仙台の中心地だった史跡:仙台城跡でかつての面影を偲ぶ【仙台旅行記④】

仙台旅行記2020年秋-④

 旅行期間:2020年11月3日~5日
(A historical site that was once the center of Sendai: Reminiscing the past at the ruins of Sendai Castle)

先人が築いた偉大な城跡!

さて数時間ぶりに戻ってきた仙台市内、この通りはケヤキの街路樹が立ち並ぶ「青葉通り」という仙台市内の中でもメインストリートが見えている。この青葉通りは今見られる大きな道となったのは実は戦後の事で、空襲で大被害にあった仙台の街で大幅に区画整理が行われた為に誕生した通りでもある。ちなみにこの青葉通りは仙台駅手前から仙台城手前の橋を繋ぐだけの距離しかなくて、あまり長い道路ではない。

 

 

仙台城を目指して、ブラブラと歩く!

そして仙台市内に戻ってきてからの目的地は仙台城跡と決めていたけど、ボクはいつも通り歩きを考えていたが、オカンは電車かバスなどで行きたかったようだ。しかし初めての街は自分の足で歩けば歩く程に色んな刺激を感じれて、また記憶にも残り易いのでオカンを引き連れて歩きで仙台城に向かう。この青葉通りには銀行も多く見られて、こちらの仙台銀行では『政宗』という定期預金を行っているようだ。

 

ただこの『政宗』という定期預金は宮城県内に住む退職金を受け取った人向けの定期であり、年利は0.2%しか付かない。さらにその利息から税金が引かれるので、実質は年利0.159%にしかならない。これだと資産運用には全く不向きなので、米国株のVTIなどのETFを購入している方がよっぽど利益となるのであるが。。

オカン
オカン

最近になってこの子、株を初めてから株の話しかしないんです!(怒)

今までお金を銀行に預けていた期間が、株を始めるとアホらしく思えてしまいます。。

 

仙台市内も大都市だけあって、このようなアーケード商店街が広がっている。なおこのアーケード通りは「サンモール一番町商店街」という、1954年にこの東北地方で初めて造られたアーケード商店街だという。

 

 

 

それとこの青葉通りの地下には2015年に開通した「仙台市地下鉄東西線」の路線が走っていて、どんどんと便利な街になってきているようだ。東北地方というと2011年の大震災で大きく被災したイメージがあるけど、着々と震災からのダメージを回復して、更にはどんどんと成長してきているような印象を受けた場所であった。

 

こちらに見えるのは一級河川である「広瀬川」で、仙台市内を大きく湾曲しながら太平洋に流れ出ている川。仙台城はこの広瀬川の脇に造られており、この川を利用して港から船で物資を運んだり、川を背中にした防御を兼ねてこの川沿いに伊達政宗が仙台城を築いたとされているそうだ。

 

秋保大滝から仙台駅前まで戻ってきて、歩きではなく地下鉄を使って仙台城へ行くルート以外にも、こちらの「るーぷる仙台」という1999年に運行が開始された仙台市内の観光地を循環するバスもある。これも仙台空港で購入した乗り放題チケット:仙台まるごとパスも使えたが、15~20分間隔のダイヤとなっており、待っている時間があれば歩きたかったので結局乗る事は無かった。

オカン
オカン

せっかくこんな楽なバスがあるのに・・・orz

 

この広瀬川に架かる「大橋」を渡って行くと、左前方の高台付近ぐらいに仙台城跡があるハズだけど、その姿が確認できない。東北の雄である伊達政宗が大きな城を築いたというのは知っているけど、この仙台城がどういった状態の城だったか、また明治時代になってからの廃城令の後にどうなったかの歴史については全く無知である。

仙台の政
仙台の政

城はほぼ取り壊されて、昔の面影はほぼないでござる・・・

 

城というと素人は「大きな城郭を持っていて、その中心地に大きな天守閣があって・・・」とすぐに想像してしまうけど、実際に江戸時代にそんな城があったのはごく僅か。だけど昭和時代などに復元された城などで、元々は天守閣が存在していなかった城跡にも模擬天守と呼ばれる想像上の天守閣が建てられていたりするので、その造られた天守閣イメージが先行してしまっているだけなのだ。

仙台の政
仙台の政

ここ仙台城も天守閣はなかったでござる!

 

広瀬川を渡るとそろそろ城のあった敷地内に入ってきて、まず見えてきたのが「片倉(小十郎)景綱」の屋敷跡や堀などがあった場所。この片倉(小十郎)景綱という武将は伊達政宗の父の輝宗時代から伊達家に仕え、その有能さが認められて大いに活躍した人物であり、伊達政宗の片腕的な存在でもあった。

 

しかし今ではこのように何もない場所となって、空き地が広がっている光景しかない。江戸時代には武家屋敷などがあった場所で明治時代には練兵場や射撃場となり、戦後には空襲で家を無くした人や大陸から引き揚げてきた人達の「追廻(おいまわし)住宅」として約600戸ほどのバラック小屋が乱立していた場所のようだ。数年前までは残っていた建物もほぼ立ち退きが完了しているが、この仙台城下という特別な場所で育った人の立ち退きに対する抵抗も激しかったという。

 

 

 

仙台城跡地にて

そんなバラック小屋が数年前まで立ち並んでいた場所とは露知らず。今ではこの周辺にある青葉山公園の一部として整備されて、さっき見た片倉(小十郎)景綱の屋敷も復元される可能性があるという。

 

ここには「史跡:仙台城跡」という石碑が設置されているけど、ここからもあまり仙台城らしき城郭は見当たらない。ちなみにこの城は仙台城以外にも「青葉城」という呼び名があり、仙台城の敷地を払い受けた宮城県護国神社はその青葉城という名を採用しているという。またかつて二ノ丸があった場所もその敷地が東北大学に払い下げられており、今では大きなキャンパスが城の敷地内だった場所に造られているのである。

 

そしてこの城敷地内には仙台市博物館もあるけど、今日はゆっくり見学している時間がないので後日に回す事に。そしてフラフラとどこから進んでいいのかと思って歩いていると、こちらの不思議なオブジェの像が見えてきた。

 

こちらの案内板に目を通すと、ここは「五色沼(ごしきぬま)という日本フィギュアスケート発祥の地とされている場所らしい。ここは元からあった池ではなくて江戸時代に人工的に造成された堀で、昔は冬になると人が普通に凍った池の上で走り回れる程に凍ったようだ。

 

江戸時代には庶民はこの仙台城敷地内には立ち入る事が出来なかったが、明治時代以降には廃城令もあって徐々に庶民も立ち入るようになる。また明治時代になって外国人がこの仙台にも移り住んできて、彼らがアイススケートを教えるようになり、更にはドイツ人教師からフィギュアスケートを教えられた為に、ここがフィギュアスケートの発祥地となっているようだ。なのでこの像もよ~~く見ると、『無限への軌跡』という地元の彫刻家:翁ひろみ氏が制作した、男女がフィギュアスケートを踊る様子になっているのが分かる。

 

明治42年頃にドイツ人教師からフィギュアスケートを教わった人達が、後に日本全国でスケートを広めて”日本フィギュアスケート界の功労者”と言われているようだ。だからそれもあってこの最寄り駅である「国際センター駅」の前には、羽生結弦や荒川静香などのパネルなどが設置されている。

 

この沼と言うか池を挟んだ奥に三ノ丸があって、今では仙台市博物館となっている。なお、この五色沼では昭和の前半まで普通に冬場は凍って、フィギュアスケートやアイスホッケーの試合が行われていたという。

 

しかしこの五色沼で冬にウインタースポーツが行われるのは1956年が最後になったらしく、それ以降はヒートアイランド現象や地球温暖化の影響もあって、冬場に水面は凍るものの、人がその凍った水面の上を渡れる程に厚く氷が張らなくなってしまっているという。

仙台の政
仙台の政

そうか、現代では池も凍らぬか!

 

広瀬川を渡って進んできている時には左手側に気を取られ過ぎていて全然気付かなかったけど、右側にはこのように城郭跡が見えてきている。城にあった建物などは取り壊された物が多いけど、このように城の土台となった石垣が今でも残されている場所が多い。

 

なおこの「大手門北側土塀」は仙台城に唯一現存している当時の建造物で、他には仙台城の面影を残す建造物は何もないという。またこの大手門北側土塀は2011年に発生した東日本大震災の際に被災して、土塀が崩れ石垣が膨らんだ事もあって、今見られる土塀などは修復された物になっている。

 

 

そんな石垣を見ていると、このデザインマンホールを見逃してしまいそうになった。こちらは鮮やかな色が付けられた絵タッチのデザインとなっており、普段他の場所で見るデザインマンホールとは一味違った物となっていた。

 

そしてそんなカラフルなデザインマンホールから視線を上げると、何やら城らしき建物が目に飛び込んでくる。こちらに見えてきた建物は「大手門隅櫓」という、手前に写真がある大手門の脇に造られていた櫓である。ただ仙台城にあった建造物の大半は廃城令によって取り壊され、昭和時代まで残っていたこの大手門隅櫓と大手門は国宝に指定されていたけど、第二次世界大戦中の空襲によって両方共に焼失してしまっている。

 

という事で今見られる、この大手門隅櫓は戦後の1967年に民間の寄付で再建された建物である。ただこの城っぽい雰囲気を持つ建物があるだけで、この大手門隅櫓を見るだけで仙台城らしさをイメージできる建物として仙台市民に愛されている建物だという。

 

ただ同じ時に焼失した大手門は残念ながら復元されていないけど、この大手門も復元運動が起きており、今後20年以内に復元する予定で動いているという。そしてこの大手門復元の資料を調べている時に、写真に写っている昔の大手門隅櫓の形状と再建された大手門隅櫓が異なっているのが判明し、また大手門隅櫓は老朽化もあって大手門復元時に合わせて再建される予定なんだとか。

 

 

こちらの石碑には「仙臺城」という名前が掘られているのが見える。こちらに使われている「臺」という漢字は昔使われていた漢字で、伊達政宗時代に城が建築された時に付けられた名前だという。ちなみにこの「臺」という漢字には、物見台や周りを見渡す高い建物といった意味があるんだとか。

 

 

さてそろそろ仙台城の本丸へと向かう大手門があった、近くの交差点に差し掛かる。オカンの頭の中では早く仙台城までとりあえず行きたいという気持ちになっているので本丸の方に顔が向いてしまっているけど、ボクは右側の道を渡った先に銅像を発見したので近寄ってみる事にしたのである。

 

大手門前に鎮座する支倉常長の像

こちらが大手門前の交差点付近で発見した銅像。てっきり伊達政宗に近い人物の有名な武将かの像だと思って、本丸の方に向かって歩いていくオカンを放って銅像の方に駆け寄ってみる。

 

するとこのように「支倉常長(はせくら つねなが)という、懐に刀を差した人物の銅像だった。歴史に詳しい人であれば名前を聞けば分かるのだろうけど、学生時代に全然勉強に興味が無かったボクの頭の中からは、全くこの名前を聞いても思い浮かんでくるものが無かったのである。。

 

この支倉常長は伊達政宗が藩政を行っていた1612年頃に、交流のあったスペイン経由でカトリックの本場であるローマへ渡り通商交渉を行う目的の『慶長遣欧使節』の代表として任命されて、江戸時代初期にヨーロッパに渡った人物である。

(※戦国時代の1584年頃に、伊東マンショを初め4人の青年団が『天正遣欧少年使節』として、ローマの地へと渡っています)

 

今から約400年も前に日本からヨーロッパに渡った数少ない人物の支倉常長は、無事目的のローマの地に辿り着きローマ法王と謁見するものの、お互いが求めるものが異なった為に交渉は頓挫して、失意半ばで帰国する事になる。更に帰国するとキリシタン禁止令が出ており、支倉常長は帰国して約2年後に失意の中で死去したという。

 

そのような江戸時代にヨーロッパに渡った日本人であるという歴史的な事実も当時は公にされず、歴史に埋もれてしまったかのような支倉常長だった。しかし明治時代になってから岩倉具視・伊藤博文・大久保利通などを含んだ『岩倉使節団』がヨーロッパを訪れた際に、自分達より250年以上も前に日本人がヨーロッパの地を訪れていた事実を知らされ、歴史に埋もれていた支倉常長の存在に陽の目が当たるのであった。

 

こんな旅はまた次回に続きます!

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