仙台旅行記2020年秋-㉞
旅行期間:2020年11月3日~5日
(Visit the mausoleum of Date Tadamune II and Date Tsunamune III at Zuihoden.)
伊達政宗子孫の霊廟
仙台市の旅は最終日を迎え、今日はまず仙台市内にある伊達政宗の霊廟「瑞鳳殿」にやって来ました。江戸時代初期に伊達政宗が死去した翌年に造られた瑞鳳殿は、それ以来約300年近く現存して国宝にも指定される程に歴史的な建造物として残されていたが、残念ながら戦時中の空襲によって焼失してしまう。なので今見られるこれらの建物は戦後に復元された物となっている。
瑞鳳殿で政宗子孫の霊廟を見学!
この瑞鳳殿には伊達政宗の霊廟だけではなくて、彼の子孫である仙台藩主2代目伊達忠宗や3代目伊達綱宗、またそれ以外にも仙台藩主9代目伊達周宗の墓、仙台藩主11代目伊達斉義の墓なども敷地内に安置されている。
これらの霊廟も戦時中の空襲によって焼失してしまったが、伊達政宗の霊廟が復元された際に合わせて同じように復元された建物となっている。
仙台藩として江戸時代通期に渡ってこの仙台の地を治めてきた伊達家だが、伊達政宗以外に他の歴代藩主の名前を1人だけでも挙げる事すら難しい程に、残念ながら知名度が全くと言っていい程無い。伊達政宗の名前が大き過ぎるのもあるけど、他にはそれだけ全国的に有名になる程の人物が表れなかったという事実を表しているのかもしれない。
伊達忠宗の霊廟である「感仙殿」
階段を登っていくとこちらも門が見えてきたけど、伊達政宗の霊廟とは違ってここは門の脇から入るのではなくて、このように門が開いているので普通に門の中を通って入るようだ。
こちらの霊廟は伊達政宗の息子(次男)である仙台藩主2代目伊達忠宗の物だが、さっき見た伊達政宗の霊廟と似たような建物となっている。なおこちらの霊廟はあえて伊達政宗の霊廟を向く方角に、正面を向けて造られているという。
仙台藩主2代目伊達忠宗の霊廟である「感仙殿」。こちらも復元された建物なので綺麗な装飾が施された外観となっているが、仙台藩伊達家当主の墓は主に3代目までこの瑞鳳殿に安置されたが、それ以降の藩主の墓は近くの南東にある大年寺山に安置されているという。
こちらの霊廟の脇にも何やら灯篭や石碑のような物が見える。この仙台藩主2代目伊達忠宗が死去した際にも家臣の一部が、主人を追いかけるように殉死している。今から見れば考えられないような行為であるが、昔の人達の考えからしたら一般的だったようだ。
それだけ昔は主従関係が強く、密接だったという事でもある。このような自分の命を捨ててまで行う行為は、後の第二次世界大戦中で行われた特攻隊などの精神に通じるものがあるようだ。
伊達政宗の息子である仙台藩主2代目伊達忠宗だけど、実は長男ではなくて、次男がその仙台藩を継いだ。というのも長男は秀吉への人質として出されたり、その後は徳川家康の元で元服したりで紆余曲折を経て、その後は四国の宇和島で伊達家別家を興している。
こちらの霊廟は伊達政宗の霊廟が1979年に復元された後、1985年になってから復元されている。なお元々この瑞鳳殿は伊達政宗が亡くなった翌年に、その跡を継いだ第2代仙台藩主の伊達忠宗が築いたもの。
この感仙殿の発掘作業で出土した、こちらの色んな文字などが刻まれた「板碑」は中世の頃より宗教的な意味合いで造られた物らしいが、どうやらこの感仙殿ではそういった目的ではなくて、棺の代わりとして埋められていた物らしい。
感仙殿の景色 動画
感仙殿の正面扉も、この部分だけを見ていると伊達政宗の物か、それとも2代目伊達忠宗の物か区別が付かないように見える。これらの装飾も時間が経つと徐々に色褪せていくので、定期的に色を塗り直していかないとこれほど鮮やかな色彩を守り続ける事は出来ないのだろう。
伊達綱宗の霊廟である「善応殿」
そしてその感仙殿の隣に、また同じような装飾が施された霊廟が建てられているのが見える。こちらは「善応殿」という名前になっており、仙台藩第3代藩主の伊達綱宗の霊廟となっている建物だ。
仙台藩第2代藩主:伊達忠宗の6男として生まれた伊達綱宗であるが、長男や次男は早折した事もあって伊達家の嫡男となり、仙台藩主を継ぐ事になる。しかしこの伊達綱宗は藩主としての評判はあまり芳しいものではなかったようで、家臣団からの不満を聞き受けた江戸幕府から隠居させられる結末となってしまったようだ。
江戸時代の藩主達は自分の方針を強引に押し通していたイメージがあるけど、あまりにも家臣団の要求から離れた傲慢な政策を行っていると、江戸幕府に告げ口されて場合によっては隠居勧告が出され、藩主の座から引きずり降ろされる事も多々あったようだ。あの上杉家を復興させた上杉鷹山も、弛んでいた家臣団を正そうと行動したら反発を喰らって、下手したら強引に隠居させられる可能性も無きにしも非ずだったようだ。
そんな家臣団によって藩主の座から引きずり降ろされた伊達綱宗も、偉大なる伊達政宗の血を受け継ぐ藩主だったので、死後はキチンとこのような豪勢な霊廟が築かれたようだ。
しかしこの伊達綱宗が亡くなった時には、一緒に主人と殉死したいという家臣に対して自害を禁止させたので、その代わりに頭の毛を剃って100日間に渡って弔い続けたという。今でも政権が移行する際にはその前勢力の人物は登用されない事もあるけど、どの時代でも有能な人物はその次の代でも活用したかった事だろう。
だから前の主人が死んだからと言って死ぬのではなくて、その才能を次の藩主の元で生かしてほしいという気持ちもあって、1663年に江戸幕府4代目将軍:徳川家綱が『殉死禁止令』を発布していた。1つの藩だけでも数十人の家臣団が先代と共に死ぬのは損失だけど、全国に100を超える藩を束ばねる江戸幕府の立場からすると、有能な人材が何千人も無駄に失う事態になる。なおこの『殉死禁止令』によって大幅に殉死者が減ったという。
無駄に死ぬよりも、残された生をトコトン活かして欲しいでゴザル!
昔の武士達の考えには”一生二君に仕えず”という終身雇用制度の元になりそうな思想が根強かった為に、主人が亡くなった時に殉死するという風習があったという。しかし昔は戦で主人が敗れた際に殉死して、病死では殉死はしなかったらしいけど、江戸時代初期には病死でも殉死するという風潮がピークを迎えていたという。
さてそんな仙台藩主伊達家の第1代~3代までの霊廟を見学して、瑞鳳殿を後にします。なかなか日本国内ではこれほどまでに豪勢な装飾が施されている霊廟を見れる機会がないだけに、とてもいい経験となった瑞鳳殿。
そんな瑞鳳殿の参道の道を歩いて帰っている途中に、このような「ずんだアイス」という仙台ブランドの豆を使用したアイスの旗が見えてくる。オカンは仙台に来てから購入したずんだ餅をコッソリと食べた際に、そのずんだ餅がとても美味しかったと何回も言っていた。
ホンマにずんだ餅、旨かったで!
広瀬川を渡り、博物館を目指す!
さて伊達政宗の霊廟を見学した後は仙台城敷地内に造られている博物館を訪れる予定にしているが、引き続き循環バスには乗らずに徒歩で向かうとする。普段から簡単に歩ける散歩並みの距離しか離れていない場所なのであるが、この時はその選んだ選択を珍しく後悔する事となる。。
というのも前の松山旅行でサイクリングした際に久々にペダルを漕がされた膝がビックリして、その矛先が左膝の骨の一部を痛めてしまったからだ。普段あまり運動をしない人がいきなり負荷の高い運動を長い時間行うと、筋肉痛が起こるのは勿論、その負担は骨にまで及ぶ。筋肉痛だと数日で筋肉が回復して新しくて強い筋肉が再生されるのだが、骨が成長するには数ヶ月という長い時間を必要とする。
最近は年に1~2回しか自転車に乗らなくなっていたのに、急に1日6~7時間に渡ってロードバイクを漕いだので、その相当な負担が膝に掛かり、その膝の骨が悲鳴を上げながら新しく成長する段階に入ってしまった。なので歩く度に左膝の骨が痛み、ドンドンと痛みを増していき、更には歩きでオカンに遅れる程にまで痛んできたのである。。
普段偉そうにしているから、その天罰や!
広瀬川を眺める 動画
そんな痛みがドンドンと増していく膝を何とか引きずりながら、仙台城手前にある橋まで辿り着く。普段ならガシガシという感じで歩いて行けるのであるが、この時ほどその普段に普通に歩けるという行為の有難さを思い知ったのである。
普段何気ない事が幸せだと、再認識した瞬間です!
そして橋を渡り、やっと仙台城の敷地内に入ってくる。この時は常人の半分以下のペースでしか歩けなかったので、そんなには早く歩けないオカンにも置き去りにされる程だった。。
目的地の仙台市博物館は仙台城の三ノ丸部分に造られており、初日に訪れたように高台ではなく、ほぼこの通りからフラットに近い場所に造られているので、助けられたような気分になった。
だからバスに乗ろうって、言ったやないの!
初日に訪れて以来、再びやって来た仙台城。最近の国内旅で訪れた地方でなるべく歴史を勉強できる博物館を訪れるようにしているが、これから向かう仙台市博物館は結構広くて見応えがあるという口コミを見ていたので、膝の痛みを我慢して歩き続けれる事が出来た。
そうしてやっと仙台市博物館に到着します。ただこの時は膝が痛い事もあって博物館周辺を散策しなかった為に、博物館脇(左手)に置かれている、復活した初代:伊達政宗騎馬像の存在にも気付かなかったのである。。
ワシの騎馬像も、博物館正面に置けばいいのに!
こんな旅はまた次回に続きます!
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