中世の城を再現して、新たに造られた綾城に足を踏み入れる【宮崎旅行記㉜】

宮崎県旅行記2020年-㉜

 旅行期間:2020年10月18日~22日
(Step into the newly built Aya Castle, a recreation of a medieval castle.)

静かなお城

ここは宮崎県でも宮崎市内から西の方へと車を走らせて到着して、綾町という農産がメインの小さな町。その綾町には1300年代に建城されたという、中世のお城「綾城」が昭和の後半になってから再建されています。

 

【綾城】

住所:宮崎県東諸県郡綾町北俣1012
営業時間: 9時~17時頃(※定休日:木曜日)
電話番号:0985-77-1223
入場料:大人350円/高校生300円/小中学生250円

 

 

 

綾城の内部へ足を踏み入れる!

この綾城は朝9時からオープンするけど、その直前に押しかけた為に綾城内には誰の姿も見えない。この綾城は昭和時代の後半になって再建されたお城なので、このように比較的内装は綺麗になっているし、鉄筋コンクリート造りになっている感じでもないので、意外と良い感じに思える。

 

お城内は土足禁止になっているので、まずは入口でこちらのスリッパに履き替えます。よく見るスリッパだけどクロックスを履き慣れている人間からすると、この普通のスリッパは歩きにくて仕方がない。出来ればこういう所に用意されているスリッパも、クロックスとかに入れ替えてサービスを向上してもいいかと個人的には思う。

日向夏男
日向夏男

ただクロックスはいい値段するから、導入は難しいだろうね!

 

宮崎県には江戸時代に飫肥藩が支配していた場所で、飫肥藩と言えば全国的にも飫肥杉が有名だという。しかし今の時代は鉄筋コンクリート造りの住宅などが増えて、更には海外の安い材木とかも輸入されて使われている時代なので、なかなか国産のいい値段の杉は使われる機会が減っているようだ。

 

この木造の綾城で支柱として使われているのは、このように「栂(ツガ)」という松科の木である。大きなお城の支柱だけに樹齢約280年という、しっかりした材木が使用されているようだ。

 

スリッパに履き替えて城内1階部分に足を踏み入れると、いきなり戦国時代頃に使われていたような甲冑や矢などの道具が見えてくる。今の日本に住んでいると戦争など身近に思える機会がないけど、この甲冑などが使われていた時代は常に闘いを意識していた時代なんだろう。

 

日本全国で使われていた甲冑もその土地に応じて、色んな材質になっていたり、装飾とかも異なっている。特に兜はその大名の特徴などが顕著に現れているので、海軍などもあった大名では蟹の形をした前立などを取り付けているものもある。

 

人類は昔から弓矢を使って戦争をしてきたけど、戦国時代の16世紀にヨーロッパから入ってきた火縄銃が戦いのシステムが大きく変えた。そしてその新しい斬新的な鉄砲をいち早く導入し、活用したものが天下に近づく事になる。そしてそれを受け入れずに古来の騎馬による闘いを続けた大名は衰退する。古い考えにとらわれず、常に新しいものにトライしてチャレンジしていく気構えが重要である。

 

こちらは宮崎県内にあったとされる、伊東氏が造った”伊東四十八城”の城がミニチュア地図に配置されているのが見える。現代の日本人からするとお城ってあまり無かったイメージがあるけど、それは江戸時代に一国一城制が発令されて全国の城の殆どが消えてしまった訳で、その昔は全国には万を超える数のお城があったとされている。

 

 

戦国時代以前の中世の城ってのは今現存している江戸時代に造られた重厚な構造のお城ではなくて、比較的簡素化されて造られていたお城が多い。一国一城であれば1つの城に対して手間暇をかけて豪華なお城を作るけど、国内で48個もの城を作らなければいけないという状況であれば、1つの城はなるべく早く、かつなるべく低コストで作らないといけなかったハズ。

 

こちらに置かれているのは「千両箱」で、その名前の通りにこちらには小判が千両分入れられる箱だった。このように色んな物に付けられている名前は、その殆どにそれなりの名前が付けられる理由があるので、その名前の由来を勉強しようという気持ちを持っているだけで、色んな知識を身に付ける事に繋がる。

 

火縄銃はポルトガルから種子島に漂着した人が持ち込んだとされているが、その初期の火縄銃は点火するのに縄を使っていた為に発射不良などが度々起きて、使い勝手や命中精度はあまり良くなかったという。しかしそれ以降はその問題点を修正する新しい銃が開発されていき、新しい兵器を入手できればそれだけ戦争で勝てる確率が高くなる事に繋がる。

 

現代人からするとピストルって引き金を引くだけで簡単に打てるイメージだけど、この火縄銃は銃身を掃除して火薬を詰め込んで、それから弾を詰めるなど現代のピストルに比べれば、かなりの手間が掛かる品だった。

 

この綾城は足利尊氏の家来であった「細川小四郎義門」という人物が、建てた城とされている。それから細川小四郎義門は「綾氏」を名乗り、この辺りの地名で残る「綾」の由来となる。そして綾氏は八代続いた後に伊東氏の配下に下り、この綾城は伊東氏の支城となる。

 

こちらにはこの綾城の歴代城主の名前が書かれている。初代は細川小四郎義門から始まり、綾氏として八代続いた後に伊東氏の武将が3代続き、その後には島津氏の城となって島津氏の城主が6代続いたのちに廃城となる。

 

こちらは初代城主であった「細川小四郎義門」以降の綾氏の家系図である。昔の人達は先祖の名前の漢字1文字を継ぐのが主流だったようで、この綾氏は「義」という文字が代々使われているのが分かる。

 

こちらは綾氏の後にこの綾城を支配した伊東氏当主の家系図。こちらは「裕」という文字を代々継いでいるのが見て分かる。

 

伊東氏の支配下に下った綾城であるが、伊東氏は中世から隣国の島津氏と度々合戦を繰り返しており、この綾城からも兵士を出して島津氏と戦った。しかし伊東氏はよくある”お家騒動”が起こって自滅し、島津氏に敗れる事になる。

 

この綾城の周囲は自然が溢れている為に、窓を開けていると色んな虫が入ってくるから、このように窓には網戸が取り付けられている。もしこの網戸を付けていなかったら、城内は虫だらけとなっているのだろう。そう考えると、昔ここに城があった当時には城内には色んな虫が入って来て、溢れていたのかもしれない。。

 

 

朝イチに訪れたのでボク以外に誰も入ってくる感じもなくて、独り占めできた綾城。貸し切りのプチ贅沢をしているような気分で、ちょっとご満悦な瞬間でもある。

 

こちらはこの綾城とその周辺の様子を再現したミニチュア模型が置かれているのが見える。この綾城は山城なので、右手の山の上を切り開いて城や二ノ丸・三ノ丸が造られているのが分かる。

 

このように山の上でも本丸・二ノ丸・三ノ丸と、それぞれの間に谷が作られているので、橋を渡らないと本丸まで辿り着けないような構造になっているのが分かる。昔の城は戦いでの重要拠点だったので、何に付けてもまずは守り重視の設計がなされていた。

 

このミニチュア模型を見るまではあまり気にしていなかった城周辺の地形だけど、こうやって俯瞰で見ると確かにここに来るまで駐車場から橋を2回渡ってきたのを思い出す。こういう風に俯瞰状態で物事を見ると、今までの自分目線では見えなかったり、気付かなかった事に理解できる。

 

大名クラスになると服装も豪華で、戦では鎧の上にこのような陣羽織を羽織ったりと、結構大変だったのかもしれない。上杉謙信なんかは自分が騎馬に乗って真っ先に敵陣に乗り込んで行ったイメージが強いけど、基本的に大名は自軍の総大将なので最前列には出向かずに、陣の後ろから戦況を見守るのが一般的である。

エロ坊主オジサン
エロ坊主
オジサン

プレーイングマネジャーはプレイヤー目線になり易いので、意外とうまく行かないんやけ!

 

手裏剣って忍者漫画などでギザギザな物体というイメージが強く頭にあるけど、実際にはこのように尖った棒状の物が当時は主に手裏剣として使われていた。だから今の現代人の頭にあるイメージってのは、実際の歴史に忠実なものではなくて、創られた物をそうだったと刷り込まれている事も多いのである。

 

手裏剣の奥には「鎧通し」という、ドスのような物が展示されている。こちらは名前の通り、戦場で鎧を着込んでいる敵にグサっと差す刃物である。鎧は刀などで斬りかかる時にそれをガードしてくれるけど、このような尖った刃先で弱い場所を突かれると突き刺さるのである。

 

人類は昔から色んな武器や防具を開発して、何千年も戦いを繰り広げてきたけど、新しい武器や防具が開発されるとそれに対して有効な新しい物が開発されるという循環サイクルになっている。なので無敵の鎧を開発したからといって安泰な訳ではなくて、そんな無敵の鎧も時間が経つ毎に研究されて、いずれは無敵状態が解除されてしまう事になる。。

ブッダ君
ブッダ君

大日本帝国の零戦みたいに、無敵を誇っていてもいずれは時代遅れの品になるんじゃ!

 

このような刀や武具は日本全国でもお城や博物館で見る事が出来るけど、ここ綾城に展示されている物の殆どは個人から寄贈されたものばかり。だから大名が持っていたというよりは、各家に代々伝わったものが展示されている。

 

昔の戦いは命のやり取りがメインだったので、戦争に着けていくものは基本機能的なものばかりかと思っていたけど、偉いさんクラスになると戦場でも少しは華やかさが欲しかったようで、一目見て分かる装飾物などを見に着けていたようだ。

 

こちらには怖い顔をしている甲冑が置かれている。このような甲冑は江戸時代や戦国時代から現存している物もあるけど、鎧の固い部分は劣化しないけど、それを繋いでいる紐部分が劣化して新たに結びなおされているものも意外と多い。

 

こちらは全国的にもよく目にする「十曜紋」で伊東氏が使っていた家紋だけど、昔の大名は家紋は1個と決まっている訳ではなくて、何個かの家紋を使い分けていた。この伊東氏は平安~鎌倉時代まで伊豆国(静岡)で藤原南家の流れを汲む豪族だったので、その流れで『庵に木瓜』という伊東氏独自の家紋の方が実は代表的なのである。

 

そんな『庵に木瓜』が代表的な伊東氏ではあるが、中世からのインド地方を原点とする宗教の象徴である「九曜」や「十曜」なども取り入れて同時に使われていた。これは千葉からの流れを汲むもので、遠縁の影響を受けていたという。

 

このような甲冑も合戦に参加する兵士全員に配布されていた訳ではないと思うので、豪華な甲冑を着て戦に参加できるだけで、それ自体が名誉だったのかもしれない。。

 

こんな旅はまた次回に続きます!

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