暗くなった飫肥城下町で鯉が泳ぐ用水路や小村寿太郎生誕地を散策【宮崎旅行記58】

宮崎県旅行記2020年-58

 旅行期間:2020年10月18日~22日
(After dark, walk around the Obi Castle Town and visit the waterways where carp are swimming and the birthplace of Jutaro Komura.)

暗くなったらお土産屋は全滅・・・

ここは宮崎県南部の日南市にある、江戸時代に飫肥藩を治めていた伊東氏が居城としていた飫肥城の周辺に栄えていた飫肥城下町。この飫肥城下町は九州地方では初の『重要伝統的建造物群保存地区』にも選ばれる程に、江戸時代の街並みを残しているエリアでもある。

 

 

飫肥城下町にて

ただ重要伝統的建造物群保存地区として昔の景観が保存されている街並みではあるけど、ここにある建物全てが昔の建物がそのまま現存している訳ではない。今でもこの辺りの住居などでは住んでいる人もいるので、ここにある建物だから敷地内も見学が自由になっている訳でもないので見学にはマナーをわきまえる必要がある。

 

このような武家屋敷群が残っている場所の多くは、山の奥などに造られて現代化に取り残された町などが多い。しかしこの飫肥城下町ではちゃんと車通行用道路が整備されているし、街灯も景観に合わせて背の低いものになっている。

 

建物自体は中には新しい物もあり、外観だけは武家屋敷のレトロな建物に見えるように造っているものが多い。しかしこの辺りの家にある石垣などは、見るからに古そうな雰囲気を醸し出している。

 

ただ昔の町では車は勿論走っていなかったので城の近くに造られている城下町ですら、このように一車線の道路が限界となっている。今では想像できない世界だけど、江戸時代までは細い道で充分だったのであろう。

 

 

城下町の景観 動画

 

 

江戸時代には多くの人が徒歩で移動していたので、そこまで広い道幅自体が必要なかったのだろう。中には籠に乗って移動するという手段もあったようだけど、ヨーロッパみたいな馬車も殆ど無かったのだろう。

 

この城下町では碁盤の目状に区画整理がされていて、更にはそれに沿って道の脇に水路が作られていて、それが防火用水や生活用水などとして利用されていたという。しかし近代化が進むに従ってその水路は用をなさなくなっていき、更には汚れてしまったが近年になって城下町保存活動が起こって、その一環で水路も綺麗に整備しなおしたのである。

 

そんな城下町の水路には、今ではこのように錦鯉が放流されている。日本庭園などの池ではよく見かける鯉も、このように城下町の用水路で泳いでる景色が見れるとは何とも豪華である。

 

 

水路で泳ぐ鯉 動画

 

 

昔はこの飫肥城周辺を流れる酒谷川(さかたにがわ)の水流を取り込んで、木造建築物が多い代わりに火事も多かった問題を解決したのである。しかし昭和になって過疎化が進むに従って、町も荒廃し水路も汚れていく事になった。

 

 

今でこそ、このように武家屋敷群のイメージを普通に見る事が出来るけど、この景色を今見れるのはこの武家屋敷群の景観保存運動を行った人達の賜物である。明治時代以降は城も廃止された事を受けて、このような武家屋敷などもどんどん取り壊されていって、西洋化建築が増えていった。

 

そして一時は飫肥杉の加工・輸出で大きく潤った飫肥の町も、昭和時代になると加工が簡単で長持ちするプラスティックの台頭で出番が少なくなり、更には過疎化が追い打ちをかけてこの城下町もどんどん荒廃していった。

 

そんな時に昔からの飫肥の町を守る運動を起こしたのが、先程飫肥城敷地内に胸像が設置されていた、日南市長だった河野禮三郎である。このままでは失われてしまう飫肥の良さを残す為に、町興しの一環も兼ねて飫肥城の復原や城下町の保存などの運動を行ったのである。

 

>雨と川が育んだきらめきの歴史(PDF) – 宮崎県資料

 

この飫肥の町は飫肥杉などの特産品を活かして商人の町として一時は潤ったが、近代化が進むとその波には勝てずに沈んでいく事になる。しかし今見られるような武家屋敷群が残っているのは、逆にそういった衰退して人口が少なくなった町だからこそ、新たな開発が行われなかったから残っているのである。

日向夏男
日向夏男

世の中は皮肉な事が多いね!

 

だから他の場所の武家屋敷群もパっと見は古くて衰退したような町にも見えてしまうけど、衰退した事によってその街並みが残っている訳だから、町の衰退に感謝しないといけないのかもしれない。

 

 

小村寿太郎の生誕地にて

そんな風にブラブラと城下町を歩いていると、何やらひと際大きい石碑が見えてきた。こちらがこの町で最大の出世頭である「小村寿太郎」が生まれた場所だという。

 

こちらの案内板にあるように、小村寿太郎は1855年に町役人をしていた下級藩士の息子としてこの場所に産まれる。そして明治時代には旧飫肥藩の専売事業を受け継ぐ商社の社長に父親が就任するが、その経営を巡って行われた裁判によって破産してしまい、ここの生家から移住せざるを得なくなった。

 

この飫肥城を見学していると江戸時代の間、この飫肥藩を治め続けた伊東氏の名前は全然見られなかったけど、このように飫肥の町では記念館があったり生家や生誕の地などが残されている小村寿太郎が独り勝ち状態である。なんたって明治時代にアメリカに留学し、あのハーバード大学のロースクールを成績優秀で卒業して、現地で更に弁護士事務所に務めて、日本に帰ってからは外交官として色んな外交政策に関わった偉人である。

 

かつて小村寿太郎が生まれたこの土地は、父親が破産した為に隣に住んでいた山本猪平が譲り受ける事になる。そして1933年にその山本猪平がこの土地を自治体に寄付して、その際に集められた寄付金でこちらの大きな生誕記念碑が造られたという。なお、この大きな記念碑の正面に入っている文字は、ロシア海戦でも活躍した東郷平八郎が書いた筆跡だという。

 

こちらの看板に書かれている見取り図は、昔ここにあった小村寿太郎の生家の間取りである。なおこれは明治12年に書かれた物だけど、この生家の一部は飫肥城大手門近くに移転されて保存されている。

 

そして城下町を歩いていると、国道222号線が見えてくる。この国道は日南市を起点として西側に延びており、宮崎県都城市まで繋がっている道。この通りは飫肥城下町でも多くの商店が栄えて人通りが多かった道だが、昭和になってからは車の交通量が増えた為にこの場所を迂回するバイパス道路を造る計画が持ち上がった。

 

しかしバイパス道路が出来てしまうと、この飫肥城下町にやって来る人の数が少なくなると反対運動が起こり、結局はこの国道222号線の道幅を増やす事になった。しかし道幅拡張工事の影響でこの通りに立っていた昔ながらの建物は、取り壊される事になってしまった。それを目にした人達が立ち上がって、城下町の保存運動を推進して、今の城下町が残される結末となったのである。

 

だからこの国道沿いに立っている建物の外観は江戸時代からのような物に一見は見えるけど、その殆どは意外と中身は新しい物が多い。日本の場合は地震が多いという特徴のある国なので、古い建物ほど取り壊される運命が待ち受けている。なので古い建物は壊しても、新しく造る建物はこの城下町の雰囲気を守る為のルールが作られているようだ。

 

 

ただこの飫肥城下町は18時前にも関わらず、多くのお土産屋さんなどは既に閉まっていた。特に今年は新型コロナウイルスの影響で全国的に観光客が激減した年なので、それもあって早く営業を終了していたのかもしれない。

 

だからか、あまり人も歩いていないし、静かな街並みなので何となく落ち着ける飫肥城下町。昨晩ここに来た時は真っ暗だったので城下町の存在すら確認出来なかったけど、今日は城下町をのんびり歩く事が出来て幸せである。

 

本当はこの城下町で何かこの辺りの名物を晩御飯にしようと思っていたのだが、残念ながらそれは叶わなかった。そしてそろそろ夕陽も沈み、黄昏時も終わりそうな時間帯になってきた。今日までの宮崎旅では毎日宮崎市内に戻ってから晩御飯を食べていたけど、今日は最後の晩餐という事でこの近くにある港町の油津に行って、何か食べてから帰ろうと思う。

 

こんな旅はまた次回に続きます!

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