飫肥城の本丸跡地には、樹齢100年を超す飫肥杉が乱立していた【宮崎旅行記56】

宮崎県旅行記2020年-56

 旅行期間:2020年10月18日~22日
(Obi cedars over 100 years old were growing wildly on the site of the main part of the Obi Castle.)

見放された本丸跡の現在

ここは宮崎県の南部に位置する日南市。その日南市にはこの地域をかつて支配していた伊東家の飫肥藩が存在していた場所でもあり、その飫肥藩の居城である飫肥城跡地が残されています。

 

 

 

「松尾の丸」の見学は続く!

そんな飫肥城跡地も昭和後半になってから日南市の町興し政策を兼ねて、大手門や歴史資料館や、この「松尾の丸」という江戸時代の御殿を再現した建物が作られている。だけど肝心の本丸は江戸時代に数回起こった大地震によって地割れが発生した為に、その時点で見放されてそれ以降は建物は取り壊されてしまったようだ。

 

ここは狭い入口を入った中にある「茶室」。戦国時代を代表する茶人:千利休などが、わびさびを芸術の域まで高めた当時の高貴な趣味レベルの世界観である。元々はもっと狭く、装飾品なども全然置かれていない質素な部屋だったハズだけど、江戸時代になると茶道が大きく広がった為に本来の質素さは消えつつあったのかもしれない。

 

現代では茶道に触れる機会が殆ど無くて、自分から望まないとこういう部屋でお茶を飲む機会なんてまず体験できない。なので個人的にはこういった茶道は、殆ど体験した事がなくて未知の世界である。

 

当時は今ほどに娯楽や趣味のバリエーションが無かった為に、茶道が流行っていたのであろう。しかし今では数えきれない位の趣味の世界が広がっており、それでも更に日々多くの新しい趣味ワールドが拡大していっている。

 

「わびさびは日本人の心」という言葉を聞く事があるけど、茶道の世界観が日本国内に広まったからそういった考え方が日本人に合う訳で、もし茶道が広がらなかったら現代の日本人の考え方は違うものになっていたかもしれない。

 

こちらに置かれていた瓦は、この松尾の丸が建築された昭和54年に造られた「庵木瓜」という伊東氏を代表する家紋が入れられたもの。伊東氏の家紋だとこの「庵木瓜」が一番代表的なハズなんだけど、ここ飫肥城周辺では入口でも見た「九曜紋」の方が目にする機会が多かったが。

 

この「松尾の丸」は江戸時代の御殿を再現して作った建物なので、基本的にはまだ建てられてから約40年程しか経過していないので、そんなに古い物ではない。遠くから見ると如何にも古そうな建物の佇まいをしていたけど、実際に敷地内から見てみると、このようにガラス戸があったりと現代風にアレンジされている。

 

という事で「松尾の丸」の見学は終了。ここが伊東氏らしさの雰囲気を出していたのが、この九曜紋が大きく掲げられた入口付近だけだったような。。

 

この飫肥城についてはここを訪れるまで全く知識が無かったけど、大手門があるという事は本丸にあった天守閣も再建されているのだろうと思い込んでいた。しかし明治時代に廃棄されてしまったお城の多くは、本丸も民間などに払い下げされてしまっている所が多く、本丸が残されていない場所も多い。なお奥に見える学校の校舎は本丸がかつてあった場所に存在している学校である。

 

 

飫肥城敷地内に造られていた電話ボックスはこのように木造の造りとなっており、勿論これに使われていた木は飫肥杉である。今どきはなかなか都会で目にする機会が少なくなってきた公衆電話だけど、このまま消え去ってしまう物かもしれない。一説には災害時に無料で使える公衆電話の需要があると言われるけど、今どきの現代人は公衆電話は使えても、自分の電話を掛けたい相手の電話番号を暗記していないので、災害時に公衆電話を使っても電話を掛ける事も出来ないのかもしれない。。

オカン
オカン

昔は電話番号は暗記していたけど、ケータイが普及してからはすっかり忘れてしまったな・・・

 

この時は本丸の建物がこの敷地内のドコかにあるハズだと思い込んでいたので、それを探して奥へと進んで行きます。その途中には桜の木が見えており、春にはこの道で綺麗に桜の花が咲く事だろう。

 

その右手には大きな小学校の校舎とグラウンドが見えている。この辺りまで飫肥城の本丸が広がっていたようで、かつては東西に約750m、南北に約500mの面積があったようだ。

 

そんな広い本丸跡の中でも、この石段が一段と高い場所へと登れるようになっているので、この階段の上に天守閣があったのだろう。なおこの飫肥城は戦国時代に島津家に奪い去られた城だけど、逃げ堕ちた伊東氏は徳川家康側に付き、関ヶ原合戦後に天下を掌握した徳川家康よりこの飫肥城の支配権を譲り受けた。

 

飫肥城本丸の天守跡にて

そのように結果というものもどれぐらいの時間スパンで評価するかによって、その結果は大きく違ってくる。戦国時代だけを見ていると島津家の大勝利で終わった宮崎県周辺の勢力争いだけど、江戸時代に入るとその争いで負けたからこそ徳川家についた伊東氏が大きく形勢逆転する事になる。

日向夏男
日向夏男

結果って見方によって、大きく変わるのね!

 

この本丸跡には今ではこのように樹齢100年を超す飫肥杉が、100本以上も乱立する場所と成り代わっていた。てっきり天守閣のような建物があると思っていただけに、このような飫肥杉だらけの光景には度肝を抜かれた。

 

江戸時代に最初から最後まで家を守り通した伊東氏の居城だった飫肥城だけに、豪華な本丸があるかと思っていたけど、現実には江戸時代に起きた3度の大地震によって本丸内で地割れが発生し、それを受けて本丸は放置されてしまったそうだ。

 

その大地震の3度目は1686年に起きたらしく、それから御殿などが移転された為に約300年間に渡って放置されている事になる。ただその放置されている期間に今見られる飫肥杉が自然に生えたとは思いにくいので、これらの飫肥杉は誰かの手によって移植されたように思える。

 

このように今でもかつてこの場所に天守閣のような御殿があった場所だという雰囲気を感じさせる門などが見られる。しかし今ではこの本丸跡もこの石垣のある天守部分だけしか残っていなくて、この門の奥にはまた別の野球グラウンドが見えている。

 

 

本丸跡の景観 動画

 

 

本丸跡にこれだけの木が植わっている光景というのは、なかなか城跡でも殆ど見る事が出来ないと思う。これほどの規模のお城跡だったら、大概綺麗に敷地は管理されている。でもこの飫肥杉で有名な飫肥城だけに、このように何も無くなってしまった本丸跡を守るように飫肥杉が植えられたのかもしれない。

 

ここに生えている飫肥杉も近くで見ると、その木の表面にはこのように苔や他の植物も寄生しており、かなりの年代が経過している事を感じさせてくれる。

 

 

今の現代人にはあまり理解しにくいかもしれないけど、昔のこの地方では飫肥杉は宝物と考えられていたので、このように本丸に無くなった御殿代わりに植える価値があるものだったのだろう。

 

なので今更天守閣を再現してここに生えている杉を刈って作るよりも、この飫肥杉が乱立した光景を残したままにしている方が飫肥藩の歴史をこれからも残すには、いいのかもしれないと思う。

 

このように石垣の上にも木って生えるのかと疑問に思う光景であるが、石垣ってのは実際には表面側部分は石が綺麗に積み重なっているけど、その内側は砂利や小さな石ころで埋められているのでこのように木が生えるのも不思議ではない。

 

こちらは昨日の晩にここを訪れた際にも見た、かつての日南市長だった「河野禮三郎」の胸像。日南市長の中でも町興し運動を起こし、この飫肥城の復元などに尽力した人物。このように復元されたお城跡は全国で色々見る事が出来るけど、その裏にはその活動に尽力したこのような人物の地道で苦しい働きがあって、成し遂げられたものばかり。

なのでこういった人達には感謝しないといけないですね!

 

そして飫肥城跡地を後にしようと出口の大手門に向かって歩いていると、何やら昔風の恰好をしたオジサン達と、たった3人だけのテレビクルーを発見する。

 

近くにいた人に話を聞いてみると、今日はこれから地元ケーブルテレビ局の生放送を予定していて、この飫肥城の城下町で例年実施されている伝統的な【泰平踊】の撮影を行うんだとか。ただその生中継は17時過ぎから始まるらしいけど、今はまだ16時頃だったの時間潰しも兼ねて城下町を散策する事に。

 

小村寿太郎記念館にて

そして飫肥城下町の名物でもある「おび天」でも食べようかと思ったけど、購入済みの共通入場券で入れる施設が1つ残っていたので、先に残り1つの「小村寿太郎記念館」を訪問する。

 

ボクは戦国時代や最近になって江戸時代の歴史にとても興味を持っているけど、まだ明治時代までは手を伸ばしていないので、こちらに記念館のあった小村寿太郎という人物については全然知識が無い。しかしこの飫肥城下町では本丸に近い場所で生まれて住んでいた事もあって、ダントツ一番の有名人になっているのだ。

 

なおこの「小村寿太郎記念館」は、残念ながら館内は写真撮影禁止になっている。なので入口に置かれていた等身大パネルだけを写真に収めるけど、小村寿太郎は身長が156cmほどしかなかった為にアメリカ留学しても「ネズミ」とかとあだ名が付けられていたそうだ。

 

ただ身長が小さくて、まだ東洋人が珍しい時代にアメリカに乗り込んでいった小村寿太郎が凄かったのはガッツである。普通の人間であれば現地でイジメにあったりすると挫折して帰国してしまう事も多かったらしいけど、明治時代に海外留学生になった人の大半は成績優秀者ばかりだったので、そんなイジメを跳ね飛ばして海外でも成功できたのであろう。

 

このように外交官として明治時代に活躍した小村寿太郎の、資料や所蔵品などが所狭しと展示されていた。しかし残念なのはここも写真撮影禁止だった事。ただここでは明治時代に海外で活躍した人物程に、とても精神力が強くて、そんな人達が多かったからこそ、その後の日本が強国にのし上がっていたという事を学べた。

 

この小村寿太郎記念館の見学は約10分程で終了。まださっきの泰平踊りが始まるには早過ぎるし、おび天を晩飯にするにしても早過ぎる。とりあえずさっきの泰平踊りが始まるまでの様子を見物してから、その生放送収録が終わってからおび天のお店に行って晩飯にする事に決める。

しかし、おび天屋などのお土産屋は早く閉まるので注意です!

 

こんな旅はまた次回に続きます!

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