
この綾町は「有機農業の町」や「照葉樹林都市」などをPRして町興しに成功した町とされていて、2012年には『ユネスコエコパーク』にも登録されたという。それもあって全国から田舎暮らしに憧れた移住者が多く移り住んできているというけど、それもいい事ばかりではなく、逆に想像していた暮らしが出来ずにUターンして帰ってしまう人も少なくないという。
理想と現実は違って、世の中は甘くないんじゃ!
この綾城は山城となっており、周囲からは隔離された防御には最適の場所に造られている。隣の高台までは橋が無いと辿り着く事が出来ないけど、ここは今では照明付きのグラウンドが作られている。
この綾町に来た目的は「照葉大吊橋」という、かつて一番高かった橋を訪れる事だった。この綾城からさっきのグラウンドまで向かう途中にはこのような吊り橋が架かっているけど、これはその目的の照葉大吊橋ではなく、普通サイズの吊り橋。
昭和時代になってから全国で城の再建ブームが起きて、多くの”鉄筋コンクリート造りのなんちゃって城”が現れた。そんな鉄筋コンクリート造りの城は全然当時の雰囲気が感じられないので個人的には嫌いだけど、この綾城は木造で造られているのでいい雰囲気を出していた。
綾城から見える景色 動画
日本全国で今見られる城の大半は江戸時代に造られた城ばかりであるが、こちらはそれよりも昔の中世時代に造られた城を再現したものなので、このように屋根の端っこに載っているのは鯱ではなく、「鴟尾(しび)」という古来中国から伝わった鳥の尾の形を表した装飾となっている。
この綾町には6,000~7,000人程の住民が住んでいるというが、綾町も宮崎県も年々人口が減少している。少子高齢化に加えて若い子は都会へ出てしまうしで、過疎化は歯止めが効かないという。
なので今でも財政に苦しむ地方都市だけど、今の高齢者達が更なる高齢者となる10~20年後にはもっと財政面で大変になっていく可能性大である。ただでさえ現状は国債を発行しまくって膨大な借金を抱えている状態の日本なので、将来的には生産力がどんどん減少して破産する可能性も考えられる。
日本の行く末も危ないな・・・
さて綾城の物見櫓の外側を3周ぐらいしてタップリと周囲の景色を楽しんだので、そろそろ下に降りるとします。なおこのように城内の階段の勾配が急になっているので、降りる時は慎重に降りましょう。
そして階段を降りて2階部分に戻ってくると、さっき1階から2階に登ってきた時と同様に、この3体の人形を見てまたビックリしてしまうのであった・・・。
こんな旅はまた次回に続きます!
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