仙台城本丸跡で待ち受ける伊達政宗騎馬像は、実は2代目【仙台旅行記⑤】

仙台旅行記2020年秋-⑤

 旅行期間:2020年11月3日~5日
(The statue of Date Masamune waiting at the site of the main castle in Sendai is actually the second generation.)

広々とした本丸跡!

ここは仙台市内にある伊達政宗が築いた仙台城跡。東北地方の中でもひと際大きな城だった仙台城の、その強固な出入口となっていた大手門がこの奥に向かって伸びている道路の場所に、かつてあったという。そんな強固な城造りを江戸時代初期にこの地を訪れたスペイン人探検家が視察した際に、その強固な造りに驚嘆したという話も残されているという。

 

 

仙台城跡地に足を踏み入れる!

こちらの写真を見れば、今は道路が走っているこの場所にこのような立派な大手門が存在していた事が分かる。明治時代になって廃城令が出た後もこの大手門とその脇にある櫓は残される事になったが、第二次世界大戦中にこの仙台の街も空襲に遭い、その際に残念ながらこの歴史的にも貴重な建造物は焼失して姿を消してしまったのである。

 

そして大手門のあった場所を抜けて先に進んで行くもこのように道が続いており、簡単には本丸には辿り着かさないという意図を感じる光景が待ち受けている。江戸時代に建造された城の造りは長年の内乱で得た経験をフル活用し、更には築城技術もどんどん向上していた事もあって、難攻不落な構造となっている所が多い。特に勇猛果敢で武勲に優れた武将が治めていた城ほどに、攻め込まれた時を想定して手の込んだ城になっているように思う。

 

この仙台城は江戸時代までは城として機能していたが、明治時代に出た廃城令で多くの建造物が解体され、昭和時代には数少ない現存する建造物だった大手門と脇櫓も焼失してしまって、現存している建造物はさっきの大手門北側にある土塀のみ。しかしこれらの石垣は当時から残されているものだけど、この石垣も度々起こる地震によって崩れたりしているので、その度に補修されている。

 

なので今ではこのように綺麗に積まれている「中門石垣」が見られるけど、何回も補修されているからこそ、このような綺麗な外観になっている訳である。1977年に一度解体修復がされたが、2011年に被災して解体修復する際に1977年の修理時に地盤沈下を防ぐ為にコンクリートを使っている痕跡が見つかったという。しかし2011年の修復の際には伝統的な石垣に戻す為にそのコンクリート部分は剥ぎ取り、従来の石垣に戻されているという。

 

「中門石垣」という石垣があるという事は、ここに「中門」という関所があったようだ。この中門は大正時代の1920年まで現存していたが、老朽化もあって解体されてしまっている。

 

このように今では簡単に車が行き交う道路となっているが、江戸時代には大事な本丸に繋がっていた道だったので、ネズミ一匹通せないような厳重な警備が敷かれていた場所。

オカン
オカン

車移動は快適そうやな~!

 

そしてこの中門跡を通り過ぎると、道は右側に折れ曲がり、更に坂道が続く光景が見られる。このように観光地だとすぐに写真スポットに辿り着きたい気持ちになってしまうけど、大きな城跡になればなる程に本丸まではなかなか辿り着けずに、侵入してくる敵を惑わせて疲弊させるような順路が造られているのだ。

 

勿論侵入者にとって本丸へ辿り着くのが困難な城というのは、そこで執務を行う者達にもそれなりにシンドイ道だった訳である。とりわけ江戸時代に入ると今までには考えられない程平穏な時代を迎えて、日本全国で行われる戦が殆ど無くなってしまった。なのでこの仙台城のように堅固な城造りをしていればする程に、藩政を行うにはシンドイ場所となっていく。

 

 

この仙台城で働いていた人達からすれば、毎日大手門から本丸までの湾曲し高低差がある通りを何回も往復していた訳である。ただ城もせっかく立派な城を築いてしまったので使わない訳にはいかなかったけど、この伊達政宗が築いた仙台藩では、彼の跡を継いだ2代目藩主:伊達忠宗の時代になると、大手門の出た所にある今は東北大学のキャンパスとなっている場所に二ノ丸を築き、そこで暮らして藩政を行う事にしたのである。

 

こちらは「本丸北壁石垣」という、本丸の土台となっている石垣が見えてくる。なお強大な敵に攻め込まれても強固な守りで防ぐ為に立派に造られた仙台城も、伊達政宗は当初のそういった要素が江戸時代に無くなってしまった事を認識し、遺言として「自分が死んだ後は、改築しろ」と残したとか。

 

この本丸北壁石垣は2000年前後に補修工事が行われた際に、3時期に渡ってこの石垣が構築されてきた事が判明したようだ。今はこのように立派な石垣も一気に造られた訳ではなくて、徐々にその規模を増やしていった事が分かる。

 

このような角石は”武者返し”とか”忍者返し”とか名前が付けられているように、その石の隙間もない程に積み重ねられている。こちらの石垣は先述したように2000年前後の補修工事で一旦解体された後に復元されているが、その補修工事があったから2011年の大震災の時にはビクともしなかったという。

 

城の土台となっている石垣も中世時代の造りに比べると、江戸時代に造られた石垣はとても綺麗に、かつ強固に石が積み上げられている。それだけ石垣の建造技術が格段に向上した事を示しており、まさに城建造ブームの絶頂期だった事だろう。

 

さて大手門から曲がりくねって坂だらけの道を歩かされて、既にそのお疲れ感が全身に滲み出ているように見えるオカン。オカンがもし江戸時代に生まれていたら、この仙台城で働く事は出来ていなかった事だろう。。

オカン
オカン

循環バスに乗れば、楽に来れたのに。。

 

 

仙台城本丸に進む!

そしてその大きな石垣を抜けると、仙台城本丸の入口が待ち受けている。しかし城には珍しく大きな鳥居が、本丸入口に待ち受けている光景が見られる。実はこの鳥居を建造した宮城県護国神社は明治時代にこの仙台城本丸付近の敷地を払い下げで購入しており、この辺りは宮城県護国神社の敷地になっているという。

オカン
オカン

だから鳥居をくぐらないと、本丸に入れないのね。

 

だから普通これだけ大きな城って史跡として市町村がきちんと管理しているイメージがあるけど、この仙台城はその大半が宮城県護国神社と東北大学の敷地となっており、歴史的な建造物などの復元が簡単に行えない状況下にあるようだ。

 

仙台城の本丸は伊達政宗が住んでいた場所でもあるが、ここ仙台城には元から天守閣という殿様の威光を表す建物はなくて、大広間程度の建物があった場所。今ではそんな大広間があった場所で発掘調査が行われた結果、その遺構を示す表示が残されている。

 

このように本丸まで上がってくると、高台だけに周辺の景色が見渡せる場所になっている。特に仙台城から北~東側がよく見渡す事が出来て、今の仙台市中心部になっている盆地エリアをよく観察できる場所になっているようだ。

 

前回の九州旅で訪れた福岡城なども天守閣は無かったし、この仙台城にも天守閣という建物は無かった。というよりも江戸時代の城に、天守閣を造る必要性が少なかったのではなかろうか。元々は中世の城の本丸に物見櫓として高い建物を造っていたものが、世の中に自分の威光をアピールする為に織田信長や豊臣秀吉が立派な天守閣のある城を造っただけではなかろうか。

 

普通に藩主が藩政を行うだけの場所なので、特段高い建物は必要ない。しかも本丸はただでさえ高い場所に造られているので、その高台にある本丸で天守閣のある高い建物を造っても、避雷針もない時代は雷が最も落ちやすい場所となっていた。だから江戸時代には多くの天守閣などの高い建物が、雷が落ちて焼失してしまっている。今とは違って避雷針もなく、木造建築物は火が出ると簡単に燃えてしまった事だろう。

 

そんな大広間があった跡を過ぎて進むと、見晴らしのいい場所に反対側を向いた騎馬像が見えてくる。勿論伊達政宗の像は実際に見た事がないけど、何回も写真で目にする機会があったので、これがその伊達政宗の像だろう。

 

この仙台を治めていた仙台藩の藩祖である伊達政宗。日本人からするとその名前を知らない人はいない程の有名な人物であるが、ここにその伊達政宗の騎馬像が設置されたのは1935年の事。しかしその騎馬像は1943年の戦争中に発令された『金属類回収令』によって没収されてしまい、今見られる騎馬像は2代目となっている。

 

こちらはこの仙台城の本丸にあった大広間や、その周辺の建物などを再現したCG画像が展示されている。見るからに広い本丸となっており、色んな建物が造られていたと考えられている。

仙台の政
仙台の政

現代の技術だとここまで再現できるのか、凄いでござる!

 

第二次世界大戦中に没収されてしまった初代の騎馬像は、実は上半身だけが今でも現存しており、この本丸の下にある仙台市博物館の脇に今も展示されているという。というのも戦争時に伊達政宗の騎馬像が没収されたけどすぐに溶かされてしまった訳ではなくて、近くの金属集積所に一旦保管されていたという。

 


 

 

仙台市博物館脇にある、初代伊達政宗の胸像

こちらが仙台市博物館の脇に置かれている、初代:伊達政宗の騎馬像である。戦後まで金属集積所で保管されていた騎馬像は上半身を残して溶かされてしまうが、奇跡的にこの上半身部分だけは残されていたという。一説には施設の人間が伊達政宗を溶かすのに恐れを抱いていたからという話もあり、その残されていた上半身部分を見つけた有志が買い取り、後に寄付されて今では博物館脇に展示されているという。

仙台市博物館にも寄りましたが、この初代像の存在を知らずに見逃してしまいました・・・

仙台の政
仙台の政

もっと目立つ所に飾って欲しいでござる!


 

騎馬像の台に取り付けられていた、このようなレリーフも全て戦時中に没収されてしまっている。鉱山資源に乏しい日本国は、近代戦争で金属が大量に必要となった為に、仕方なしに全国で銅像に使われている金属を使わざるを得なかったのだろう。

 

今ここで見られる伊達政宗の騎馬像は1962年に設置された2代目で、初代の騎馬像を造った地元出身の彫刻家:小室達(こむろ とおる)が1953年に亡くなっていたので、初代製造された時の型から再建された像となっている。しかし実はこの初代と2代目の像の空白期間に、ここにコンクリート製の伊達政宗の立像があったそうだ。

 

そのコンクリート製の立像はこの2代目の像が造られた時に、伊達政宗が仙台城に移る前まで居城にしていた岩出山城の敷地内に移動されて、今でも現存しているという。なので伊達政宗好きな人だったら、岩出山城に訪れてみるのもいいかもしれない。

仙台の政
仙台の政

この立像はちょっとワシのイメージには合わんでござるが。。

 

 

 

ここ仙台城から見る仙台市内の景色は、大都会という一言に尽きる。仙台藩の城下町として栄えた場所であるが、第二次世界大戦中には仙台空襲で大きな被害を受けたけど、今ではその時の爪痕も感じさせない大都会となっている。

 

東北地方にやって来たのはこの仙台が初めてだったので、東北でもこれだけの大都市に発展しているイメージが頭に刷り込まれた。しかしこの翌月に秋田市や山形市を訪れたけど、同じような新幹線が停まる県で最も発展した秋田駅や山形駅が想像以上に小さく感じてしまった。。

仙台の政
仙台の政

ワシの治めた仙台と、秋田や山形と比べてはイカンでござる!

 

このように今では見晴らしのいい仙台の街を見下ろせる展望スポットと化している、仙台城跡。仙台藩も江戸時代にはその家柄を何とか守り抜き明治時代を迎えたが、その約250年間の歴史の中ではスッタモンダの騒動が度々起こっていたようだ。

 

ここに来ると台座の上に飾られている騎馬像ばかりに目が行ってしまうけど、この土台に嵌め込まれているレリーフにも注目したい。このレリーフも元々は初代の伊達政宗騎馬像を制作した小室達が作った物で、これも金属類回収令で没収されてしまう。しかし伊達政宗騎馬像の再建に合わせて、残されていたレリーフの原型を使って死去していた小室達に代わり、親交の深かった翁朝盛が復元した物が今では嵌め込まれているのである。

(※翁朝盛は先程下にあった五色沼脇で見た、フィギュアスケートをしている男女のオブジェを制作した翁ひろみの父)

 

そのように一度は姿を消してしまった伊達政宗騎馬像も、仙台の街が復興したシンボルとして、今でも、そしてこれからも仙台城の本丸から仙台の街を眺め続けているのである。

 

こんな旅はまた次回に続きます!

よければ下記ブログ村のボタンをポチッとお願いします!

にほんブログ村 旅行ブログへ にほんブログ村 旅行ブログ 国内旅行へ

↓↓↓↓仙台旅行記:初回↓↓

伊達政宗の築いた杜の都:仙台で、旅の初めは秋保大滝から【仙台旅行記①】
2020年11月上旬に訪れた、宮城県仙台への旅。初の仙台に到着した後は、早速有名な名勝である「秋保大滝」へとバスに乗って向かいます!
タイトルとURLをコピーしました